夜は音もなく近づく 3

 その日のうちに炎の守護聖はベッドを抜け出して、翌日の出立にもなれば、へまをしたと揶揄われながら率先して立ち働いていた。
「お元気なことだが…オスカー様が非常識なのか、回復魔法が非常識なのか分からんな」
 ヴィクトールの独白を耳に留めたリュミエールが振り返り、
「分からないことがたくさんあるのですね」
と、無邪気に笑った。そういえば、昨夜も似たようなことをごちたのだった。
「以前アリオスにも言われました。しかし、リュミエール様に言われるとなぜか堪えますな」
「申し訳ありません。私のように世事に疎いものに言われたら、それは傷つきますよね。失礼なことを言ってしまいました」
「いえ、そういうつもりでは」
 ヴィクトールはあわてて弥縫の言葉を捜した。リュミエールは笑みを含んで彼を見上げた。
「あなたはとても頼りになるので、分からないことがあるなんて聞くと意外な気持ちになってしまうのです。お気を悪くされないで下さいね」
「恐縮です」
と、ヴィクトールは畏まって答えた。

 三台の無蓋馬車を仕立てて彼等は出発した。上天気につられたピクニック気分は、町を外れるとかき消された。
 異形の咆哮が少しずつ近づいてくる。
 膝に抱えていたバスケットを隅に置いて、アンジェリークは膝立ちになった。
「お弁当開けないね」
と、マルセルが彼女の顔を覗き込んで言う。
「せっかくご一緒に作ったのに残念ですね」
 でもパイは冷めてからも美味しいから大丈夫ですよ、と少女はにこにこ慰める。
「あ、あれ、モンスターじゃないかな」
 程近い葉陰をランディが指差し、先を越されたゼフェルは舌を打った。
「おめー、目だけはいいよな」
「なんだと!」
 目が慣れれば、潜んでいるのは一匹や二匹ではない。ヴィクトールはさっと振り返った。
「おふたりとも今は……」
 その瞬間、背後でがたりと床板を蹴る音を聞いた。 
「緋色の衝撃!」
 オスカーは攻撃を放つや、ひらりと走行中の馬車から飛び降りた。青いマントが翼のように広がった。膝にばねをため、腰間の剣に手をかけて討ちもらしたモンスターの威嚇に対峙する。
「ばっ、馬鹿かてめー!」
「オスカー様っ」
 後輩の罵倒は聞き流して少女に答えるに、
「すぐに追いつく。先に行ってろ、お嬢ちゃん」
 流し目で少し振り返って、ウインクなどひとつ。
 どこまでも懲りない男だ。
 半笑いなど浮かべている間にも馬車は離れていく。ヴィクトールははっとして手すりを跨いだ。
「お手伝いします」
「大歓迎だ」  
 その声が、笑みを浮かべた横顔が、輝くばかりの眸が、やたらめったら楽しそうなのは気のせいではない。
 歳相応に若く、危なっかしい。
 信仰の呪縛から逃れ、その現実に向き合っていかなければ、と思う。
 滑らかなステップで敵を切り伏せながら、互いに死角を庇いあう位置をとる。自信に見合うだけの実力に恵まれているのが、オスカーのたちが悪いところだ。
「なんだ、思ったより早く片付いたな」
 刀身を拭いながらオスカーは笑った。
 問題を片付けてしまったら、出来るだけ早く立ち去るに限る。今でなくてもいい、とヴィクトールは苦言を飲み込んだ。
 街道にでると、悪鬼のはこびる世界が夢のようだ。
 彼等は次の街で本隊に合流し、聞き込みに回ったが、収穫はなく翌朝の出発を決めて投宿した。
「何か言いたいことがあるのか」
 旅装を解いたオスカーが、無意識の内にもつけまわしていた視線を咎めた。口調はときに邪険にもなるが、話の糸口を惜しまずひくのがオスカーらしいとヴィクトールは思う。
 すこし躊躇ってから、何でもないふりはやめた。
「軽はずみなことはやめてください」
 オスカーは夜の窓ごしに男を見て、くっと笑った。
「俺とお前で敵わないやつなどいてたまるか」
 与えられる信頼は痺れるほど嬉しい。貴人への敬意の範囲さえ越えるほど、胸に響く。
 ヴィクトールは溜息をついた。崇拝のくびきに、もう甘んじないと決めた。
「貴方は確かに勇敢でお強いが、戦場では恐怖するのも才能のうちですよ」
 つい、つきはなした物の言い方になった。
 オスカーの肩が跳ね上がった。
「俺だって怖いさ」
 低く洩らして振り返った。見開いた瞳の青。今にも割れそうな薄氷。
 ヴィクトールは、自分が失言したことだけを理解した。
「俺だって怖い。何度も死ぬかと思ったしな。自分がどれだけ平和に慣らされてたか痛感してるんだ。夜毎、俺が死んだらどうなるんだろうと考えるぜ。皆は泣くだろうか、宇宙を取り戻せるだろうか、次の炎の守護聖は、すぐに見つかるだろうか、ってな」
 片頬を歪めてオスカーは言った。大きく音立ててベッドに腰を下ろした。
「ああ、そうだな。俺は自分が怯えていることを認めたくなかったのかもしれない。あんたがそこまで言うなら、恐怖を糊塗するために無茶をしたこともあったんだろう。気をつける」
 ひとりで答えを出してうなずく。その太腿の上で組んだ指に強く力が入っているのをヴィクトールは見た。吐息して向いに腰を下ろした。
「ぜひ……ぜひそうして下さい」
 恐怖を知らない軍神でいてほしかったのは自分の方だ、と思った。理想に応えようとしてくれているのを知っていた。オスカーに何かあったらそのいくばくかは自分の責任だ、と結論するのを傲慢とは思わなかった。
「縁起でもないですが、貴方がいなくなったら俺は泣き明かしますよ」
 彼はまっすぐに相手を見据えた。
「俺は今度こそ、一生自分を許すことが出来ないでしょう」
 その正面でオスカーはあからさまにむっとした。
「俺はあんたに守られるいわれなんぞない。そんな風に思われるのは不本意だ」
 ヴィクトールは思わず苦笑した。
「心と言うのは、思うままにはならないものですな」
と、軽くいなす。
 別世界の人だと思っていたのにいつのまにか大切な知己に変わった。ただ崇め奉るべき半神だったのに、もうそんなことは出来ない。そんな無責任で酷なことは。
 力になりたいと思っているのに、当の男ときたら負けず嫌いが先行してすぐに張り合おうとする。どうにも奇妙な関係だ。
「ああ、まったくだ」
と、応じるオスカーの声は地を這うように低かった。自分はまた地雷を踏んだか、とヴィクトールはぎくりみじろきした。
「俺は」
 オスカーは言葉を切って視線をさ迷わせる。
「あんたの負担にはなりたくない。こうして生きている間も、たとえ死んでも。だがそう思っていた俺の努力は無駄なことだと、あんたは言うんだな」
「お気づかい下さって恐縮ですが、性分です。ご容赦下さい」
 ヴィクトールは笑いに紛らわせて答えた。長い、長い沈黙がそれに続いた。
「……なあ、ヴィクトール。もしも明日なきこの身なら、俺にはひとつばかり心残りがある。あんたは自分のせいじゃないことにも責任を感じそうだから、言わないほうがいいかとも思ったんだが…」
 オスカーは薄蒼の瞳でぴたりとヴィクトールを捕らえた。
「お前が好きだ」
 たわいもなくはにかんだ。
「ムードもへったくれもないな」
 自分でくさして立ち上がった。ヴィクトールを見下ろして目を細めた。
「下へ行くぜ」
 後には、茫然自失の男がひとり。


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