考えすぎだ、と公園の脇を通る小道を歩きながら自分に言い聞かせる。
木の曜日の昼休み。
今日も聖地の空は晴れ渡っている。人の心がそうは行かないのが不思議だとばかりに。
ヴィクトールには、自分はものを考えさせない仕事が好きだという自覚があった。
経験と規則とマニュアルがすぐさま答えを叩き出すような課題。
常識や良心がたったひとつの正義しか認めないケース。
考える暇もないほど緊迫しているか忙殺されている時。
そういう時には、自分にもまわりの世界にも何の問題もないと感じることができる。
思考することと無為に思い悩むことの間で、線引きすることが苦手だ。
――もう満足だ、と静かに言った電話越しの声が耳を離れない。
あれが、己をこんなにも骨抜きにして復讐は済んだと、もはや己などにかかずらうつもりはないということだったら?
そう考え出すと夜も眠れなくなった。
執務室に会いに行けばいい、終わったら手合わせでもいかがですかと。
研究院やカフェテラスで探すというのはどうだ。
他にも立ち寄りそうなところならいくらだって知っているだろう?
そうしないのは、答えが出ることに怯えているだけだ。
吐息した視界を紅い頭がよぎった。
彼は顔をあげ、勢いよく石段を駆け下りてきたオスカーが、最後のところでバランスを失うのを見た。
いっぱいまで伸ばされた指先を掠めて、鈍く光るものがあった。
青年は姿勢を立て直しながらあたりに視線を走らせた。音が立ちそうなほどばっちりと、目が合った。
ヴィクトールはとっさにそれを掴み取った。
手袋越しの摩擦熱が掌底に熱い。
慎重に手を開いてみると、ロケット型の玩具が顔を覗かせた。なんとなく心当たりのあるフォルムだ。
「おっ、つかまえてくれたのか。ありがとよ」
追いついてきたゼフェルが右手を出した。
感性の教官に言わせれば少年はセンスがないのらしいが、機能性と子供心の妥協点としては悪くない、と彼は常々思っていた。
そんなこと言ってごらん、もっと怒り狂うよ、とセイランに太鼓判を押されたのを思い出しながら、余計なことは言わずに引き渡す。
ゼフェルはその場でUターンして、
「なんだ、あんたコケてんのかよ」
「…この階段が悪い」
オスカーはむっとして大人気ない物言いになった。
「あー、そういやここ、よく躓くんだよな。しょっちゅう何段あるか分かんなくなるしよー」
制作物を追ってもらった手前、いつものようにだっせーの、と笑えなくなったのかゼフェルは慰めめいたことを言った。
「13だろう」
「14だって」
人によって言うことが違うんだよな、とオスカーが首をひねり、聖地の7不思議だ、とゼフェルが相槌をうつ。
ヴィクトールは、7つどころではないような気が今ではしている。
「じゃ、悪かったな!」
ゼフェルは片手を挙げ、再び公園へと階段を駆け上っていった。
「おイタはほどほどにな」
揶揄交じりの声が少年の後姿を追う。
うっせーもう帰るよ、とてっぺんから返事が返ってきた。
それに背を向け、歩き始めたオスカーの横顔がふいに歪んだ。視線が下に落ちた。
「足を、どうかされましたか」
「ひねったかな? いや、大したことはない」
オスカーはかぶりをふった。
ヴィクトールは緊張と恐れを押し隠して口を開いた。
「学芸館へお寄りになりませんか。応急手当くらいは出来ます」
早い方がいいでしょう、と畳み掛けたいのを我慢する。
あの夜の「満足」の意味を今もまだ考えている。
断られるだろうか、と。
「そうだな、そうさせてもらおうか」
オスカーはなんでもないような顔で笑った。
大量生産の、使いまわしのきく笑顔。それがこんなにも心臓にくる。いいかげん本当にまずい。
オスカーは足を引きずりこそしないものの歩調を落としていた。
そのせいで有り余るほどに長い脚が際立つ。
すれちがう女官たちのさざめきに蜜の滴るような笑顔で手を振って、はっと隣を振り返る。
「……俺は何も申し上げてはいませんが」
あわてて真面目くさった表情をつくるのがおかしくて、ヴィクトールは笑いをかみ殺した。
オスカーはふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「そうやって馬鹿にしてりゃいいんだ」
救急箱は中庭に面した休憩室に置いてある。
カウチに座らせたオスカーの側に膝をつき、ヴィクトールは湿布をあてた上からテープを巻いていった。そうしながらきつくはありませんか、と聞こうとして客人を見上げた。浮かない顔を見たとたん問いはすりかわった。
「まだお加減が悪いんですか?」
「え?」
ぼんやりと陽だまりに視線を落としていたオスカーが、虚を衝かれたような顔で振り返った。
「元気がありませんね」
ヴィクトールは手を止めていた。
「そんなことはない。ここは災いなき聖地だからな」
オスカーは目をそらした。
何度か迷うように口を開閉して、ゆっくりと話し始める。
「病なき聖地だと言われて、蟄居しながらあっというまに調子が戻るのにそれを体感して、思い出したことがある。以前警備兵に志願してきた男の話だ。そいつには病気の娘がいてな。こんなちいさいお嬢ちゃんだったんだが」
言いつつオスカーは、膝の高さあたりを手で示して見せた。
「もっともらしい十人並みの志望動機を書いてきたが、その子のためにと同僚に洩らしたことも報告に上がっていた。で、俺はそいつをはじいた。三等親以内に、女王にまつろわない星の人間がいたから」
ヴィクトールは目をしばたいた。
「保安担当者ならそうするのが当然だと思いますが」
真意を捉えきれずに言葉尻を濁した。
命の選択は最もさけて通りたい厭な、難しい仕事だ。
だがその場合、他に選択肢はない。至高の存在を前に迷うことなど許されるはずがない。
オスカーは苛立ったように声を荒げた。
「ああ、そりゃそうだ。聖地の警備兵といったら、女王陛下に直々に拝謁する可能性もあるんだからな。万が一の危険も取り除かなければならない。陛下の御身の大事は、そのまま世界の存亡に関わることだ。それに比べりゃ人間の死までの猶予なんて、どのみちほんの短い間だしな。だけど俺はもし陛下が聞こし召されたら、いいから呼んであげなさいな、と」
薄く容よい唇は微かに震えているようだった。
「ご聖慮あらせられただろうと考えている」
オスカーは背もたれに身を任せた。
以前というのはどれほどの時間を指しているのだろう、とヴィクトールはふと思った。
炎の守護聖は、少なくとも昔とは言わなかった。
「越権行為があったんですか?」
「違う」
オスカーは彼を軽く睨んだ。
「人員の選択は俺の職掌のうちだ。ここへ来る倍率は馬鹿みたいに高い上に多くは派遣軍からの出向で、そいつにはただ奇跡が起きなかったというだけのことだ」
「だったら考えても仕方のないことでしょう。貴方は間違ったことをしたわけじゃないんですから」
考えても仕方がないなどとは、他人事だから言えることだ。
苦く自戒しながら、それでも安心させようと笑いかける。
「まあ、そうなんだろうな」
と、オスカーは溜息をついた。
「よしなしごとだったな。すまん」
その少し古い言い回しをヴィクトールは耳に止めた。お前たちの一生は短いと言い立てられるよりも、些細な言葉遣いに、時の流れの違いが浮かび上がる。
「しゃべって整理がつく事だってありますし、俺は構いません」
貴方に関することなら何でも聞きたいと言ったら、流石に気味悪がられるだろうか。
オスカーは曖昧に頷いて足を引き寄せ、テープを目測で切り取った。確かな手つきでてきぱきと足首を固定していく。
自分でも出来るのに己に任せていたのだと気付いて胸がこそばゆくなった。
「ヴィクトール」
膝下に畏まったままの彼へ、オスカーは咎めるような眼差しを向けた。
「いつまでそうしてるんだ」
「え、ああ」
ヴィクトールは腰を浮かし、脛で寝椅子に乗り上げた。
間近に見下ろす恐ろしく整った顔立ちから、沈んだ表情は綺麗に消し去られている。
彼は相手の瞳を覗き込んだ。アイスブルーの向こうに、強靭な制御の向こうに、踏み入りたいと思ってしまう。
口も利いてもらえないのではないかと、さっきまで恐れていたのはどこのどいつだ?
「しかし、貴方でもそんな風に考えあぐねることがあるんですね」
「お前は俺を何だと思ってるんだ?」
オスカーは冷たく胡乱げな目を差し向けた。
「堕落した女たらしの次はご立派な君子か。極端な奴だな」
と胸を衝かれ、ヴィクトールは固まった。
確かにそうだった。好悪の感情は振幅が大きく、白か黒かの明確であることを好むきらいはあった。
それがオスカーを傷つけるとは思ってもみなかった。
自分がその先に行きたいと望むときが来るとも。
ヴィクトールは青年の耳元、内緒話をするように小声で囁いた。
「満足だなんて嘘でしたね」
オスカーは大仰に顔を顰めた。
「一本取られたな」
彼の満足に行き着くまで、まだこの関係を続けられる。まだ時間はある。