his master's voice 8

 週末をまたいで月の曜日、オスカーが昼下がりの教室のドアを叩いた。
「補佐官殿がお茶を振る舞いたいと仰せなんだが、どうする」
 4時からだ、とオスカーは続けた。まだ間がある。都合はつけられそうだった。
「お招きに預かりましょう」
と、ヴィクトールは点頭した。
「ところで、これは?」
 突きつけるようにして差し出されている一輪の薔薇をためすがめつする。
「招待状がわりに」
 徒手は落ち着かないから女王補佐官の部屋の花瓶から抜いてきた、と事もなげに言って指を離す。
「研究院に行く用があると言ったら、ぐるっと声をかけて回るよう頼まれてな」
 手の中に落ちてきた花をヴィクトールは捻り回し、持て余してチェストに置いた。
「守護聖様がメッセンジャーだなんて畏れ多いですな。俺で最後ですか」
 オスカーの手にもう招待状は残っていなかった。
「ああ、授業中のやつらへはお前から伝えておいてくれないか」
 戸口で話していると隣の部屋の戸が開き、ありがとうございました、と中に一礼してアンジェリークが出てきた。
「やあ、お嬢ちゃん」
「あっ、オスカー様……ヴィクトール様、こんにちわ」
 立ち止まり会釈して通り過ぎる、少女の笑顔は少しぎこちない。
「ああ、気をつけて帰るんだぞ」
 小さな後姿が消えるのを待ってオスカーがぼそりと呟く。
「なんだ、ふっちまったのか。もったいない」
「は?」 
「あと3年もすればいい女になりそうなのに」
 オスカーは心底不思議そうに、彼をまじまじと見ていた。
「何の話ですか」
 ヴィクトールは顔を顰めた。あらぬ嫌疑をかけられている空気だけは分かる。
「彼に言ったって無駄だよ。鈍いんだから」
 自分の教室のドア枠に寄りかかり、鍵穴に挿されていた花で指遊びしながらセイランが笑った。
 オスカーの視線がそちらへと流れた。そう言ってやるなよと意味ありげな苦笑の後、
「お前、この後空いてるか」
と、話を変えていつもの快活な口ぶりに戻った。
「何だい」
 セイランにしてみれば口がすっぱくなるほど言ったであろう(こっちは耳にたこが出来そうだったが)僕だって暇じゃないんだけど、は今や目線ひとつで大抵の相手には伝わる。
「4時に宮殿のティールーム」
 オスカーはすでに決定した約束の集合日時のように言った。
「パス」
「そうか」
「じゃあね」
 おそろしく簡潔で遠慮のないやり取りを残してドアは閉まった。
 礼儀がなっていないと眉をひそめるのをやめたのは、実は羨ましがっているだけなんじゃないかと自分を疑い始めてからだ。
「で、何の話だったかな」
 オスカーがわざとらしく首を傾げた。
「中に入られますか?」
 ヴィクトールはドアを大きく開いた。勉強机の椅子を引いて勧めると、オスカーは逆向きに跨って背もたれに腕を回した。
「昨日はもう1人の女王候補とデートしてたんだが、森の湖に行こうとしたら止められたんだ。お嬢ちゃんがあんたに告白する予定だから邪魔はできないと言ってな。あの反応ってことは断ったんだろう?」
 無心な薄蒼い瞳にヴィクトールは面食らった。身に覚えなどあるはずもない。
「いや、あんたなら無闇にお嬢ちゃんを傷つけるようなことは言わないだろうと信じてるし、人の恋路に口出しする気もないが」
「待ってください。確かに湖で会っちゃいましたが、そんな話は全くしませんでしたよ」
 ふうん、と気のない返事をかえされて焦りを覚える。
「そうだ、教室でうっかり何かを壊してしまったとか、それで俺に言わなければならないことがあるというのでは?」
「お前な……」
 客人はすっかり呆れ果てていた。
 あの子がそんな粗相をするとは自分だって本気で思ってはいない。それでも、今言われているのはもっとありえないことだ。
「オスカー様は、物事を色恋につなげて考えすぎなのではありませんか」
 ヴィクトールは微苦笑して諌めた。
「……ああ、そうだな」
 オスカーはしばしの沈黙をはさんで真顔になった。
「恋をしている間だけは、ただの男でいられるからな。美しいレディ達が俺をただオスカーと呼んでくれる時の至福をなんとしようか。ほんの一晩でいいから自分の立場を忘れてただの男にもどりたいのさ。サクリアの器じゃなく、俺自身として見てもらいたいと思うのはおかしいことか?」
「いえ」
 話をずらされているのは承知の上で、咎めることが出来なくなった。
 長い時を渡る孤独を垣間見たときに放っておけなくなったのだ。
 生真面目に向かい合っているヴィクトールを見て、オスカーがはにかんだ。
「もっとも、なにもそれが恋でなくても構わないってのは、お前が教えてくれたがな」
 初めて女遊びを咎めたときには、笑って取り合ってもらえなかったのを思い出した。
 勝ち得た信頼のかけがえのなさを思えば、どうして白状できるだろう。俺にとってはそれは恋でした、などと。
 これはもう失笑するしかない。
「また笑ったな」
と、オスカーは肩を怒らせた。
「ああ、オスカー様」
 そうじゃないんです、と言い訳する声も笑いに紛れた。
「……だから、そのオスカー様というのはもうやめにしないか?」
「え」
 椅子の背に渡した腕に片頬をつき、見上げてくる神妙なアイスブルー。
「オスカーでいい」
 神にも等しいお方に畏れ多い……が、甘美なまでに魅惑的な申し出ではある。
 近づきたいと、触れたいと思う気持ちを止められない。
 熱病のような恋をしている。
「……ここではちょっと」
 ヴィクトールは判断を留保した。
「そうだな、あんたにとっちゃ神聖な職場だもんな」
 肩をすくめるオスカーはすでに彼について理解深く、食い下がる気もないらしかった。
「俺は外で会うくだけたあんたの方が好きだぜ」
「俺はどんなときの貴方も好きですよ。仕事中もオフも、軟派師になってらっしゃるときも」
 口を滑らせたことにはっと気付いてヴィクトールは背中に冷や汗を感じたが、青年はさらさら気にしてなどいなかった。
「また一本取られたな」
 矛盾を突かれたり上手く切り返されたときの、近頃の口癖であるらしい。
 一本取られた。その程度のことなのだと、よく肝に銘じておかなくてはなるまい。
「それより、昨日は気付かずにデートの邪魔をしてしまって申し訳ありませんでしたね」
「いや、ちゃんと楽しく過ごしたぜ。私邸に招いてダーツをやったり…あのお嬢ちゃん、結構上手いんだ。ああいうタイプはやっぱり集中力があるんだろうな」
 教師としての意見を言うなら、むらっけがあるのが玉に瑕だ。
 ヴィクトールはわざわざそんなことを言ったりはしなかった。
「そんな感じですね」
「そうだ、あんたビリヤードはするか?」
 オスカーはふと思い立ったように聞いた。
「はい。まあ、しばらくしていませんが」
 そうか、と答える声が弾む。
「私邸にちょっと気合の入ったプレイルームを作らせててな。あまり使う機会がないのが残念だったんだ。遊びに来ないか」
「喜んで」
と、ヴィクトールは二つ返事で承諾した。
「今日は空いてるか?」
「いつでも構いません」
「それじゃ茶会が終わる頃に迎えをよこそう」
 オスカーは立ち上がり、マントの偏りを直した。
 その何気ない姿をそのまま保存してしまいたくなるような男ぶりだ。
「オスカー様は出席されないんですか?」
 必要以上にがっかりしているのがばれないよう、なんとか自分を抑制する。
「ああ。また後で」
 オスカーは颯爽と部屋を出て行った。ヴィクトールは戸口で別れた後、窓辺からもう一度その姿を見送った。
 それからきびきびと仕事に戻った。


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