永遠の五月 1

 キッチンからダイニングへと向かう短い廊下を抜けたところで、軽口を叩きながら伸ばした手の、掌が背に触れた瞬間にもうまずいと思った。力加減を誤った感触があった。これだからいつも、乱暴者あつかいされてしまうのだ。
「悪いっ」
 オスカーは弾かれたように手を浮かせた。
「――え?」
 男はびくともしていなかった。焦りと気まずさを露呈した彼の反応を、奇妙なものでも見るかのように窺っていた。
「あ、いや、力を入れすぎたかと」
 オスカーはそそくさと上面を取り繕った。
「あんまりふざけたことを言うからつい、な」
 冗談だと思わなければやりきれないような価値観をしている相手だが、決定的な決裂を演じるつもりはない。今のところは、まだ。
 ヴィクトールはふざけているのはどちらだか、とは目顔にだけ覗かせ、
「それくらいでひっくり返るわけがないでしょう」
 オスカーはぴくりと眉を吊り上げた。
「あんた今、俺のことをさりげなーくバカにしたな?」
「滅相もない」
と、作り笑いのヴィクトールが首を振る。オスカーは剣呑に目を細めた。
「ちょっとそこに直れ――いや座れ」
「はあ……」
 ヴィクトールは不要領な顔のまま、言われたその場に腰を下ろした。踵を上げたままの正座は礼儀正しいようでもあり、警戒の表明でもある。
「おい、それは貸せ」
 オスカーは男の手からトレーを奪ってローテーブルに回す。
 ヴィクトールは眉間に陰を溜めた。
「いったい何をしようとしてるんですか?」
「うでずもう」
 オスカーは彼の正面に姿勢を落としたかと思うとうつぶせになった。
「はい?」
「俺だって体は鍛えてるんだぜ。あんたがひっくり返るかどうか、試してみようじゃないか」
 ほら早く、と差し出した右手でせかす。
「こどもじゃあるまいし……」
 ヴィクトールは渋った。
 隠し事の出来ない男だ、とオスカーは思う。勝てると決めてかかってやがる。俺のプライドを傷つけずに事を収めるのが、面倒だと思っている。鍛錬だなんてただのスタイルだろうといわんばかりの目。
 多分それは正鵠を得ている。オスカーは軽々しく剣をふるうこと、人間を殺傷することの許されない立場にいる。身体を鍛えるのも、剣戟の稽古も、単に趣味で、スポーツで、スタイルに過ぎない。が、それは正しいがゆえに彼を苛立たせる。人後に落ちない自信はあるのだ。
「ぶつくさ言うな。俺はあんたが付き合うまで起き上がらないぞ」
「仰せのままに、守護聖様」
 ヴィクトールは一度天を仰いで腹這になった。
 右手を合わせる直前になって、オスカーの咎めるような視線と出会って手袋を外した。オスカーはざらついた傷だらけの手を一瞥して握りこみ、肘を絨毯についた。
「あんたが合図を出せよ」
「では……3、2、1、ゴー」
 オスカーは手首を固め、指先にぐっと力をこめた。自分と、相手の腕に筋が浮かび上がるのが見えた。組み合わせた手は真ん中のラインを割っては引き戻される。
「ちょっ、こんなところで何やねん」
 オスカーは背後から聞こえた声を無視した。ヴィクトールの方はそうはしなかった。
「すまん」
 半ば起き上がり、背中をわたぎ越すチャーリーの脚からかばうように、オスカーの後ろ頭に手をかけた。
 オスカーはうやむやのうちに地に落ちた自分の右手を見た。ごろりとあおむけになって男を睨みあげた。
「卑怯者」
「いや、俺は……」
 弁解の言葉が立ち消えたのを二度目のゴーサインととって、オスカーはヴィクトールの右肩に左手を伸ばした。絡み合ったままの右手を引いて引き倒す。ヴィクトールは背を押さえられそうになったのを避けて身をよじり、オスカーの腰に脚をかけた。
 どう仕掛けて来るのか少し楽しくなってきたところで妨害が入った。
「せやから通行の邪魔やて」
 どこからともなく出てきたハリセンで頭をはたかれたヴィクトールは手を止めて、
「これでおあいこでしょう」
と、面白くもなさそうに言った。
 この世には、何一つ心躍らせるようなものなどないのだと思えてきそうな声音だった。
「終わった?」
 アイスキューブを満たしたボールを手にテーブルに近づいて来たセイランは、通り過ぎながら胡散臭そうにふたりを見た。
「いい年してプロレスごっこかい」
「違う!」と、オスカーは抗弁し、
「面目ない」と、ヴィクトールは受け流した。
「ほんに人んちで行儀の悪いあんちゃんたちや」
 小言を言いながらチャーリーがグラスを並べる。
「別にお前のうちじゃないだろう」
 ボトルを取り上げながらオスカーは言い返す。
 商人の聖地滞在のために用意されたコテージは、回転率の早い短期滞在者用の施設だった。過去の居住者の1人とはとても仲良く親密になって、よく夕食に招かれた。我が家のように馴染んでいた。女王試験の開始から3月がたつ今でも、週末しかいないチャーリーよりは自分のほうが詳しいと思えるほどに。
「あんなぁ、オスカー様」
「俺にとってはここは、今でもリディアの家だな」
 口に出してみると、今にも彼女がキッチンから出てきそうな気がした。階段を下りてくるリズミカルで軽い足音が聞こえそうだったし、笑いながら後ろから抱き着いてきそうな気もした。が、すべてはもう遅すぎる。彼女は単に、通り過ぎていった恋人のうちの一人だ。
「……以前の住人ですか?」
「で、君の過去の女なわけだ」
「うわ、俺、それ以上聞きとーないっ。風呂とかベッドとか使う度に変な想像したくないし!」
「――広くていいバスルームだよな」
「誰か黙らせてやー!」
 オスカーは本気で嫌がっている男の顔色を見て取って、一呼吸をおき、声を立てて笑った。
「おい、真に受けるなよ。冗談に決まってるだろ」
 疑念に満ちた目で商人が彼を見返す。
「いやでも、確かに家のサイズにしてはでかい風呂やねん」
「お前から借りたことがあるだろう。ジュースか何かを運ぶのを手伝ってたら割れちまって濡れて」
「ああ、そういえばそないなことも……」
「そのときに見た」
 正確には、そのときにも、見た。
 間に何人住んだか知らないが、改装はなされていなかった。見覚えのあるプライベートな空間にひとりでいると、腹の底から妙な気分になった。
 懐かしいなどとは言わない。諦められない女ならば求婚でも、陛下に直訴でもすればよかった。すべてが望み通りになったかどうかは別として。その程度の悪あがきすらしようとはしなかった。その意味くらい分かっている。自分はこのやり方に馴れすぎた。もはや懐かしいなどとは言う権利はない。
 丁寧にコルクを抜き、アペリティフを注ぎ分ける。
 ボトルをグラスに持ち替えて、しばしフルーティな香りを楽しむ。
 酒席に誘われたら、断ることはあまりない。聖地は小さくて穏やかな町だ。世界の中心ではあるが、田舎の、地味で健全で退屈な町にも少し似ている。この終わりなき五月の中で、気を紛らわせてくれるものなら何だって歓迎だ。そう明言した後だったから、誘いを断り損ねた。いや、そうでなくとも。
 あの男がいるなら俺は行かない、などと、格好の悪いことを言えたとは我ながら思えないが。
 チャーリーとは、冷やかしと買い物が半々くらいで店に顔を出すうちプライベートで遊ぶようになり、何度か朝まで飲み、そうこうする間その男の事は一度も会話に出てこなかったので、少し気を抜いていた。しかし無論、この狭い聖地で、庭園の商人に知り合いでない人間などいないのだった。
「……あんたとは初めてだな」
 呟くように言いながらその男をちらりと見る。
「は」
「いけるクチか?」
「まあ、それなりには」
と、曖昧に答えるヴィクトールの横から、ホスト役が口を出す。
「その御仁は潰すつもりでかかってちょうどええですよ」
「ふうん」
「ちょっと待てチャーリーっ」
 何を勝手なことを、と焦った声を無視して、
「じゃあさっそく」
 オスカーは軽く杯を掲げてみせた。


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