his master's voice 2

 明けて月の曜日、朝のうちに2人の女王候補は学習を済ませて行った。 ヴィクトールはこれは野外実習の下調べだ、とかなり本気で自分に言い聞かせ、教室を出た。座学よりも体を動かす訓練の方を重く見るのは、その経歴から言って彼にとってはごく当然のことだった。
 学芸館の裏を流れる川に沿って地理を検分していく。軽いレンジャー訓練などはどうだろう。平常心と努力が必要で、しかし女の子たちが尻込みしてしまうほど難しくはない課題。
 そこでひとつ気付いて頭を振った。
 そうだ、条件がもう一つ。日常的に通りがかるような場所でだ。
 聖地の警備を統括しているという炎の守護聖に、部外者に詳しいマップを覚えられたくはないんだがな、と以前釘を刺されている。あれが敵意だったか単なる注意喚起だったか、ヴィクトールは測りかねていた。
 セイランだって、スケッチだと言って自分よりもよほどふらふら歩き回っている。真っ正直に受け取ることもないのだろうか。もっとも件の同僚は、何も言われていないと言われたが無視しているが五分五分だから本当はあまり参考にはならない。
 風の守護聖は「オスカー様はあれで仕事には真面目だから」とフォローめいたことを言った。
「そんなに神経質になることはないんじゃないですか? 勝手に地形が変わることだってあるし。オスカー様は用心で言われたんじゃないかと思うんですけど。はは、俺なんか今でもたまに迷っちゃって」
 少年の照れ笑いには説得力があった。
 それでも少なくとも忠告した本人には、いかにも聖地探索中といった姿は見られたくないものだ。
 間の悪いことに、そう思っているときに限って出くわす。
 前方の木陰でオスカーは女性を胸に抱き寄せていた。
 気配に気付いて炎の守護聖が顔を上げると、腕の中の女は小さく何事か言って駆け出した。すれ違うときにヴィクトールは見た。彼女は泣いていた。
 うんざりしながら、今更逃げるわけにもいかず足を進める。
「申し訳ありません」
 何が、と問うような眼差しでオスカーは彼を見た。
「悪いときに来合わせました」
「別に」
と、オスカーはそっけなく答えた。
 もう少し恥じらいと言うものがあってもいいのではないか、とヴィクトールは内心でごちる。これが地上なら最近の若者は、といくところだが、爺さんの爺さんが物心つく前から星の高みにまします炎の守護聖はオスカー様だいう驚異の事実があった。
 川筋をまっすぐ行くと森の湖に行き当たる。オスカーの足もそちらに向いていた。名高いデートスポット、待ち合わせでもあるのだと気まずいなんてものじゃない。ヴィクトールは進路を変え、オスカーと別れた。
 ついていないというか何かにつかれたようというか。
 それからカフェで、聖殿の中庭で、公園で、彼は何度となく炎の守護聖を見かけた。見るたびに違う女性といるのは珍しいことではない。
 うっとりと幸福に酔わせるあの手際が、鳴りを潜めていることだけが常とは違った。
 夕刻、女王補佐官に報告を上げて部屋を出ると、またしてもオスカーが愁嘆場を演じていた。ヴィクトールは思わず柱の陰に隠れた。
「どうぞお元気で」
と言う涙声にオスカーはほろ苦く笑いかけ、手を伸ばして生垣の花を折った。
「君も」
と柔らかく囁いて生花を彼女の胸元にそっと挿した。頬に唇を寄せた。
「そこまで送っていこうか」
「いいえ、まだ整理がありますの。素敵な思い出を有難うございました」
 ドレスをつまんで一礼し、彼女は去っていった。オスカーは目を眇めて後姿を見ていた。その肩からふっと力が抜け、壁についた。やがて彼はおもむろに身を起こした。
「もう出てきていいぜ」
 オスカーはかつかつと足音をたてて歩き出し、
「あんたに言ってるんだがな」
 通り過ぎざま言った。
 ヴィクトールは今度は謝らなかった。後を追ってあと2歩まで迫り、
「どうかなさったんですか」
と声を潜めた。
「はぁ?」
 オスカーは眉間に皺を刻んで彼を振り返った。ヴィクトールは、胸焼けがしそうなほど甘ったるい笑顔よりもその表情の方が、青年の美貌を引き立てていて似つかわしい、とふいに思った。
「まるで切れて回っているようにお見受けしましたが」
「だったら嬉しいか」
 軟派な俺がいやなんだったよな?とオスカーは口の端を吊り上げた。どこをどうまわって愚痴が漏れたのやら。推理が動き出す前に次の言葉が来る。
「残念だったな。彼女たちは今日、ここを期間満了で出て行くってだけのことだ」
 聖地は望んでもそう容易く足を踏み入れられるようなところではない。限られた人数、厳しい審査、そしてごく短い期間。ヴィクトールはここに来る前にそうレクチャーされたのを思い出した。
「聖地の時間はサクリアの特性にそって凝縮されている。そのため通常の人間の立ち入りは安全上厳密に制限されるんだ」
 オスカーはそこでちらとヴィクトールを見た。
「今は時の流れは外と同じだが、規定は変わってない」
 その目がまるで、お前たちは制限期間をこえて滞在するのに、と不平を言っているかのようだった。
「すみません」
 ヴィクトールは結局、わびの言葉を口にした。
「あんたが謝ることはないんだ」
 オスカーが苛立ちを滲ませて言った。
「はぁ、それはそうなんですが」
「悪くもないのに謝るなんて、そんな将校があるかよ」
 ヴィクトールは、ああ、オスカー様は軍隊の実際をご存じない、と思った。この方には、憧れに胸膨らませる士官候補生だったことしかない。
「軍では、上官が黒といったら白でも黒ですから」
「俺はあんたの上官じゃない」
 上官どころじゃない。雲の上の存在だ。
「王立派遣軍の軍神たる炎の守護聖様です」
「当てが外れたろう」
 ごく普通の信仰をもって生きてきた人間にとっては、オスカーに限らず守護聖は人間的すぎるほどに人間的だった。
 ヴィクトールが言葉に詰まっていると、オスカーは笑い出した。笑いはすぐに干上がった。
「また手合わせでもしてくれ」
と、言い置いて前庭に出た。
 その肩が少し疲れて落ちているような、その目元が何か悲しみに張り詰めていたような。気のせいだ、おそらくは。
 だが放っておけないと思った。
 時の流れに取り残されて、刻一刻と愛の対象を失いながら、懲りもせずにプレイボーイを続ける神経というのは、どういうものであろうか。
 楽しいばかりではあるまい、と思った。
 この方は本当は、とても寂しいお方なのではないかと。


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