「朝から精が出るな」
呆れも賞賛も含めず、つとめて淡々と。
軒先でアキレス腱を延ばしている男を見やり、オスカーは声をかけた。
「おはようございます――チャーリーとセイランは」
「まだ起きてきそうにない」
オスカーは手摺に頬杖をついた。
「暇だな」
暇つぶしに付き合え、という響きが言外にある。
「ご一緒に、走られますか?」
「冗談はやめてくれ」
「強さを司る炎の守護聖様が、そのようなことを仰っていていいのですか」
ヴィクトールが言った。快活におとがいを解きながら、目では自分を値踏みしているのが分かる。
「趣味じゃない。筋トレならまだしも……。そうだな、剣の手合わせなんかどうだ?」
ぴん、と存在しない剣を振り下ろす仕草をしながら、オスカーが問う。
「道具がありませんよ」
オスカーは男へ挑戦的な目を向けた。
「陛下への初御目見えの時には礼装だったそうだな。入室前にサーベルを預かったと、警備兵の記録にあった」
手合わせへの誘いの答えが否ならば否で、それは仕方がない。が、この俺をいい加減に誤魔化そうとはいい度胸だ。
「ということはもちろん、道具はあるわけだ」
ヴィクトールは目元を引きつらせた。
「サーベルにその剣で勝って、嬉しいですか?」
オスカーはわざとらしい仕草で、自身の携行する剣を見下ろした。片手でも扱えないことはないが、それでもフェンシング用の剣と比べると桁違いに重量がある。
視線を相手に戻す。
「礼装用と略装用で二振、似たようなサイズのを持ってるだろう。試合にならないと思うんならひとつ貸してくれよ」
「どちらにせよ、ここにはありませんが」
「学芸館はすぐそこだろう?」
その方角をうかがうような素振りで追い討ちをかける。
「……分かりました、取ってきます」
「略装用の方には刃がついていますから、鞘を外さずに使いましょう」
ヴィクトールはガムテープで無造作に鯉口のまわりを巻いていった。柄に彫られた神鳥の紋章がその向こうに沈む。オスカーは無言で眺めながら、信仰を失った人間は不幸だ、と思う。いかなる苦難も災厄も各自に課せられた試練であり、必ずや救済が待っていると信じられなくなった人間は不幸だ。たとえ自分では従順な臣民、忠実な騎士のつもりでいようと、実際にはそこにはもはや信仰がない。ヴィクトールと2人でいると、オスカーは時に悪寒を覚える。この男は凶兆を帯びている。陛下はなぜ、このような男を聖地にお招きになったのだろうか。
「貸せ」
オスカーは右手を突き出し、有無を言わさぬ口調で言った。
ヴィクトールは無言のまま従った。
もちろん彼自身は、自分の不遜に気付いていないのだろうが。
オスカーは乱暴にテープを剥ぎ取った。苛立ちが胸裏をざわめかせている。
自分が気分に任せた我侭や難題で、心の中に押さえ込んでいるそれを自覚させてしまえば、藪蛇だったということになるのだろうか。
しかし、俺はこの男を許せない。俺が夢に見た殆どすべてを手に入れてきた意気揚々の人生で、たった一度思うに任せなかったというだけで信仰を失うような人間を、とてもじゃないが認められない。
オスカーは刀身を鞘から引き出した。手入れはきちんとしてあった。検分の動きに沿って、朝日が抜き身を舐める。
「別に俺はどっちを使ってもいいんだがな。寸止めしなきゃならんのは面倒だろう。あんたにハンデを負わせるつもりはないんだ」
言いながら自分は嘘をついている、と思った。俺はこの男を信用していない。己に白刃を向けることを、許す気など毛頭ない。
「心配するな、ちゃんと手加減してやる」
我ながら白々しい笑顔で、言った。
なに、勢いあまってやってしまったときには、単なる事故として処理されるだけだ。
ガキンと派手な音が立った。
衝撃が脳を揺らす感覚にオスカーは陶然となった。
手荒い打撃を剣の中ほどで受ける。斜めに力を流すはずだったが角度が甘かった。金属の悲鳴があたりに散る。腕が痺れる。手首を返して払い除け、突きを返す。それを叩き落して切り込んできた剣先を、間一髪の距離とタイミングで避け、そのまま反撃に移る。
ふつふつと涌いてくる歓喜のただなかで、オスカーはヴィクトールを見た。
初めて本当にその男を見たように思った。
この男には、自分を傷つけることができるのがわかった。それだけの力がある。牙がある。それだけの胆力と世知と自棄がある。それでこそのスリルだ。
こいつだ、と直感した。
欲望は対象を問題としない。
それは最初から最後までそこにある、自律的な力だ――主の制御に従うかどうかは別として。
愛にしろもっとたちの悪い欲望にしろ、対象はいつでも次から次へと見つかった。ほとんど誰でもいいのではないかと思えるくらいに。だから対象は問題ではない。普段と多少趣きが違うからと言って、躊躇う必要などない。まったく問題ない。
こいつは俺の獲物だ。
サイドに回りこみ、斬撃を繰り出す。
ああ、いっそ今すぐ喉首に噛み付いてやりたい。地面に引きずり倒して、内臓を貪り食いたい。
「ストーップ」
声とともに小さな球体が飛んでくるのをオスカーは視界の端で捕らえた。敵手の攻撃が届かない場所に位置を取り直し、剣を一閃させる。赤い果実が2つに割れて地に落ちた。
「何の真似だ」
オスカーは険しい表情でコテージの方を振り返った。仁王立ちのチャーリーが悪びれずに言い返す。
「そらこっちの台詞や。ちぃと目ぇ離した隙に何やってますの」
「……別に喧嘩をしてたわけじゃない。単なる手合わせだ」
「そないな悠長な顔やなかったやろ」
オスカーは仏頂面でヴィクトールを振り返った。否定してやれと口に出そうとした瞬間、
「終わりにしますか」
と、ヴィクトールは単に確認の口調で言った。
「ああ」
オスカーは足元のリンゴを拾い上げ、歩き出した。
「朝食にしますから手ェ洗って入って下さい」
「ふん」
オスカーはわざとらしく鼻で笑った。
「なんですか」
ポンプ式の井戸から水を汲み出しながら、チャーリーが聞く。
オスカーは両手とリンゴをその飛沫の下に差し出した。
「どこでどんな騒ぎに遭遇しようが傍観してるくせに、主人役となると急に張り切って世話を焼くんだな」
「悪いですか」
「別に」
口の端を大きく引き上げてみせる。
「お前も存外人間的だ。宇宙屈指の商売人というから、人の生血でもすすって生きてるのかと思ったのに」
チャーリーは口を尖らせた。
「俺かて守護聖様ゆうのは、霞でも食って生きとるんかと思うてましたよ」
オスカーはわざとらしく大きく口を開け、手にしていた果物にかぶりついた。
「オ、オスカー様?」
ヴィクトールは水場にたどりついたところで、ぎょっとしたように声を上げた。
「なんだ」
「あ、いや、落としたものを口にするなどという真似を、守護聖様がなさるとは思いませんでした」
「食い物を粗末にするもんじゃない」
腑に落ちないような顔でいる男のために井戸のレバーを押してやる。ヴィクトールは手を洗い終えたときにも疑問の消えていない目で、
「貴方は不思議な方だ」
と、呟いた。
オスカーは歩きはじめようとしていた足を止め、流し目でヴィクトールを見た。
「単に変なやつだと思ってるんだろ」
ヴィクトールは肩で笑って答えなかった。
「まあいいさ。少なくともあんたは俺に興味を持った。理解する気が全くないわけじゃない。そうだろう?」
「……ええ、貴方がどうしてそうなのか、分かるものなら分かりたいですね」
オスカーはずいと近づいていった。
「なあ、ヴィクトール、それは恋の始まりだぜ」
「ご冗談を」
と、手を振る男の横を取り、その肩に腕をかける。空いた方の手で自身の胸を指し示しながら、甘く低く、毒でも注ぐようにひそやかに囁く。
「くやしいが俺は、あんたにどう思われてるんだろうと気になる。四六時中あんたを目で追ってる。まるであんたに、恋でもしているようじゃないか」
「飛躍、しすぎです」
眉ひとつ動かさないまま、強張った声でヴィクトールが返す。
「つまらんやつだ」
オスカーはころりと素面の顔に戻った。