夜は音もなく近づく 2

 汗を流し、荷物を下ろした一室へ戻ると、面倒くせーからもうそのまんまでいいよな、と今日の部屋割り担当であるゼフェルに言われ、ヴィクトールは構わないと肯いた。
 夜が深まると、オスカーは熱に魘されはじめた。
 氷を貰ってきて宛がった後は、出来ることもそうなくて途方にくれていると、コンコンとちいさなノックの音がした。
 彼は静かにすべるように戸口へ近づいた。ドアを引くと、細い隙間から水色の髪の流れが目に入った。
「オスカーは眠っていますか?」
と水の守護聖は囁き声で聞いた。
「はい」
 ただ容態は、と先までは言わせず、
「それは良かった」
 リュミエールは安堵の息をついて言った。
「お手伝いできることはないかと思って来たのですけれど、起きていたら、かっこわるいところを見られたとか借りを作ったとか言って、不機嫌になるのが目に見えていますからね」
 てきぱきとオスカーの布団を剥ぎ、その上に身をかがめて包帯の上に手を当てた。優しく魔法が動き出す。
「それで忍んでこられるなんて、まったくあなた方は、仲が良いのか悪いのか分かりませんね」
 施療が一段落つくのを待って、ヴィクトールは苦笑交じりに言った。
「悪いのですよ」
 リュミエールは莞爾として答えた。笑い事になる程度の話だというわけだ。
「これでいいでしょう」
と、寝台から離れる。
「あなたもお怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫です」
 微笑に首を振れば、リュミエールは真顔で彼を見上げた。
「本当に?」
「はい」
 念を押すというのは疑いの表明だ。リュミエールがそんな顔をするということが、たとえ心配からだとしてもヴィクトールにはショックだった。つい、言葉を短く切った。
「では、ゆっくりお休みくださいね」
「お気遣い有難うございます」
 ヴィクトールはうやうやしく見送ってからベッドサイドに戻った。寝顔は先刻よりは安らかに見えた。
 目を覚まさないだろうか、と何処か心待ちにしている自分に気付いた。
 いやいや、回復のためにはしっかり眠って頂かなくては。
 何を考えている、と己を叱咤したとき、うっすらと瞼が持ち上がった。薄青い瞳に、意識の光が一瞬のうちに広がった。
「何か俺に出来ることはありますか?」
 ヴィクトールはそっと囁いた。
「咽喉が渇いた」
 そっけなく言おうと努力した風だったが、咽喉に絡んだ声になった。
「内臓をやってるときに飲むとまずいでしょう」
 水差しからコップに井戸水を注ぎ分け、タオルを浸して唇を濡らすと、青年は不満げに鼻を鳴らした。
「他には?」
「お前も休め」
「しかし」
「俺も気配には敏感な性質でな。そう側にいられちゃ鬱陶しい」
 気遣い半分、本音半分か、とヴィクトールは思惑を計った。
「何かあったら呼ぶ」
「……分かりました」
 ベッドから離れようとして、2歩。ヴィクトールは後ろを振り返った。
「絶対ですよ」
「ん?」
「何かあったら、ちゃんと呼んでください」
 いいですね、と睨めつける。オスカーは笑みを滲ませた目で頷いた。

 夏のただ中にある町の夜は短い。
 習慣のジョギングをこなしてからテーブルについたヴィクトールは、朝食のスプーンを取り上げたところで、ふと考えた。
 オスカーは、そろそろ起きているかもしれない。眠ったり起きたりを繰り返していたが、傷自体は癒されている。サクリアの加護か、鍛えているからなのか、身体の回復は早い。
 ヴィクトールは皿を一枚取り上げて寝室に向った。近づくとかすかに気配が漏れてきて、オスカーが起きているのが分かった。
「オスカー様、何か召し上がれそうですか?」
 ドアを開けると、ベッドサイドで光の守護聖が振り返った。一人だと思い込む理由は何処にもない。迂闊だった。
「失礼致しました」
 あわてて折り目正しく腰を折るヴィクトールにジュリアスは手を振ってみせ、
「いや、よい。どうした」
と、ご下問あった。
「朝食はいかがかと思いまして。ホワイトシチューですが」
 ジュリアスはふむ、と肯いた。
「どうする、オスカー?」
 顧みられた右腕は無言で、困ったような甘えたような顔をした。ジュリアスはそれを、穏やかに目を細めて見下ろした。
「寝起きで食欲がないかもしれないな。もう少ししたら、私がまた何か届けよう」
「申し訳ありません……」
 オスカーが頼りないほど小さな声で返事を返した。ジュリアスは彼に優しく微笑みかけている。見たこともない、見てはならないような気さえする2人の姿だった。
「そういうことで、よいな、ヴィクトール」
「は、ではお大事に」
と、そう言う以外に答えようもない。
 食堂に戻るとテーブルの向かいでゼフェルが目を瞬かせていた。はっと気付くや開口一番、
「あんた、あのヤローとそんなに仲悪かったかよ」
「どうしてそんなことを仰るんですか?」
「ははーん、さては知らなかったな。アイツはホワイトソース嫌いなんだよ」
 ゼフェルは空中でフォークをくるくると回しながら教えた。ヴィクトールは行儀を注意するのも忘れて少年をみかえした。
「それは、確かに知りませんでしたね」
 が、そう聞けばオスカーの気恥ずかしそうな態度も納得がいった。
「アイツ、女の前じゃ姑息にもかっこつけて隠しやがるけど、結構あるんだぜ。マヨネーズだろ、グリーンピースだろー」
「ほう」
 気付かなかったのではなく故意に伏せてあったのだと、例を挙げられてはたと気付いた。思いのほか傷ついた。
 自分といるときのオスカーは気障に格好をつけたりしない。それが素顔なのだと信じていた。
 オスカーはあれで地道な努力家で、自信に見合うだけの実力を持っている。思慮深くしかも決断力に富み、寛容で、誠実で、タフな男だ。
 だが美辞を継ぐごとに心は冷めていく。素でそんなに立派な人間がいてたまるか。食べ物だけじゃない。オスカーは自分の前でも、演技しているのだ。


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