his master's voice 1

 目が覚めるたびに身体は何処もかしこも馬鹿に快調で、雨が近いために古傷が痛むなどと言うこともない。
 カーテンを開けば穏やかな聖地の朝が広がっている。いと高き所のお方の慈悲によってすべてが整えられている。聖なる愛によって守られているのが分かる。ごく現実的に生きていた男にとっては、実に奇怪なことだったが。
 1日目にして既にこんなのは居たたまれないと思った。罪深い自分には過ぎた生活だ。今はもう耐え難いとすらヴィクトールは思う。しかし、逃げ帰るわけにも行くまい。
 任務を投げ出すことなどできるはずがない。そんな男は王立派遣軍には存在しないのだ。
 それに、いずれ宇宙を統べるという女王候補たちの信頼を裏切ることができるとでも? 天真爛漫な少女たちに、大人の男が実は情けないものだなどとは知らせたくない。
 ヴィクトールは窓を開けた。やわらかな風が入ってきて、彼の部屋を祝福してまわる。階下の食堂から焼き立てのパンの匂いが届く。恵まれすぎていて、気が狂いそうだ。
 彼は窓枠に額を押し付け、深く吐息した。
「……何してるんだい」
 声をかけられはっとなって顔を上げると、同僚がいた。
「……お前こそ」
 絡む気はないが、とりあえず。ベランダに持ち出した山ほどの画材とブランケットに埋もれて、寝ぼけ眼になっているようなやつには言われたくない言葉だ。
「あっ、おはようございます。ヴィクトールさん、セイランさん」
 もうひとつ向こうの部屋から少年が顔を出した。
「おはよう、ティムカ」
 ヴィクトールは意識して腹の底から声を出した。落ち込むのは寝起きの2分かそこらで充分だ。どんなに納得がいかなくとも、現在があり、任務がある。
「おやすみ」
 セイランはしれっと言って毛布にもぐった。ヴィクトールは苦笑して、
「まぁ、休みの日だしな」
 困ったやつだ、と言いかけたのを飲んだ。少年は彼と目を合わせてくすりと笑った。
 ヴィクトールは着替えて階下に下りた。
 朝食の後はロードワークに出るのが彼の習慣だった。
 山裾の森を掠める大きな道を走っていくと、同じように朝の日課中の風の守護聖に出会った。振り返った青年に無言の挨拶として片手を挙げ、後を追う。
 いつものランニングのつもりでいたが、ランディは少し先で足をゆるめ、三叉路に立ち止まった。
「俺、日の曜日はオスカー様に剣の稽古をつけてもらってるんです。ヴィクトールさんも来られますか?」
 ヴィクトールは答える前に、一呼吸を置いた。
「いえ、お邪魔でしょう」
 間髪入れずでは、さすがに2人の貴人に礼を欠く。
 軍籍に身をおく者にとって、強さを与える炎の守護聖は憧れと崇拝の対象に他ならなかった。
 だから反動もあるのだろうとは思う。思うが、それを割り引いても派手で浮薄なオスカーは苦手なタイプだった。夢を打ち砕かれた気さえした。 屈託を透かし見られたらしく、先方からも邪険な態度をとられている。
「大丈夫ですよ」
 お互い休日まで顔を見たくはないだろうと思っていたが、爽やかに笑顔で流されて、無下にし難くなった。
 では、と同行を承諾した後で、予定が込んでいるときは容赦なく追い返す人だからと、大丈夫の裏付けになっていない裏付けをランディは口にした。ヴィクトールはそうそうに後悔したくなってきた。
 ましてや目的の館に着くなり、挨拶も抜きに「オスカー様覚悟ッ」と来た日には。
 オスカーは笑いながらバルコニーから降りてきた。
 庭に置かれた白い石造りの台から、いつも携行しているものとは違う練習用の剣を取り上げて構えた。
 断りなく敷地に上がりこんでいて良いものやらとヴィクトールは頭をかいたが、内心の逡巡と裏腹に目は打ち合いに釘付けになった。
 オスカーの剣は鋭かった。
 紅い髪の散る首筋、厚い肩、上腕に張り出した筋肉――執務服では覆い隠されていて分らなかったが、よく鍛えてある。
 獅子は一兎を得るにも全力で向うという、そういう戦い方に見えた。
 オスカーはあっという間にランディの剣を叩き落した。
「もう一本!」
「よし、剣を取れ」
 オスカーはもう一度、同じアプローチから始めた。今度はランディも的確に剣戟を防いでいった。合間を縫って攻撃へ転じる。オスカーはその隙を突き、切っ先を咽喉元につきつけた。
「……もう一本っ」
 オスカーは、叩き売っても余るほど体力に恵まれたランディに、諾々とつきあった。
 やがて少年が音を上げると、オスカーはゆらりと向きを変えてヴィクトールを見た。
 いたのか、とも、おはよう、とも声はかけられなかった。
「お前もやるんだろう?」
と、薄く笑った。
「剣ですか? 一通りは使いますが」
「手合わせに来たんだろう?」
 喧嘩を売りに来たんだろう、と言わんばかりの眼だった。
「そういうわけでは」
 ヴィクトールは言葉の途中で顎を引いた。
 否定しなければならないところだ、神のごとき守護聖様に刃を向けようなどとは。
 だが実際どれだけ強いのか、自分の体で確かめてみたい気もした。なにより、逃がしてくれそうな雰囲気ではない。
「お楽しみ頂けるか分りませんが、ご所望でしたらお相手仕ります」
「よし」
 オスカーは満足げに肯いた。
 手にしていた練習用の剣を鞘に収め、柄をタオルで拭ってヴィクトールに差し出した。
 自分はランディが持っていた方を取り上げ、
「いざ」
と、犬歯をむいた。
 ヴィクトールは静かに鞘を抜いた。片刃の片手剣。重量は軍用サーブルとさほど変わらない。ひとつ深呼吸して構えた。
「どうぞ」
 オスカーはすっと前に出た。迷うことなく直接攻撃を仕掛ける。ヴィクトールは剣の腹でそれを受けた。刃を刃に滑らせて距離をつめる。オスカーが手首を返し刃先を跳ね上げる。剣への打撃からワンフェイントかけて喉元を狙う。正しく強い剣筋だった。
 鍛錬も立会いも真剣にしているのがよく分かった。
 ヴィクトールは間一髪で剣峰を避け、そのまま左に回り込んで切り下ろした。金属のぶつかりあう音が高く響いた。素早く間合いを取り直したオスカーが斬撃を放つ。
 感嘆している間はもうない。相手は守護聖様だが、しかし、本職の意地がある。
 がちり刃が噛み合ったのを逃さず、膂力に任せて押し込む。
 とたん、どちらかといえば攻撃を流してきたオスカーが、まともに向ってきた。
 単純な腕力なら勝てると見たヴィクトールは、前に体重をかけてオスカーを後ずさらせた。
 だが崩れたバランスを取り直したかと思ったら、すでに目の前には白刃が迫っている。 
 眼光漲らせた、この豹のような男が、甘い笑みと言葉を振りまいてまわっている女たらしと同じ人物だとは、とても信じられない。
 何度目か競り合いになったとき、彼は初めて押されて斜め後方に身を引いた。
 勢いをすかされてオスカーの剣が泳ぐ。 
 ヴィクトールは胸の高さからその刃の根元へと剣を叩き下ろした。
「つっ」
 オスカーは一度驚いたように彼を見て、地に落ちた剣を無言のまま見下ろした。
 ヴィクトールは一歩さがって剣先を下げ、身構えた。負けず嫌いの激しい男だと、聞き知っていた。
 互いの荒い呼吸音だけが耳につく。
「お見事」
 オスカーは身を屈めて剣を拾い、顔を上げ、軽く笑った。殊の外さばさばと。薄蒼い瞳が陽光に細められた。
 ヴィクトールは差し出された手を握りながら、 
「ハンデつきでしたから」
と、風の守護聖のいる方を目で示した。
「謙虚なことだ」
 オスカーはひょいと肩をすくめ、大きく身を捻って後輩を呼んだ。
「おいランディ! 俺は今日はこの後デートがあるんだが」
「あ、はいっ」
 ぼうっと見とれていた青年が弾かれたように立ち上がった。
「って、今日もじゃないですか」
「はは、分ってるじゃないか。」
 オスカーはまったく悪びれていない。
 その態度はまた、遊んでばかりいる訳ではないのだろうと思わせた。傍から見ていると隙あらば女性を口説いているようで、一体いつ体を鍛えていたのかヴィクトールには不思議でたまらなかったが。
 軟弱だなんてとんでもない。
 立派な炎の守護聖様だ、と初めて思った。


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