his master's voice 9

 夕方、茶会が引けてから学芸館に戻って私服に着替え、手土産の酒を選んだところで迎えの馬車が来た。
 狙いすましたかのようなタイミングだったが、炎の館に当の主人は帰り着いていなかった。
 応接間でコーヒーを出したメイドが、主の不在を詫びつつお暇なら庭の散策でもと言い、勧められるままにヴィクトールは外に出た。
 宮殿がルネサンス様式なのに対し、この館はあくまで重厚で禁欲的なロマネスクの趣を留めている。
 一周して表に戻ると、オスカーが単騎を駆って帰ってくるのが見えた。
「すまん、待たせたか」
 客に気付いて鞍を降り、愛馬を労って馬丁に後を頼む。
「いえ、ご多忙のところ申し訳ありません」
「おい、呼んだのは俺だろう。ちょっと野暮用で予定が狂っただけだ」
と、オスカーは大きく笑った。
「それにお茶会に出なかったのは別に忙しいからじゃないぜ。情報交換の場として有用なのはわかるんだが、どうもああいうのは性に合わなくてな。3回に2回は断ることにしてるんだ」
「そうだったんですか」
 意外なような、納得できるような。
 確かに席を共にするなら、食事や酒のほうが多かった。
 弛みなく規律ある生活を愛し、テーブルについて時を費やすよりは活動的に過ごすことを、おしゃべりよりは議論を好むオスカーの傾向を、ヴィクトールは男性的だともストイックだとも思っていた。単に攻撃的と評する人もいそうなラインだったが。
「だいたい、そう毎回皆が集まったら収拾がつかない騒ぎになるのは目に見えてるだろう?」
 仰るとおりと頷くわけにもいかず、ヴィクトールは曖昧に笑って見せた。
「あと5分だけ時間をくれ」
「ごゆっくりどうぞ」
 やがて正装を解いて現れたオスカーは両手に食べ物のトレーやバスケットを手にしていた。
「お持ちしますよ」
「客を使って悪いな」
 大急ぎでシャワーを使ったらしく、側に寄ると石鹸の匂いがした。
「それじゃ、ついて来てくれ」
 オスカーは館の中心部から地下へと階段を下りていった。
 ドアの向こうはまた未知の領域だった。
「清らかな聖地にこんな場所があったんですか」
と、ヴィクトールは苦笑を浮かべた。
「そんな目で見るなよ」
 オスカーは大仰に顔をしかめた。
 遊興室は赤みの強い暖色系のインテリアでまとめられていた。広々とした空間に配置された簡易バー、ビリヤード、ダーツ、ルーレット、バックギャモン、カードテーブル、休憩スペース。毛足の長い絨毯が足音を吸い込む。
「茶を飲んできたばかりならまだ腹はへらんだろう。何か食いたくなったら適当にやってくれ」
 オスカーはカウンターに食事を下ろした。
「さて、お手並み拝見と行くか」
「はは……お手柔らかに」
 何を着て何をしていても様になる男だが、シンプルな白いシャツの袖を捲り上げキューを構えるオスカーはいやになるくらい決まっていた。
 抑えられた照明の下で、燃え立つように赤い髪が目を惹きつける。しなやかな長躯、獲物を狙う目。自信に満ちた、舌なめずりせんばかりの表情。胸が高鳴るのを止められない。
 オスカーには強い引力がある。
 きっと勝利の女神だって彼に逆らえやしないのだ。
 ビリヤードもダーツも負けたがこんなものだろうと思った。
 ルーレットの前に移りながら、オスカーが指を鳴らした。
「やる気が出ないようだな。何か賭けるか」
「貴方がうわてなだけですよ」
 ヴィクトールは苦笑して首を振りつつも、誘いは断らなかった。
 ツキがないわけじゃない。やりつけない割にはいいところまで行った。運が物をいうゲームになればなおさらだ。
「でも何がいいでしょうね。明日の昼飯なんていうのじゃ面白くないでしょう」
「おいおい考えるさ。お前も考えてろよ」
「ええ」
 勿論、とヴィクトールは含み笑いの目で答えた。
 オスカーがルーレットに手をかける。
 閃きはなかった。運命の輪は回り始めた。
「黒の9」
 目算も自信もなくほんの冗談で指定した1発目がドンピシャで当たって、オスカーはムキになった。
 物にも人にも執着しない男だが、勝負事になるとあっという間に熱くなった。それが、勝利への近道ではないとしても。
「ちっ、勝てると思ったんだがな」
 夜半過ぎ、オスカーはようやく挽回しようのない負債の量を認め、どさりとソファに腰を下ろした。
「で、何がいい。俺からした約束だからな。何だってしてやるぜ」
 いかにも不服そうな顔だったがきっぱりと履行を宣言した。
「そんな、いいですよ」
 ヴィクトールは向かいに座りながら首を横に振った。
「他のゲームは俺が負けたんですし」
 ふん、とオスカーは鼻で笑った。
「欲しいものがあるんだろう?」
 それは、ある。目の前にある。正直いって、咽喉から手が出るほど欲しいが。
 ヴィクトールはつと目を伏せた。
 遂情望むべくもない人だ。
「あんたな、絶対その性格で人生を損してるぜ。いい歳したおっさんがそんな顔をするもんじゃない」
 オスカーは負けた不機嫌も手伝ってか居丈高な口調になった。
「欲しいものは欲しいと言えよ」
「オスカー様……俺は」
 ヴィクトールは意を決して顔を上げた。
「俺は、貴方を尊敬しています。敬愛しています。親愛の情を抱いているし、崇拝しているといってもいい。でもそれだけじゃないんです。こんなのはゲームにはならない」
 ひとつふたつと青年が瞬きするのを、彼は感慨深く見つめた。
「あんたは――俺の恋人になりたいのか」
「え……」
 ヴィクトールは言葉に詰まった。俺に欲情しているのかと直球で来られてもこうは驚かなかっただろう。
「そういうのは久しぶりだな」
 オスカーは小さく笑みを浮かべた。反らされた顎から首筋、胸元へと続くラインがなまめかしい。
「おい、俺だって士官学校を出てるんだぜ」
 初めてじゃないんだ、びびりゃしないぜと平静を装いたいらしかったが、その言葉はむしろ、彼の嗜好はそこにはないのだと露呈している。きっと彼は、学校でしかそれをしなかった、とヴィクトールは見た。
「いいぜ、チャンスくらいはやる」
 オスカーは笑みを深くした。
「またそんな軽はずみなことを」
 ヴィクトールは穏当な笑みを作為した。近づいてくる顔を押しとどめるように手を当てた。
 革手袋に頬擦りして目を閉じる、オスカーの姿態はもはや蠱惑的だ。
「またってなんだ?」
 からかうように問う。薄蒼い眸に滲んだ単純な笑みの残滓さえが官能を直撃した。
 ヴィクトールの手は青年の首の後ろに回った。軽く力を込め、唇が触れんばかりの位置まで引き寄せた。
「俺だって自制心には限界がある……あとで後悔しても遅いんですよ」
 オスカーは再び鼻先で笑った。
「あいにく後悔なんてものにはとんと縁がなくてな」
 ヴィクトールは向かい合っている男の唇をついばんだ。もしも彼が、ほんの少し目でも見開いて、驚いてくれたらそれで仕舞いに出来るはずの戯れだった。オスカーは目を閉じ、かすかに唇を開いた。ヴィクトールはローテーブルを跨ぎ越え、オスカーをソファに押し戻した。
 オスカーは長い指の先で襟元を緩めた。そうすることで緊張と規律を緩めるかのように。たぶん彼には、シャツを脱ぎ捨てるように道徳を脱ぎ捨てることもできるだろう。
 ヴィクトールはのしかかるようにしてその唇を奪った。歯列を割った。熱い口腔が彼を迎えた。物怖じしない熱い舌が、遊び人の名に違わない接吻を返してくる。彼は夢にまで見た軍神の体を抱きしめた。オスカーの体の輪郭を確かめることは、己の欲望の輪郭を知ることと直結していた。太腿筋の緊張が自覚できる……下腹部が張り詰めてゆくのが。
 彼は吐息をついて唇を離した。オスカーが溢れた唾液をこれ見よがしに舐め取る。何だってこんなに無意味に煽るのが上手いんだろうと頭の隅で考えながら、ヴィクトールはテーブルを後ろに押しやった。
 青年の耳から首筋へゆっくりと唇を這わせ、喉元にキスを植えつけ、薄いシャツの上から胸の突起を探った。貝細工のボタンを外して前を肌蹴させ、執拗な愛撫に硬くしこりはじめた乳首を舌で転がす。オスカーの肩がぴくりと動いた。
「……っ」
 こんな刺激で体に火がつくのは不条理だとばかりに眉を寄せていた。
 ヴィクトールはその存在を確かめるように、筋肉の滑らかな起伏をまとった胸から平たく鍛えられた腹へと手を滑らせた。細身の腰を掌底で押さえつけ、バックルに指をかけた。オスカーの瞳を見据えたままゆっくりと革のベルトを抜き去る。
 この半神が何を考えているのか、微塵も分からない。腹が読めない。罠にはまりに行くようなものだ。オスカーがふっと口の端を吊り上げた。ああだが、人の身がこの魅惑に逆らうことなどできるだろうか。
 正面に膝をつき、下着ごとズボンを引き下ろす。膝下が長く伸びやかなオスカーの脚は、彫刻のように美しい。ヴィクトールはその脚を割り開いてオスカーの雄を口に含んだ。
 分かりやすい攻勢にはオスカーは素直だ。上がっていく呼吸がはっきりと分かる。ふいにオスカーの手が髪にもぐってきた。何事か耳元に囁きでもするように身を屈め、軽いキスを降らせる。
 いつのまにか緩められた襟口から忍び込み、傷跡をなぞって背中に延びつつあった指が途中で跳ね上がった。
「うっ」
 苦笑いの面持ちで衝動に耐えている男をヴィクトールは見上げた。最後まで追い上げた。
「はぁ、あ……も、ダメだ…」
 今のうちに離れろと軽く頭を押しやる手を彼は無視した。飲み下して、なお離れなかった。しっとりと湿った内腿に手をかけて体勢を固定し、微かな水音を立てながら欲情の残滓を丁寧に舐め取る。再び兆しを見せた中心を、ヴィクトールはゆるゆると煽りはじめた。
「はっ…くそ」
 オスカーは行儀悪く靴を飛ばした。足先を彼の中心に伸ばした。
 ヴィクトールはオスカーを口に含んだまま顔を上げた。
 オスカーは疑問の形に口を開いていた。ヴィクトールのそこはすでに熱く膨張している。
 あんまり驚いて笑うしかないときのような曖昧な表情が、にんまりと楽しげなそれに変わった。布越しにもどかしいくらいの感触で、つま先がヴィクトールの劣情の形を追う。
「やられっぱなしは性に合わないな」
 三日月のように目を細め、囁いた。
「なあ、ヴィクトール」
 ヴィクトールは相手が何か言い出す前に目を逸らした。
「あなたはプライズだ。そういうことではありませんでしたか?」
「……ああ」
 まあいいだろうさ、とオスカーは拗ねたように言った。
 ヴィクトールはオスカーの膝の裏に手を潜らせ、持ち上げた。逆らわず腰を滑り落としたオスカーの秘所が露わになる。
 ヴィクトールは右手の手袋を外し、ゲームをする間に食べ散らかされたテーブルを一瞥した。野菜スティックの側の小さな壷に指をくぐらせマヨネーズを掬い取った。それをオスカーの後庭に塗りこめるようにして揉み解してゆく。
「いま、何を…」
 オスカーが身体を震わせながら顔を上げる。
「アレルギーはありませんでしたよね」
 ヴィクトールは黄味のクリーム色にまみれた指をかざして見せた。
「どんなプレイだよ……」
 オスカーはぐったりと後ろに倒れこんだ。ヴィクトールは無言で笑い、その指をオスカーの中に沈めた。
「は……ぅ」
「こんなに狭くて硬いのに、何か使わないことには裂けてしまいますよ」
 異物感のせいか脅し文句に反応したのか、オスカーの身体は指1本でさえきついくらいに締め付けてくる。ヴィクトールはオスカーの内側にも油脂を塗り広げるため、じりじりと指を動かし始めた。
「ふ……あ、ぁっ、潤滑オイルくらい、持ってないのかよっ」
「そんなもの持ち歩いてる教師なんていやでしょうが」
 オスカーは憎まれ口を叩きながらも筋肉の緊張を解こうと呼吸を深くした。
 ヴィクトールは左手でオスカーの中心をやんわりと握りこんだ。その指先で袋をもてあそぶうち、右手の指は前立腺にたどり着いた。
「あ…んっ」
 オスカーの腰がはねた。
「待、てっ……て…ぶくろ、汚しちまう」
 オスカーは力の抜けた手でヴィクトールの左手を引き剥がそうとした。
「かまいませんよ」
 ヴィクトールはオスカーの屹立を握りなおし、先走りに濡れている先端を親指で円を描くように刺激した。
「よせ…ッ」
 なめし革の慣れない感触がオスカーをより敏感にしている。
「イったっていいんですよ」
 オスカーは悔しげに睨み返した。
 潤んだ目、屈辱の表情、まずいくらいそそられる。ヴィクトールは唾を飲み下し、1本また1本と後ろをほぐす指を増やしていった。
 オスカーの欲望は硬く張り詰めて震えていた。ヴィクトールはオスカーの後孔から指を抜き、半ば開いたオスカーの口にキスを落とし、引き締まった腰をだきかかえた。ズボンの前を開く。準備は熱く硬く整っている。
 ゆっくりと指を増やして慣らしたつもりだったが、ヴィクトールの先端を受け入れたところでオスカーは蒼白になった。
「う…くっ…」
 ぎゅっと目を瞑った、震える紅い睫毛は濡れていた。引きつった面に恐怖の色があった。
 触れ合った身体の強張りがこれでもかと伝わってくる。
 ヴィクトールは体を起こし、軽く吐息した。
 盛りのついたガキじゃあるまいし、俺はまだ何とか立ち止まれるんじゃないか、と胸中に呟いた。多分出来る、オスカーのためなら。
「オスカー様……ちゃんとした大人なら、嫌なことは嫌だと言わなきゃいけませんよ」
 しかし我ながら意地の悪いしっぺ返しになった。
「ッ……こん、な」
 オスカーはわななく呼吸の下からようやく声を出した。
「こんなところで、やめるなんて、嫌だ…っ」
 言うなりヴィクトールの首に抱きついた。その腕は震えていた。理性が音を立てて引きちぎられていくのが分かった。
 ヴィクトールは一気に最後まで突き入れた。
「ああ…っ」
 オスカーの背が大きくのけぞった。
 ヴィクトールは彼を抱きとめて落ち着くのを待った。一度腰を引いてから、はじめは浅く抽送を始めた。己の肩口に頭を埋めたオスカーが咽喉に苦鳴を殺しているのが分かったが、もう後戻りはできなかった。きついが敏感な場所を慎重に潜り抜ける。
「……は、あぁ…っ」
 甘い喘ぎを引き出しながら、彼は悦びを貪るように味わった。
 やがて絶頂の痙攣がゆっくりとオスカーを捕らえた。そしてヴィクトールには、己がこれ以上遠くへは行けない処まで到達したのが分かった。


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