his master's voice 5

 呼び止められた定期審査からの帰り道、少年がえらく真剣な顔をしているものだから、相談や依頼の類だろうとは思ったが、剣を教えてください、は予想外の言葉だった。
「俺は構いませんが、そういうことは師匠筋に失礼ではありませんか」
 ヴィクトールは慎重に、宥めるように答えた。
「オスカー様は、ヴィクトールさんがご迷惑でなければぜひ鍛えてもらえって言われてました」
 ランディは珍しくしょげた顔をした。
「俺、オスカー様から1本も取ったことがないんです」
「え、1本もですか」
 ヴィクトールは目を見張った。
「ああ、失礼。スピードはおありですし意外だったもので」
 まぐれで不意をつかれたなんてこともないとは、いくら実力の差があるといったって、並大抵のことではない。オスカーはよほど気合を入れて相手をしていると見えた。
 伸ばしてやろうと思うなら少しくらい打たせてやってもいいだろうに、格好付けが先にたったか、と苦笑したい気分になった。あるいはランディは素直に過ぎて、仕込んだ男には剣筋が手に取るように読めてしまうのかもしれなかったが。
「俺、女王候補たちがぐんぐんしっかりしてきて素敵になっていくのを見てると、自分も成長しなきゃって思えて。この試験の間にオスカー様から1本取るのが目標なんです」
 よろしくお願いします、と意気込んで言われ、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 ヴィクトールは反射的に一礼を返した。
 顔を上げた瞬間、視界の端を薄く光る何かがよぎった。ヴィクトールは目をしばたいた。輪郭がぼやけてよく見えない。鞠のように弾んで森の中へと入っていく。
「ランディ、そいつを追え!」
 遠くオスカーの声がした。
 ランディは振り返ってあれを?と指差した。
「急げ」
 レンガ敷きの道の向こうでオスカーが叱咤する。
「はいっ」
 後輩が駆け出すのを見て、オスカーは足を緩めた。後ろを振り返って何事か話しかけている風だったが、やかて少女をともなってやってきた。
「よう。邪魔しちまって悪いな」
 すみませーん、と言葉を重ねるレイチェルは、まだ息を弾ませている。
「ヴィクトール様、今の見ました? ちゃんと見えました?」
 いやはっきりとは、と答えるのを彼女は聞いてはいない。
「あれ、ルーティスなんです。メチャクチャかわいーでしょう!」
「こら、なに能天気なこと言ってるんだ」
 オスカーがその頭頂に、見るからに痛くなさそうなげんこつをくれる。
「全くです」
 小動物用のケージを手に追いついてきたエルンストが真顔で首肯した。
「宇宙の意思を外に呼び出すなど軽率にも程があります。我々はやり直しのきく実験をしているわけではないのですから、物事は思慮深く進めて頂かなくては困ります」
「わかってるよ!」
 レイチェルはぷぅとむくれた。天才少女はエルンストの前だと殊更生意気になる。
「だけど理論上は出来ないことになってたでしょ。人間が行き来できてサクリアが送れるならイケるはずなのにって思ってたんだよね。試してみる価値はあったよ」
「その点は実に不思議です。聖獣は我々が仮定していたような存在ではない可能性も出てきますからね。捕獲したら徹底的に調査しなくては――いえ、不用意な行動は危険です」
 絶対に余計なことはしないで下さいと、主任研究員は言葉を翻した。言い返そうとしたレイチェルの背をオスカーの手が押した。
「さあ、追うぞ」
「はーい」
 なんて反抗的な、とエルンストが小声で愚痴をこぼす。
 俺も苦手なタイプだが、少なくとも授業中に扱いづらいと思ったことはないんだがな、とヴィクトールは思った。とはいえ、親しみの表現のうちだろうと言ったところで慰めになりそうもないのでは、沈黙を守るしかない。
 キープアウトの看板を無視してオスカーは森の中を進む。ヴィクトールはそれに気付かない振りをした。
 5分も歩くとあたりは深い緑に覆われた静かな世界になった。木立の向こうにちらちらとランディの背中が見える。
 近づいていくと、ランディは注意を促すように後方に手を伸ばした。なんだろう、と顔を見合わせる。オスカーはひとり躊躇いもなく足を進めた。
「どうだ」
「さっきからずっと水辺をうろうろしてるんです」
 ランディは囁き声で答えた。
「いっそ脅して離れさせましょうか」
「いや……相手は何をするかわからん生き物だぞ」
「どうしたんですか?」
 レイチェルが2人の間にひょいと頭を出した。 
「あの池はちょっとわけありでな」
「うわッ、オスカー様!」
 問いに答えて目を離した男の腕をランディが引いた。
 風もないのに池は波立ち、人の背丈を越えようとしていた。
「くそ、俺が追う。ジュリアス様には上手いこと言っといてくれよ!」
 オスカーは下生えを踏み越えて飛び出した。 
 エルンストは2,3歩その後を追った。
「でしたらケージを」
と、言いさしたところで立ち止まり、放り投げようとした。
「おい待て」
 こんなものが頭にでも当たったら大変だ。ヴィクトールは慌てて籠を取り上げ、オスカーの後を追った。
 水しぶきが視界を悪くする。青いマントの背に肉薄したと思ったとたん、体が沈み込んだ。
 乱反射する水滴がまぶしくて何も見えない。
「……っ、馬鹿野郎」
 二の腕を掴まれた感覚だけが確かだった。

 背中の冷たさで彼は異変に気付いた。
 仰臥しているならば視界に繁っているべき枝葉がない。
 まだ混乱の中にある彼を炎の守護聖は真上から覗き込み、
「何でついて来たんだ」
 憮然として言い、彼が答えられずにいるのを見て大きく溜息をついた。
「俺がもっと早く帰らせてりゃ良かったんだよな」
 では立看板に気づいていなかったわけではないのだ、とヴィクトールは思い返した。
「そういえば以前もあまり深入りするなと仰ってましたね」
 起き上がって辺りを見渡すと視界を白が埋めた。
「ああ」
 頷く青年だけが雪原の中で色鮮やかで思わず見惚れた。
 精緻に整った面はしかし精悍に引き締まって男性的だ。
 軍装を着こなす体躯は鍛え上げられて逞しい。
 その人はいつだって導き守る立場にいるのが当然で、物の弾みの助太刀さえいらないと言い切る。
 ヴィクトールは目を逸らした。
 崇拝の陶酔の中にすべてを溶かし込むつもりなら、それを寂しいなどと思うのは、この上なく危険な兆候だった。
「こういう危険があるからですか」
「俺は部外者に詳しいことを知られたくない、と言ったはずだぞ」
 その時には喧嘩を売られたような印象を受けた。今はそれだけだったとは思えない。
 オスカーはよそを向いたまま僅かに顔を顰めた。
「聖地のことを知れば知っただけ、女王府のマークは厳しくなる。あんたのようなやつは、善意で動いてるうちにドツボに嵌るのがおちだ」
 その視線の先で、青白い光が躍っている。
「飼い主に似ておてんばだな」
 眉間の皺がほどけた。
 ヴィクトールは青年の横顔と視線の先とを交互に見やった。
「俺たちには見えないはずでは?」
「こちらの宇宙に来るにあたって、実体化する必要があったのだろうとエルンストは言っていた。ゆえに物質的な拘束が可能なはずだと」
 オスカーはヴィクトールが手に提げているケージを一瞥した。
 跳ね回っていた毛玉の塊めいたものは、近づいていっても怯える様子はなかった。
 じゃれかかるように間近を飛び回る小さな聖獣を、オスカーは目を細めて見ていた。
「どうも貴方になついてやいませんか」
「俺があのお嬢ちゃんの依頼で、どれだけ炎のサクリアを送ったと思ってるんだ?」
 無意味に流し目などくれるのはやめてほしいところだった。
 しばらく好きにかぎまわせたあと、オスカーは慎重に手を伸ばした。そっとつかんでケージの中に入れ、蓋を下ろす。
「あとは迎えを待つだけだな」
「迎え?」
「あの池は強制的かつランダムに転位させることしか出来ない。じきに研究院が俺のサクリアを特定して、迎えの船を寄越すだろう」
 ヴィクトールは目の前が暗くなるのを覚えた。
「かりにも守護聖様が、何だってそんな危ない橋を渡ってるんですか!」
 つい大声を出していた。
「俺が守護聖様だから、聖地から見つけることができるんだぞ。何も考えずに飛び込んだのはあんたの方だろうが」
「……それはそうですが。それにしたって凍死でもしたらどうするつもりですか」
 御世に守護聖が欠けるなど、考えるだに恐ろしい。
「夜になる前に雪室でも作ろうぜ」
と、オスカーは話を逸らした。
 丘をくだり、中腹の斜面に当たりをつける。
 オスカーは大剣を剣帯から外し、刀鞘をヴィクトールに渡した。
 固く積もった雪に刃を差し込み、掻き出していく。
 やばい楽しくなってきた、とオスカーが笑う。
 反省してませんね、と言いつつヴィクトールも笑った。
「上から潰されたら一巻の終わりだな」
 雪洞へ這い入りながらオスカーが呟いた。
「怖いことを言われますね」
 ヴィクトールはあちこち叩いて強度を確かめ、
「まあ大丈夫でしょう」
 半ば気休めだったがそう口にした。枯れ草を敷いた上に並んで腰を下ろす。風雪は時が経つにつれ激しくなった。
「冬生まれは寒さには強いはずなんだが」
 オスカーが虚勢めいたことを言いながら歯を鳴らした。
「冬生まれでも寒いものは寒いですよ」
 ヴィクトールは苦笑した。
「そうか、お前もか」
と、甘えるように身を寄せてくる肩を抱き寄せた。
 オスカーはしばらくして腰を浮かせ、向かい合わせに腕を回した。
「うん、ちょっとあったかいか…」 
 耳元でふうと息を吐く。
 体温は単純に貴重な熱源だ。
 それ以上の意味などない抱擁だ――が。
 まずい、とヴィクトールは奥歯をかんだ。あらぬところに熱が集中する。
 これが恋なら。
 信仰ならざる愛なら。
 認められたい、受け入れられたいと思うのはほとんど反射的なまでに自然な欲求だった。感情的にも、肉体的にも。
 摺り寄せられた体の重み、絡みつく手の力強さ。基本的な衝動が思考を奪う。
 彼は硬く張り詰めていく欲望ができるだけ触れないよう体勢をずらした。
「オスカー様…」
 ヴィクトールは、敬虔な信仰者の幸福の中に己を閉じ込めることに失敗したのが分かった。
 首元に埋められた頭に触れる手はもう意味を持っている。背を撫でる手はすでに着衣の下の体を味わう意図を殺しきれない。 
 駄目だ、と理性を振り絞る。言葉を捜す。ひた隠しにしなければならない想いだ。
「眠らないで下さいよ」
 何食わぬ風を装って言えた。
「寝たら死ぬぞってぐーで殴るんだろう」
 オスカーは顔を上げてくくっと笑った。
 死線をただのスリルにしてしまう。
「それ、洒落にもなってませんから」
 見知らぬ土地で肩寄せ合っている状況の特異加減が、今更に身にしみる。
「……どうも貴方といると俺は、果てしなく遠い場所へ連れて行かれてしまうようです」
 それは必ずしも移動を伴うわけではない。目まぐるしく世界が変わる……それに世界を見る目が。このスピード感は目眩を起こしそうなほどだ。
「勝手に付いて来たくせに」
 オスカーがそっけなく答える。声もなく笑っているのでからかっているのだと気付いた。
 無論のこと雪原も星空も初めて見るわけではなかった。どこへでも命あらば飛ぶのが派遣軍だ。世界への目を開かせるのは、今やただひとりの人だった。
「付いて行かせて下さいませんか」
と、ヴィクトールは呟くように、祈るように言った。
 眠気覚ましのためと途切れがちに話を続けるうち、時間は長く引き伸ばされていった。
「今、何か聞こえませんか」
 ヴィクトールはホバリングの音に気付いて穴を這い出た。
 吹雪はやんでいた。日はとうに高かった。
 千切れ雲を端に散らしてきんと澄んだ空を見上げた。空の青さを、美しいと思うよりも前にオスカー様の瞳のような色だと思う。……もうだめかもしれない。
 溜息を洩らしそうになって、深呼吸に摩り替えた。肺が冷感を痛みとして伝えた。両耳の間を穿つような寒気。突風がその額から悩みを吹き払っていく。
 彼は思い人を振り返った。
 微笑で応えてくれる、それだけで胸が温かくなる。
 これが恋だってかまうものか。


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