永遠の五月 3

 不法越境未遂を発見したとの急報を得て走った警備隊本部で見たのは、まずそういう話題には出そうにない男だった。だいたい普通、不法越境者というのは外から中に入ってくるのだ。ゼフェルやなんかは別として。
 聖地の警備隊は独立組織だが派遣軍からの出向が多い。隊長は大佐相当官。協力組織の将官を無下に出来なかったらしく、不法越境罪で捕らえながら現行犯を応接室に通していた。
 随分いい扱いを受けてるじゃないか、おもしろくもない。
 内心でごちながらオスカーは一室の扉を押した。聖殿ならばいざ知らず、彼が立哨の兵に開かせるという格式を守ることはほとんどない。
 ヴィクトールは革張りのソファに浅く腰を下ろし、組み合わせた両手を膝の間に浮かせていた。物思いの背中が丸くなっている。
 物音に気付いた男は身を起こし、緊張と焦慮を露にして彼を見上げた。
「……オスカー様」
 真剣な、ひりつくほどの視線。
 オスカーはため息をついた。
「ここはおいそれと出入りの出来ない場所だと、聞かされなかったのか」
 聞かされないはずがない。
 志願ではなく召集だとしても。
 標準的メニューの場合、時空間特性に2時間、日常生活のルールに3時間、義務と制約に2時間。1日がかりで叩き込まれる重要事項だ。
「俺は正当な理由をもって通行を求めたんです」
 ヴィクトールは狼狽を飲み下して、自分が直隷していた部隊に問題がおきたのだと説明した。あちらが本務だ。行かないわけにはいかない。
「これじゃ、軟禁でもされているようじゃありませんか」
「軟禁、か。そうなのかもしれないな」
 オスカーはほろ苦く微笑した。
 期限も切られず閉じ込められている奴を目の前に、そういう物言いもないもんだ。
「あ、いや……」
 意味を悟ったヴィクトールが、気まずそうに唾を飲む。
 彼にはたっぷり罪悪感を味わってもらうことにして、オスカーはゆっくりと考えをめぐらせた。
 抜け道をひとつ、教えてやるという手もある。サクリアのない奴にも安全に辿れる道なのかは知らないが。
 気の毒だったなと嘯いて、背を向けてもいい。それが一番簡単だ。
 だが、俺は派遣軍がどういうところか多少は知っている。こいつを頼りに待っている部下がいるならば、こいつは行くべきだ。
 そして、俺には何がしかの力があると思われている。
 だからこそ当直隊長は俺の裁可を仰いだ。警備隊を強固に掌握し続けるためにも、今、こいつを放り出すわけにはいかない。
「聖地は本来、親の死に目だろうと出しちゃ貰えない場所だぜ」
「そこを枉げて、お願い致します」
 ヴィクトールは間髪いれず、深く頭を下げた。本来、は余計な言葉だったなとオスカーは気付く。
「……ここで待っていろ」
 もう一度ため息をついてから踵を返した。自分が開けたままのドアを潜りながら、
「調書をだせ」
と、声を張った。別室に詰めていた当直の士官が、慌てて飛び出してくる。
 場所を移したオスカーは、ファイルを捲りながら愚痴をこぼした。
「事を起こした後じゃ、俺の一存ではどうにもならん。まったく、あいつも補佐官殿には申し出りゃ面会できるんだぞ。なんでそこに頭が回らないんだ」
「はあ、全く」
と、冷や汗まじりの合いの手を、しかしオスカーはほとんど聞いていない。
 なぜかは分かっている。
 ほんの少女のように見えるからだ。まあ実際、ほんの少女なんだが。
 女王も補佐官もそれは若く愛らしく、世界の支配者であるかのようには、とても見えないからだ。
 だから実権を感じ取らなかったし、大人の話をする気にもならなかった。
 しかし無邪気な少女だからこそ、情に訴える話に弱い。
 あいつは分かっていない。
 警備隊は俺の管轄で、俺には訴えを握り潰す可能性があった。彼女たちはそんなことはしない。最初からあっちに行ってくれれば――俺から恩を買わずにすんだ。馬鹿な奴だ。



「コーヒーは嫌いか」
 小一時間で警備本部に戻ったオスカーは、テーブルの上で冷えているそれを見咎めて言った。なんだって拘置中の男を普通に供応しているんだというのも納得がいかないところだったが。
「いえ」
 ヴィクトールは首を振った。
「しかし、守護聖様が奔走してくださっているというのに、俺が茶なんぞ飲んでいるわけにはいきません」
 は、とオスカーは声に出して笑った。
「心配事で胃が痛いだけなんじゃないのか」
 力ない愛想笑いで応じながらヴィクトールが答える。
「手厳しいことを仰る」
 いつもよりもいっそう掠れた声だった。緊張で口の中が渇いているな、と思う。それでも、勢い込んで結果を問わないのが、礼儀のつもりなのか危惧のあまりなのか、顔色から読み取れるほどに無防備ではない。
 どちらにせよ、聞かれないのならば早々に楽にしてやる義理はないが。
 オスカーは手元の紙束を指先で弾いた。
「時の流れは現在、完全に外界と同じ速さで固定されている。だが当然、聖地とお前の行きたい場所が同じ時刻だとは限らない。時計は2つ持っていた方が間違いがなくていいだろうな」
 言いながら、自分の左手から腕時計を外して投げ渡した。
「日付が変わる前に帰って来い」
 反射的に受け取ったそれを手に彼を見上げる男は、まだ結果を聞いていないような顔でいる。
 オスカーはにたりと口元を緩めた。
「随分とまあ……色気も可愛げもないシンデレラだな?」



 その夜だ。
 宵っ張りのオスカーでも夜着に着替えた後の来客だった。
「遅くにまことに申し訳ありません。帰還の報告と、お礼のご挨拶に参りました」
 嫌なことを先延ばしに出来ない気性というわけだ。
「それに時計をお返しいたします。本当に助かりました。かたじけない。」
 恐縮しきりの男へ、オスカーはにやりとして心にもないことを言った。
「なに、お安いご用だ。言ったはずだぜ、俺はあんたに惚れてるってな」
 ヴィクトールは見事に固まった。オスカーはわざとらしく眉をしかめた。
「そんな顔をするな。俺がセクハラでもしているみたいじゃないか」
「いや、丸っきりセクハラですよね?」
 神のように絶対的な守護聖という立場と、今日の恩義がある。俺に逆らってもいいのかと囁きながら押し倒してしまえば、あるいは思いのままになるのかもしれないが、それじゃ面白くない。
「単に気持ちを伝えているだけだろう。言葉に出すことさえそう言われたら、俺は誰と恋をすればいいんだ」
 オスカーはしらじらと言った。
 すいと伸ばした手は、掴み取られて相手の頬まで届かなかった。オスカーはその手を見やり、
「お前にはレディたちと違って、とっさに振り払う力があるだけ、だいぶマシなケースだと思うが?」
「女性とは、合意の上のことでしょうが!」
 ヴィクトールは振り払うように手を離しながら声を荒げた。
「……逆らうことなど思いもしないだろうな」
 四年、放蕩に費やして、自分はどのみち相手がイエスとしか言えないゲームをしているのではないかと思えてきた。気を遣って力を加減して心を探って、それ自体は、楽しいプロセスだ。
「ひとつことを信じて、信じきって、疑いもしないときには、そこに個人の本当の感情などはないんだ。俺は、心あるものを奪いたい」
 それに、胸のうちに荒れ狂う炎を、遠慮なく叩きつけてみたい。
 ヴィクトールは大木のような男だ。
 頑丈で、力強くて、守る必要のない人間。焼き尽くしてしまうのではないかと、心配する必要のない男だ。よしんば壊してしまったとしても、なんらかまわないと思える相手だ。相手が女性であったら、自分よりもか弱い人間であったら、そうでなくとも真実敬虔な臣民であったら、自分は決して危険を冒すことはできなかった。
 目の前にこんな都合のいい獲物、差し出す方が悪い。やって来る方が――悪い。
「貴方は一度、痛い目にあった方がいい」
 ヴィクトールは苦々しく吐き捨てた。
 オスカーはその物言いに驚いて、「一度でいいのか」とも「痛い目にあうのはお前の方だ」とも返し損ねた。
 客人は顔をしかめつつ言い足した。
「俺の意思は無視ですか」
「あんたに意思なんかあるのか?」
 オスカーは平然と言い放った。
「今のあんたにあるのは、意思なんてものじゃない。習慣と気分と本能だけだ。自分でも分かってるんだろ?」
「……No excuse, Sir」
 そう取られたのならば弁解はいたしません、と、ヴィクトールはことさら慇懃で軍隊的に答えた。その物憂い調子がセクシーだった。巧まざる罠だ。
 オスカーは声を立てて笑い出した。
 こんな心そそる獲物はない。目立たぬように過ごしていれば自分は黙殺してすませただろうに、喧嘩を売るように目の前に飛び出して来たのだから、これはやはり本人が悪い。
 だから、俺にはこいつを、叩きのめすことが出来る。
「酔っていらっしゃるのですか」
 夜分に申し訳ないことを――と、苦しいながらも儀礼の文法に戻ろうとした男を、オスカーは笑貌のまま引き止めた。
「いや、まだ飲み足りないな」
 力は込めずに袖に手をかける。
「ついでだ。相手をして行け」


inserted by FC2 system