his master's voice 6

 重度の低体温症に至らずにすんだのは幸運だった。
 検査に引っかかる前から不調と意識できる程度の自覚症状はあったが、仕事を休むほどのことではないと思っていた。”意外と仕事好き”の炎の守護聖にしても同様らしかったが、
「ここは病なき聖地ですよ」
 検査官の白衣を羽織ったエルンストは冷たい眼をして言った。
「体面の護持と検疫をかねて自宅待機をお願いします」
「女王試験の最中だってのにか」
 オスカーが眉を吊り上げた。
「これは女王陛下のご慈悲です」
 表情を変えぬままエルンストが言う。
「休み明けが怖いぜ」
 オスカーはがっくりと姿勢を崩して嘆いた。
 ただでさえ通常業務に試験育成が加わり、時差がなくなって追い立てられているってのに。休めばその分だけ仕事はたまっていく。それを消して見せるほどには、女王は慈悲深くは――あるいは万能ではない、と。
「それは叡聞に達してもかまわない談話でしょうか」
「かまう」
 オスカーはむっとしつつ、求められてしぶしぶケージを渡した。
「勝手に弄るとお嬢ちゃんが怒るぞ」
と、釘を刺す。
「承知しています」
 手出ししないと言っているのか承知の上でやるといっているのか、エルンストは腹を読ませない。
 ポーカーフェイスを絵に描いたようなやつだ、と思っているとオスカーが、
「いつかお前とポーカーをしてみたいもんだぜ」
 呆れとも感嘆ともつかず力の抜けた笑みを浮かべている。
「カードゲームなど時間の無駄です」
 にべもなかった。
「だがオセロならやるんだろう」
「ええ、オセロなら」
 オスカーは無言で肩をすくめ、踵を返した。
 禁足の件はわかっているものやら、とエルンストが眉根を寄せた。
「誓って大人しくしている」
 ヴィクトールは2人分大真面目に言った。
「信用しています」
 真顔で返されると責任重大だ。
 彼は通路の途中でオスカーに追いついた。親指で後ろを指し示して、
「勝負は申し込まないんですね」
と、声をかけた。オスカーは難しい顔で彼を見た。
「勝算があるなら考える」
 そして勝ったら、あの物堅い男をろくでもない遊びにつきあわせるのだろうと予想がついた。クールでドライな振りをしたがるオスカーが、他人を構おうとするのは笑みを誘われるはずの光景なのに面白くなかった。風邪なんかよりこっちがよっぽど重症だ。
 オスカーは負け惜しみでも言いたげな様子で後ろを振り返った。
「ふん、病なき聖地だと? 俺たちはどこにいたって十分病んでるじゃないか」
 ヴィクトールは彼の横顔をまじまじと見た。それは、この強靭な肉体、輝くばかりの健康を誇る男が言うことだろうか。
「……恋の病ということですか?」
 オスカーはいわく言いがたい眼つきで、半ば口を開けたまま彼を顧みた。少し間があって呆れたような半笑いを洩らした。
「あんた、だいぶ俺に毒されたな」
「違ったんですか?」
「人生はどれもすべて死への過程だ。おそかれはやかれ」
 何を言わんとしているのか分かる。だから諦めろ。忘れろ。短い人生を楽しめ。だが早過ぎる死はいつだって悲劇には違いないのだ。
「俺は貴方の物の見方は、人間のスパンを逸脱していると思います」
「ああ、俺もそんな気はしていた」
 研究院横の馬車だまりで二人は別れた。
 ヴィクトールは炎の紋章が入った馬車を、それが視界を脱するまで見送り続けた。

 落ち着きがないとか気が短いとか評価されたことは、少なくとも大人になってからは絶えてなかった。
 それを当然のように受け止めていたなんて、俺は案外自分を知らないな、とヴィクトールは思う。
 外に出るなと言われただけでひどく手持ち無沙汰になった。
 飲みたいわけでもない4杯目のコーヒーを淹れていると来客があった。
「こんにちは、ヴィクトール様」
 黄色いリボンを蝶のように頭にとまらせた少女だった。
「ちょっと待ってくれ。俺は今検疫中なんだ」
 ヴィクトールは一気に言って呼吸を止めた。
「あの…ロザリア様はお会いしに行っても大丈夫だと仰ってました」
 扉を押し返そうとしていた手を止める。
 日の曜日、滅菌剤を飲まされて部屋に戻ると、強力滅菌型のエアクリーナーが増設されてはいた。
 嘘をつくような子じゃないよな、と判断してほっと息をつく。
「私、お見舞いにと思って」
 アンジェリークは、はにかんでバスケットを差し出した。
 明るい色のかわいらしいブーケといつか好きだと話した豆の缶詰が同居しているのは中々のミスマッチで、一瞬声を失う。
「ああ…すまん。別に見舞ってもらうほどのことはなかったんだが」
「はい」
 教室でするのと同じように素直な返事を返して、アンジェリークはにっこりした。
「お元気そうで良かったです」
 ヴィクトールははたと気付いた。
 聖地には娯楽が少ない。
 だから一部では賭博と脱走が好まれている。
 そしてもっと広い範囲で噂が。
「……話が大きくなってるんじゃないだろうな」
「そんな! みなさま心配してらっしゃるだけです」
 語るに落ちたな、とヴィクトールは心の中で呟く。
「その……」
 少女は上目遣いに口篭った。
 緊張させているのが分る。小鳥か何かのようだと思い、握り潰してしまわないように気を遣い、それがさらに遠慮を引き出しているのも分かる。悪循環だ。
「失礼しまーす」
 細く開いたままだったドアを押して、もうひとりの女王候補が部屋を覗き込んだ。
「あっれー、アンジェも来てたんだ。偶然だね!」 
「うん」
 微笑み返すアンジェリークは少し紅潮していた。
「ヴィクトール様、一昨日はご迷惑おかけしてすみませんでした。ワタシ、ヴィクトール様がお菓子食べるとこなんて想像できないんだけど、庭園の商人が『そういうときは菓子折りや』って言うから」
 レイチェルは訛りを真似て引用した。
 にてるにてる、とアンジェリークが笑う。
「確かに俺は食わんな」
 小さな客があまりつけつけと言うから、ヴィクトールもつい遠慮なく答えてしまった。
「やっぱりー!もう、あんな怪しげなヤツ信じるんじゃなかったよ」
 レイチェルは庭園がある方へ向けて勢いよく親指を下に向けた。ティムカのところにはちゃんと学習に行ってるんだろうか、とヴィクトールは疑う。行っていてこれだったら、なおのこと歳若い同僚が気の毒ではあるが。
「そう言ってやるな」
 口で言うほど険悪な感じは受けないが、一応諌めることにした。
「だってこれー」
「わかった、有難く頂こう。お前らの茶菓子に使う可能性が一番高いが、その時は文句を言わずに食ってくれよ。それで構わないか」
「もっちろん」
「それじゃ解決だ。気を遣わせて悪かったな」
 ヴィクトールは紙箱をテーブルに置いてレイチェルを見下ろした。
 聞いても不自然ではないはずだ、と自問した。
「オスカー様のところへも行ったのか?」
 当然行ったはずだ。
 常に直球で強気なレイチェルのスタイルを己はよしとできずにいるが、炎の守護聖にはそこが気に入りのようだった。
 叱られるかもしれない自分のところより、仲の良い彼のところに先に行ったはずだ。
 様子を知りたかった。別れて1日経ったか否かだというのに、と気付いて苦笑しそうになる。
「行こうと思ってたんだけど私邸の場所が分んなくて。執務室も締め切られてるし、補佐官様もちょうどお留守で、ワタシ、さっきジュリアス様に聞きに言ったんだ」
「ほう」
とだけ、ヴィクトールは相槌を打った。
 それは飛んで火に入る何とやらではないのかとも思ったが、敢えて触れずにおく。
「連絡つけてくれてちょっとだけお話できたんだけど、遠いから来なくていいって言われちゃった」
 そこでまたレイチェルは声音を変え、
「『気持ちだけ有難く受け取っておくぜ。お嬢ちゃんが笑顔でいてくれたらそれでいいんだ』だーって」
「うまいわ、レイチェル」
「うまいのはオスカー様だよ。おかげでジュリアス様にこっぴどく怒られなくて済んだもの。あーゆートコ、やっぱりイイ男だよね」
 確かに、目の前でそれを言われて泣かせるわけにもいかないだろう。素で言っているだけかもしれないが、角の立たない牽制だ。
「ああ、そうだな」
 無神経なようでいて、細かい気遣いを示すことが出来るオスカーの懐の深さを彼は思った。その人の美点を確認するのは幸福な行為だった。
 少女たちは目を丸くしていた。
「……何だ」
 妙なことを口走ったか、と慌てて己を振り返る。普通に頷いただけだ。
「だって、ヴィクトール様がオスカー様を褒めるなんて意外だよ。幻滅してたんでしょ。オスカー様はすっごく傷ついてたんだから」
 失言を吹き込んだのはこのあたりか、と目星がついた。悪気がないから始末におえない。思わず溜息が出た。
「えー、ナニその反応」
 ヴィクトールは空笑いで誤魔化した。喋れば喋るほどぼろを出しそうな予感がある。
「いや、2人ともわざわざすまなかったな。うつしちゃ悪いからここまでにしよう。まっすぐ部屋に帰って、すぐにうがい手洗いをするんだぞ」
「小学校の先生みたいなこと言うんだね」
「小学校はともかく、俺はお前らの先生なんだがなあ」
「レイチェル」
 失礼なこといっちゃ駄目よ、とアンジェリークが袖を引く。
「お邪魔しました、ヴィクトール様」
 戸口から少女たちを目送し部屋に戻ると、狙いすましたようなタイミングで電話が鳴り始めた。
「なぁ、暇だろう」
 挨拶も抜きの、オスカーの声だった。
 力いっぱい暇ですと答えかけたとたん、エルンストに安請け負いしたことを思い出した。
 空いてるよな?と問われて肯定したら、遊びに行っていいかだのちょっと来てくれだのと続くのはいつものことだ。
「いえ、絶対にご自宅から一歩も出ないでください」
 はっとして返答になっていない言葉を返すと、オスカーが受話器の向こうで苦笑した。
「わかってるさ。どうしてるかと思ってな」
 ヴィクトールはとうに冷めたコーヒーのカップを手に取った。
 暇つぶしを兼ねているのだとしても、こうして気にかけて貰えるというだけで普段使いのコーヒーさえ格別に美味くなる。
 人を恋うとはこういうことだったか。
 話しているうちに彼はふと思い出した。
 先ほどレイチェルは何か、とんでもないことを言っていたような気がする。
 珍しいことじゃない、あの子が問題発言をかますのは。
 いちいち気にしたらペースを失うと、その場では聞き流したが、何だったか――ヴィクトールはかっと耳が熱くなるのを覚えた。
 オスカー様が、俺の暴言に胸を痛めてらっしゃったと言ったのだ。
 確かに最初のうち自分のオスカーに対する評価はかなり低かった。どうしてあんな事を軽く言ってしまったのだろうと今更後悔しても遅いが、風評など歯牙にもかけない人が俺の言葉には傷つくとはどういうことなのか、それにしても今のように親しく付き合えるようになったのはやはりこの方が器の大きい男だからだ、とそこまで一瞬で思って慎重にカップを置いた。
 支離滅裂だ。
 画像なしの電話でよかった。これは度を失っている。
「どうかしたか?」
 会話が途切れ、オスカーが訝しげに問う。
「あ、いえその、俺は貴方に謝らなければならないことが」
 善は急げ。過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ。
 炎の守護聖は唐突な言葉に鼻白むでなく、
「ふうん?」
 笑みを含んだ声で先を促した。
「俺は貴方を誤解していました。それで心無いことを言ってしまったのを、今深く反省しています。貴方は俺が思っていたよりもずっと素晴らしい人で、俺は貴方に……敬服しています」
 ますます顔が熱くなった。これじゃ冷たくあしらわれても優しく許されても恥ずかしい。
「あんた、それ電話じゃなきゃ言わないだろう」
 揶揄されるのが一番マシだった。
「はあ、面と向っては照れますが、しかしきちんと」
「いつかあんたを見返してやろうと、いや、見直してもらおうと思っていた」
 オスカーはふいに真面目な声音になって先を遮った。
「だからもう満足だ」
 通信はほどなく切れた。


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