his master's voice 3

「ヴィクトール!」
 カフェテラスの小さな丸テーブルから、オスカーが手を挙げた。
「混んでるだろう。相席するか」
「助かります」
 ヴィクトールはテーブルの間を縫って近づいていった。
 あれから手合わせすること5回、招かれた茶会で出くわすこと2回。正面から向かい合うようになって、普通に接しているつもりで、これまで彼を避けていたのが分った。
 オスカーは負けず嫌いだがからりとした性格だった。嫌味なほど自信たっぷりの言動を、自負の分だけ確かに出来ると認められるようになった。ふざけているようにしか見えなかった態度さえ、余裕があって伸びやかだと思えてきた。人の感情というものは、いかにも不確かで移ろいやすい。
「おひとりなんですね」
 おめずらしい、とヴィクトールはあたりを見回した。
「この店の子とデートしたばかりなんだ」
「ああ」
 椅子を引きながら眉を顰める。
「おい、何で礼儀を守ってそんな顔されなきゃならないんだ」
 オスカーが口角を尖らせた。
「恋人の店に女連れで来るか、というなら分りますがね。俺は貴方の多情ぶりは見ていられませんよ」
 オスカーは一瞬目を丸くした。そうか、と笑って抗弁しなかった。意に介さないと言ったも同然だった。
「誰彼かまわず愛を囁くなんていうのは軽薄です」
 ヴィクトールは意地になってしかめつらしく言い、
「ご忠告いたみいるな」
と、オスカーはおどけてみせた。
 ヴィクトールは正面でパンをちぎっているオスカーを見る。つけいる隙もなさそうな、精悍に整った面。どうした、と空とぼけて見返してくる瞳の完璧なアイスブルー。
「どうもしません」
 憮然となりもする。
「……あー、ふざけすぎたかな」
 オスカーは肩をすくめた。
「俺のためを思って言ってることくらい、ちゃんと分ってるぜ」
 ぱちりとウインクなどしてみせる。
 この方に軍歴はない、とヴィクトールはもう一度思い出した。
 不用意な態度が同性を魅惑してしまう危険など、考えてもみない。
「だがすべての女性の笑顔は俺の活力の源だ。仕事にしたって、俺が守っている世界の人間の半分はうるわしい女性なんだと考えたら、やる気が出るだろう?」
「だろうってそんな、俺に聞かれたって知りませんよ」
 届けられた昼食の皿を受け取りながら、ヴィクトールは呆れ顔になり、低次元な覚えはある反駁をかえした。
「ああ、それで思い出した。仕事と言えば金の曜日から出張が入ってな。帰宅がいつになるか分からないから、週末の約束は先に延べしてもらえないか」
 土の曜日に剣の鍛錬に付き合って欲しい、と誘われていた。スコアは2勝3敗1分け。実力は伯仲している。単調な辺境警備の退屈を味わったことのあるヴィクトールは、ましてやこのまどろみの中にあるかのような穏やかな聖地で腕を鈍らせないのがどれだけ意志の力を必要とするか、思い巡らせては密かに感嘆していた。
「ええ、俺はいつでも結構ですよ」
 ナイフとフォークを取り上げながらうなずく。
「そうか、悪いな」
 オスカーはけれんみのない笑顔になった。
 誰かを誑かそうという意思のないときの方がいい顔をするのを、きっと本人は知らないのだろうが。
「いえ」
 教えてなどやるものか、と思う。その方が世のため人のためだ。
「しかし予定が立たないとは、何かやっかいな問題でも起こったんですか?」
「視察がてら発破をかけに行くだけだ。週明けには戻るつもりだが…今は時間格差がないから、スケジュールがギリギリなんだよな」
 オスカーはふと思いついたように視線を上げ、
「そうだ、もしかしてあんたなら知ってるか」
と、いくつかの基地のコードと地名人名を挙げて知見を求めた。その中に偶然、知っているものがあった。ヴィクトールは問われるままに披瀝して、
「あくまで私見ですが」
と、断った。
「いや、参考になる」
 アイスブルーの双眸に宿る信頼を、ヴィクトールは甘やかな水として汲んだ。
 オスカーは縄張り意識の強い男だ。人に頼ることを嫌う男だ。心ゆるされることに重みがある。
 しばらく食事を進めながら会話を続けた後、オスカーは椅子を引いた。
「じゃ、悪いが先に行くぜ。前準備で仕事が山積みなんだ」
 口で言うほど辟易しているような顔ではない。
 親しく付き合うようになって分かったことに、オスカーは意外と仕事好きだった。
「お疲れ様です」
 腰を浮かしかけたヴィクトールに、いいから、とオスカーが手を振る。
 見送る視線の先で風が吹いた。
 青いマントを巻き上げ、カフェテラスを駆け抜けていった。
 ほんのそよ風だったが、ヴィクトールは高高度降下訓練を思い出した。
 ハッチの側に立つと、バーを握り締めていても体は強い風に吸い出されそうになる。あんなふうにぐいぐいと、オスカーに引かれていく。


 日の曜日の夜、ソファに寝転がって本を読んでいるとベルが鳴った。
 ヴィクトールは跳ね起きて玄関に向った。
「今帰ってきてな。昨日の詫びに土産だ」
 ドアの向こうには、上機嫌のオスカーがいた。
「は?」
 思わず目と耳を疑い、あわてて言葉を繕う。
「あ、その、わざわざ恐れ入ります」
 頭を下げると、差し出された細長い紙袋の中に暗い緑のボトルが見えた。
 青年は無言でにこにこしている。
「飲んでいかれますか?」
 ヴィクトールはなんとはなし要求されているものを悟り、青年を室内へと招いた。
 急いでソファを整えて座らせ、ローテーブルでボトルを取り出す。手にした硝子の感触はよく冷えていた。
 最初から、どう転んでもすぐに飲むつもりだったなと気付いた。
 グラスを出し、チーズの封を開けながらヴィクトールは訪問者に声をかける。
「それにしてもめずらしいお客様だ。残り少ない休日を、こんなところに来ていていいんですか」
「この時間に帰ってデートでもないだろう」
 客人は肩をすくめた。癖と言うには自分がどう見えるか知りすぎているような印象を受けるものの、率直で男らしく人好きのする仕草だった。ソファの背に腕をまわし、ふっと小さく笑みを浮かべる。
「だがこのまま眠るなんてのは、どうも人恋しくていけない」
 どきりとした。
 からかわれているような気がする。
 突然の訪問を受けたのは間違いだったかもしれないと、ヴィクトールは内心の困惑を溜息に紛らせた。
 最初の杯が空く前に、水滴が窓を叩き始めた。
 遠雷を聞きながら、それでもあのままオスカーを帰らせ、濡らす羽目にならなくてすんだのだけはよかったかと思いなおす。
「……雨なんて降るんですね」
「でなければどうやって、聖地の草木が保たれていると思ったんだ?」
 オスカーは目を細めた。上機嫌と言うより、ただエンジンが高速回転しているような感じがした。
 聖地の不思議だけでも話は尽きなかった。
 オスカーは相手をおどかそうとやっきになった少年のように、あやしげな話をいくらでも取り出してきた。
「冗談でしょう?」をヴィクトールは数え切れないくらい繰り返した。
 いつもより饒舌だった客は、酒が進むと少しずつ口数が落ちていった。
 卓上には空になった瓶が3本。
 互いの空いたグラスに注ぎ分けようとしたオスカーがボトルを手にとったところで気付き、不満げに鼻を鳴らした。
「まだ飲むんですか? 明日に響きますよ」
「いや、大丈夫だ」
 いっそ潰してしまおうかと思う自分も、アルコールのせいで判断力が落ちている自覚はある。
 ヴィクトールは窓際のキャビネットに4本目を取りに行ったついで、天候を確認するためにカーテンを開けた。雨はまだ止みそうもない。
 ウィスキーの封を切り酌をしながらふと気付く。そういえば自分は、傘を持ってきていただろうか。明日も雨がやまなかったらどうしたものだろう。
「なあ、派遣軍の話を聞かせてくれないか、ヴィクトール」
 唐突な言葉に顔を上げる。
 オスカーはソファに深くもたれ、天井を仰いでいた。
「俺も昔……軍人を目指していた。女王直属の王立派遣軍に勤めることは、俺の夢だったんだ」
 露になった咽喉が微かに喘ぐように動いていた。
「もちろん今だって俺は女王陛下にお仕えする騎士だ。御尊顔を拝し奉り、親しくお言葉を賜るなど、守護聖でもなければそうそう許されるもんじゃない。俺は本当に光栄に思っている。ただ……」
 少し考えるように言葉を切って身を起こし、太腿に腕をついた。
「お前が構わないと思うことだけでいい」
 ぐいと近くなる距離に、透き通るような薄蒼の瞳があった。
 明澄な目を持つのはさみしいことだ。
 人の世である下界から帰ってきて、人恋しいとオスカーは言った。守護聖を同属扱いする人間などいるわけがない――それこそ口説いて個対個の領域に持ち込みでもしなければ?
 思考は飛躍する。麻痺する。酔いのせいだ。
 ベルベットのような声が囁く。
「夢の続きを、教えてくれ」
 ヴィクトールはボトルを置いた。つばきを飲んだ。窓の外、雨脚が速くなった。
「それは、構いませんが」
 俺の話など面白くはないと思いますよ、と苦笑して答えた。
 言いたくないことは良いと言うのに甘えて、愉快な思い出だけをたどった。それから彼が炎の守護聖として、王立派遣軍に関わって職務を果たす時に、何か役に立ちそうなことはないかと探した。その内いいことばかりを告げると未練が生まれはしないかと恐れ多くも危惧を抱き、厳しかった任務のことも話すようになった。
 夜はうつつの夢のうちに更けてゆく。
 炎の守護聖が王立派遣軍に並々ならぬ関心を示すのは、今や足を洗おうとしているとはいえそれに属する軍人にとっては素晴らしい出来事だった。オスカーが自分の話を喜んで聞き、その時々の判断を肯定してくれるというのも素晴らしい体験だった。
 素晴らしすぎてやりきれない。
 恵まれすぎていて気が狂いそうだ、と、口癖のように思った。
 人間の精神が理由のない恩寵に耐えられないことを、彼はよく弁えている。
 これは与えられるべきではない僥倖だ。是正されなければならない誤解があるはずだ。
 言わずもがなのことを、いつの間にか口走っていた。
 自分は惨めな落伍者、罪深い失敗者、死に遅れた敗残者にすぎないと。
 いっそ軽蔑してくれと視線を落としたら、このまま一生顔を上げられないような沈黙の重圧を感じた。
「ふん、生き残って50年か60年か。ここから見ていれば瞬きの間だ。もちろん俺にはあんたの苦悩が理解できてないんだろうな?」
 オスカーは低く低く呻くように言った。
「世界を統べる女王陛下がお前を召し上げたんだぞ。お前を。生きていて良かったと、生き残るべくしてそうなったんだとは思わないのか」
 ヴィクトールは瞠目してオスカーを見た。その言葉を飲み込めない塊のように感じた。
「……貴方が運命論者だとは知らなかった」
 だが、それを責めることなどできようか。逃れられない運命が若者の背骨に絡み付いている。
「人間には死ぬべきときと生きるべきときがあるんだ」
 オスカーの目は据わっていた。刃物のようにぎらぎらと輝いていた。
「罪悪感なんか物の役にも立たん。あんたはしっかり前を見てろ」
 稲妻が走ってあたりを照らし出した。まるで、映画の登場人物にでもなったような気がした。


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