「そろそろいいか」
オスカーがグラスを置いてすっくと立ち上がった。
「出かけるぞ、ヴィクトール」
「は?」
ヴィクトールは面食らって青年を見上げた。
弱音を吐いて少々気まずくしていたところへ久しぶりに手合わせしようと訪問があって、そのあと夕食を振舞って――まださほどたってはいない。素面のはずだ。
オスカーは当然のようにヴィクトールが従うのを待っている。
「どちらにですか」
ヴィクトールは腰を上げながら聞いた。
金の曜日の夜、多少羽目を外しても、差し支えはないが……。
「面白いものをみせてやるよ」
オスカーは笑ってまともに答えなかった。
庭園を突っ切り研究院の前まで来ると、明かりがほとんど消えているのを確認して満足げにうなずいた。
音を立てぬよう扉を僅かに引き、気配を伺ってから滑り込む。
2つ、3つと角を曲がるオスカーの足取りに迷いはないが、ヴィクトールは念をいれて経路を記憶しようと努めた。
足音が少し先で響いた。オスカーは角に身を寄せ、さがれ、と手で示した。
「くそ、思ったより残ってたな。仕事熱心なやつらだぜ」
人の気配が程近い区画をやりすごすと、後はそのままずんずん奥へと入って行く。
なにも恐れるものはないとばかりに。
しかし、見つかりたくないというのはやはりこれは不法侵入をしているわけだ。
カウンター、開架資料室、食堂、射撃場。ヴィクトールは指折り数え、5つめを思い浮かべられずに手を開いた。彼自身はそれくらいしか立ち入ったことはなかった。それ以上が許されると思ったことも。
「いいんですか」
ヴィクトールは声を潜めた。
オスカーは足を止めずに後ろ向きになった。
「正しいことだけを一緒にするのが友達か?」
悪ガキのようなことを、悪ガキのような顔で言う。
「しかし、見つかったらいったいどんな罰を受けるんですか。斬首だと言われても俺は驚きませんが」
「まさか」
オスカーはぶっと吹き出した。
ヴィクトールはいたって大真面目だ。聖地はまるでおとぎの国。だから不安になる。花一輪の代償にまだいない娘を求められはしないかと。
オスカーはちらりと目を伏せた。
「殺されやしないかと、そう言いつつあんたはついてくるんだな」
壁際から投げかけられる明かりに、睫毛が長い影を落とした。炎の守護聖はふいと顔を背けて前向きに戻った。
「……オスカー様を信用していますので」
自分に破滅願望はないはずだと思う。
見つかって譴責されたとして、義理堅く庇ってくれそうな気もする。
嘘を吐いてはいない。
だが心の底を見抜かれたような気分になった。
オスカーは廊下の突き当たり、大きな扉の前で足を緩めた。
扉はオスカーが手を翳しただけで開き始めた。
ついて来い、と顎で示されて、ヴィクトールは中へ消えるオスカーの後を追った。
「オスカー様」
暗い部屋の中ほどで佇む青年の側に足を止める。
二重の扉が閉じてしまったせいで辺りはよく見えない。
抑えられた一連の機械音がして、銀色の曲線を描く金属に支えられた透明な球が、かすかに発光しながら彼らを包み込んだ。
オスカーは虚空に視線を向けていた。あたかも彼にはそこに何かが見えているかのように。
「通常方式で関与を開始」
横目で振り返って口の端を吊り上げる。
「立入禁止が原則だが、実際に悪影響があるわけじゃない。データを取るために研究員が立ち会うこともあるしな」
「何の話を……一体何をするつもりですか?」
ヴィクトールは眉をひそめ、今更ながらの問いを発した。
「時空を開くんだ。静かにしていろ。お前にもふたつの宇宙にも害はない」
球体の内面に触れたその掌が血の色を透かして紅く輝いていた。
「来い!」
瞬間、外の闇に闇が重なり、次いで光があふれ出した。
どこまでも限りなく続く深淵。
存在することそれ自体の圧倒的な迫力。
四方を見渡すと立っている感覚がなくなる。
満天の星空だった。
夢うつつのままにヴィクトールは夜空の下へ出た。
月明かりに正面階段が白く浮かび上がっていた。
オスカーの背が少し先を行く。
「あれが新しい宇宙だ」
後姿が若木のようにすっと伸びている。
「美しいだろう」
ヴィクトールには答えられなかった。
重大な挫折と喪失のあとで、どんな爽やかな朝にも、世界はもはや純粋に美しくはなくなった。
ただの抑鬱反応だ。それが償いでも罰でさえないとよく分かっているつもりだったのに、彼は今たじろいでいた。
生まれたばかりの宇宙は意味深い明滅で彼の目を引き付けた。この清らかな聖地の夜はまるで一幅の絵のようだった。見上げる星空もきらめきに満ちていた。まるでダンスのターンのように、切れのある仕草で振り返る炎の守護聖は美しかった。
「お前が何のためにここにいるのか見せたかった」
ヴィクトールは立ち止まった。
俺でなければ別の誰かが見いだされただろう、と内心で思った。
見知らぬ誰かが慣れない教師役に四苦八苦しただろう。浮世離れした同僚たちに頭を抱えたり、無邪気な少女たちにどきもを抜かれたり、何を考えているのか分らない守護聖たちに振り回されたりしただろう。
それに、オスカーに笑いかけられて、心臓が跳ね上がったりしただろうか。
それが自分ではない誰かでなくてよかった。
かすかな笑みが口元に上った。
「おい、なんで黙りこくってるんだ?」
オスカーは少し心配そうに眉を寄せていた。
ヴィクトールはひとつ息をついた。
「圧倒されたんです。星の海なぞ見慣れているつもりでしたが」
「そういやそうだよな」
女王直属の軍勢はその通常任務に付随する恒星間移動をもって派遣軍と呼ばれる。あんたには珍しくもなかったか、とオスカーは苦笑した。
「一度事前調査で行ったが、あっちで見るともっとすごいんだ。原初の力に、あふれていて」
両腕を開いて言い募るオスカーからも生命力の放射がまぶしい。
躍動的な身振りの中に生きる歓びがはぜているかのようだった。灼熱となってあたりを薙ぎ払うかのようだった。
「いえ、充分でした」
その光に触れ、自責の堂々巡りが失活してゆくのをヴィクトールは感じた。
注がれる厚情にいっそ泣けてきそうだった。
派遣軍の軍神たる炎の守護聖。司る力のままに強大な人。この絶対的な存在に、お前の人生には意味があると追認される以上の歓びがあるだろうか。
ヴィクトールは目元を覆った。
桎梏は外された。心が求めるものは1つだけだ。
掌をずらせば2、3歩先を行くオスカーの匂いやかなうなじが目の前にある。
よりにもよってその人は、星の高みに燦然と輝く軍神だ。
おまけに名高い女たらしと来た。
抱きしめて思いを告げたい衝動に辛うじて耐えた。
望みのない感情だ。
しかし、オスカーに何一つ望まずに敬愛し続けることはできる。
その人の姿勢に倣い、その人の叶わなかった夢をなぞって生きてゆくことは出来る。
それはすでに幸福を帯びている。