夜は音もなく近づく 1

 長い牙がその人の体を貫いて血に濡れるのをみた瞬間、頭が真っ白になった。
 剣がひとりでに走り、ああ日頃の訓練の賜物だなあなどと、場違いに冷めたことを考えている。
 ヴィクトールはモンスターが獲物に身動きを封じられている隙に横から一撃を加えた。オスカーの体がぐらりと傾いだ。ずるりと牙の抜けたあとから、鮮血があふれて地に溜まった。
「オスカー様!」
 アンジェリークが駆け寄って膝をついた。
 ヴィクトールはモンスターに止めを刺してから踵を返した。近寄っていってもオスカーはぴくりとも動かない。
「こんなときこそ回復魔法が使えたら……!」
とアンジェリークが唇をかむ。
「僕は少し魔法が残ってる」
 セイランが彼女の後ろから身をかがめ、指先を血に浸した。まだ荒い息を抑えて短い詠唱。
「焼け石に水かな」
と双眸を眇める。
 ヴィクトールは無言で救急キットを取り出した。ガーゼを宛がって直接圧迫止血を施し、包帯を巻き終えふと顔を上げると、
「おーい」
 手を振りながらチャーリーが駆けて来ている。ついさっきまでそこにいたはずだが、と不可解に思っているとセイランが疑問を代弁してくれた。
「君、一体どこへ行ってたんだい?」
「あっちで馬車の音がしたやろ。呼び止めて交渉しとったんや。乗せてくれるそうやで。どないする?」
「動かして大丈夫かしら」
「良くはないが、ここで野宿させるわけにもいかんだろう。乗せてもらうことにしないか」
 不安げに見上げてくるアンジェリークへ、ヴィクトールは苦く答えた。
「そうですね。宿に戻ったらすぐに回復魔法をかけてもらいましょう」
 チャーリーは呼んできた馬車の御者席横に陣取って、
「いやもうえらい目におうたわ」
と、大げさに驚いて見せる。
「ほんまお兄さんが通りがかってくれて助かった〜。なんですのん、この辺の森はずっとこんなんでっか」
 調子よく話しかけ、不審がられないように話を弾ませる。宇宙を股にかける商人、情報収集はお手の物だ。
 馬車が動き出してほどなくオスカーは目を開けた。真上にアンジェリークの顔があるのを、訝しそうに眺めた。常のオスカーなら膝枕は男のロマンなどとはしゃぐべきところを、
「重たくないか」
とだけ神妙に聞いた。
「いいえ、ちっとも」
とアンジェリークが首を振る。
「羽のように軽いです」
 セイランが肩を震わせて笑った。
「アンジェも言うなぁ。オスカー様はお頭が軽いんだって?」
「もう、そんな意味じゃありませんよう」
 このあいだ木の枝にひっかかった帽子をとるために抱き上げてもらったら羽のように軽いと言われて赤面する思いだったのだと、でも私の全体重をそう言うんだったらこれだってありじゃないかと、アンジェリークは小声で言い募る。
 言い募る間、怪我よりもその言葉が痛いぜなどと大げさに傷ついてみせるはずのオスカーが、ただ黙って聞いている。それだけ参っている。
 しかしこうすらすらこの人の言いそうなことが浮かぶというのも妙だ、とヴィクトールは自分をいぶかしんだ。
「オスカー様、怒ってませんよね……?」
 アンジェリークがびくつきながら男の顔を覗き込む。
「ああ」
とオスカーが咽喉に絡んだ声で答える。セイランはまだ人の悪い笑い方をしている。
 気遣い常識がないと叱りたい気もしたが、セイランがいなければ自分たちは沈みきっていただろうということもまた、想像に難くない。それでも普段のオスカーなら言うはずの、お前は覚えてろよ、をヴィクトールはいつまでも待った。

 宿につく頃には、オスカーは朦朧としていた。
 肩を貸すというよりは半ば担ぐようにして客室へ運ぶ。ベッドに寝かせ見下ろす端正な面からは、血の気も生気も失せている。
 ヴィクトールはおそるおそる手を伸ばした。微かな自発呼吸と脈を確かめてほっと息をつく。指を引くときやっと、自分が震えていることに気付いた。
 オスカーでも倒れることがあるなどとは、考えたこともなかった。
 何となれば彼は、軍事を司る炎の守護聖なのだ。
 オスカーは常に、周囲にそのように印象付けた。
 自信に満ち、攻撃的で、率先して危険に飛び込む男、決定する主体、庇護する側として振舞った。
 小さな怪我はいくつも見てきた。気の置けない友人だった。麗々しい理想像は遊び盛りの奔放に砕かれていたし、傲慢を苦々しくも不安にも思っていたはずだ。
 それでもオスカーは偶像だった、と今更ながら気付いて空恐ろしくなる。いくら腕が立つといったって、碌に実戦経験もない22の若造ではないか。
 額にはりついた緋色の髪をかきあげ、汗を拭ってみる。
 その人は息つまるほど美しい。アイスブルーの瞳が隠されてさえ、鮮やかな表情が消し去られてさえ。
「俺は、甘えていたんだな」
 軍神の与する戦で負けることなどあるものかと信じていれば心の平安は得られた。数多の部下を失ったこの不甲斐ない男を、炎の守護聖その人が認め頼りにしてくれるということの重みがあった。
 しかし実のところ、オスカーとて生身の人間ではないか。まったく、どうかしている。
「ヴィクトールさん?」
 ノックの後に戸が細く引かれてマルセルが顔を覗かせた。
「アンジェに聞いて来たんだけど……」
「ああ、助かります」
 ヴィクトールはドアを大きく開いた。ベッドサイドに招き、血で変色した包帯にナイフを入れ切り裂く。
「貫通しています。癒着が始まっているはずですから気をつけてください」
「う、うん」
 緑の守護聖は想像していた以上の重傷に怯んでいるように見えた。
「大丈夫ですか?」
 ヴィクトールは少年の顔を覗き込んだ。マルセルは肯いて背筋を伸ばした。
「僕、頑張ります。あとでオスカー様に褒めてもらえるように、しっかりしなくっちゃ」
 それは勿論、傷が癒えて目を覚ましたときに、ということだ。
「そうですね」
と、ヴィクトールは元気付けるように微笑んだ。
「あー、お邪魔しますよ」
 ぬるま湯の盥とタオルを両手に抱えたルヴァが少年の後を追うように姿を現した。ヴィクトールはサイドテーブルのランプや灰皿を外し、荷物を受け取って置いた。貴方も休んでらしゃいと言われるのに甘えて外に出ると、待ち受けていたかのようにセイランがいる。
 出会い頭に目が合った。
「お前はなぁ」
 ヴィクトールはがしがしと自分の頭をかきむしった。
「常識から自由なのは結構だが、もうちょっと手加減してくれんか」
 毒舌家に意見するのは難しい。勢い曖昧な言葉になった。
「僕は自分が冷淡な人間だってことは良く知ってるよ」
 セイランはふんと鼻を鳴らした。
「目の前からいなくなった人のことなんてすぐに忘れるさ。ああ、あの人には最後に悪いこと言ったなぁって長いこと後悔するなら、その方がマシじゃない?」
「縁起でもないことを言うのはよせ」
 口早に言いながら、俺の顔色は変わっていやしないか、とヴィクトールは思う。
「で、どうなのさ」
 セイランがすぐ傍まで歩を詰めて声を潜める。
「今、マルセル様が回復魔法を――」
「そうじゃなくてさ」
 セイランはじれたように口を挟んだ。
「悪いのかって聞いてるんだよ」
「――悪いな」
 言ってしまった。ヴィクトールは口許を覆った。
 じゃあな、と言うようにひとつ肯いて外付けの風呂に向う。セイランは当然のような顔をしてついてきた。風呂へ入れば声が響く。ヴィクトールははぐらかすことを諦め、脱衣所の庇の下に立ち止まった。
「俺たちに回復魔法と言うものがなくて、相手が守護聖様でなければ、俺は頭を打ち抜いて楽にしてやった方がいいのかと真剣に悩むところだ。だけど両方外れてるんだから、そんなこと考えたって仕方がないだろう」
「まったくだね」
 セイランが涼しい顔をして肯く。ヴィクトールは思い切り顔を顰めた。
「お前、俺から何を聞きたいんだ」
「別に。ただ貴方が珍しく動揺してるようだからさ」
 肩をすくめて、それからセイランは少し口をつぐんだ。傍らを通り抜けて更衣室へ入り、咽喉もとのスカーフを引き抜く。
「少しばかり興味を引かれただけだよ」
 明らかに言葉を選ぶための沈黙だった。飲んだ言葉が心配の2文字であろうことも自然と諒解された。
「そ、そうか」
 ぎこちなく相槌を打つと、じろり藍色の睥睨が帰ってきた。


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