永遠の五月 4

「後悔してるな」
 ぎこちなく対面に座り、酒を呷っている軍人を眺めながら、オスカーはくつくつと喉を鳴らした。
「いえ。行きがかり上こんな旨い酒にありついていいのだろうかと、考えていたところです」
 言い訳を故意に無視して先を継ぐ。
「まったく、あんたは最初から補佐官殿に相談すべきだったんだ。美しい女性の耳に無骨な話を聞かせたくない気持ちも分からんではないがな。しかし、補佐官殿が話をするに相応しくないとするなら、あんたの態度は侮辱だぜ」
「……心します」
 ヴィクトールは視線を落とした。
「俺は、自分の目に惑わされていたかもしれません。貴方にしたって本当は……」
 本当は、見た目どおりの若造ではない。
 軽薄な振る舞いのままの遊び人でもない。
 が、ヴィクトールは言葉の先を呑んだ。
 沈黙の後で、話は思わぬところに飛んだ。
「女王陛下があのように無垢な少女のお姿でなければ、俺には聞きたいことがありました。地上ではどうして、この聖地のように物事が進まないのかと。自分が今まで関わってきた星々は、なんというか、悲惨な状況にあるものが少なくありませんでした」
 ヴィクトールはグラスに残る酒を揺らした。
「オスカー様、災厄というものは、どうして起きるのですか」
 オスカーは口に含んでいた酒に咽そうになった。
「……ッ。おい、あんた」
 目を見開いた。まるでこどもがするような質問だ。
「あんたがそれを言うな。あんたはそれを防ぐために、働く側の人間だろうが」
 災厄の予兆を発見できなかったのは自分たちの力不足と受け止めるときでさえ、彼は「自分たち」の中に女王直轄機関を含めて考えていた。
「そこまで俺たちに投げ出すことはないだろうが」
「しかし、純粋な疑問です」
 一瞬首をすくめたヴィクトールの眼の色にも声音にも、皮肉はない。
 オスカーはグラスを置き、声を低めた。
「陛下は無謬の女神だ。俺たちはその御使い」
「無論です」
 かしこまった表情でヴィクトールが相槌を打つ。
「俺は体面の話だけをしてるんじゃない。俺たちには、人間よりも優先しなきゃならん物事が、時にはあるんだ」
「人々はそのようには思っていません」
 分かっている。誰に対してでも言ってしまえることではない。が、オスカーは抗弁を取り合わなかった。
「地上のことは地上で完結させてくれ。人間を救いたきゃ人間が奔走するしかない。そして俺たちは、もう人間じゃないんだ。誰かを助けたいと思ったとき、もう、手の届かないところにいるんだ」
 忘れたはずの感傷に声が震えそうになる。
「しかし……救済は必ずある。どんな命にも」
 自分は単にそう信じたいのだと分かった。救いはあるはずだ。自分がこの手で守ることが叶わなくなった家族や恋人にも、絶対の信頼をそうと意識さえせずに与えてくれる人々にも。
 ヴィクトールは黙って酌をした。
「……救いは来る」
 お前にも、俺にも。
「はい」
 オスカーは杯を干した。
「首尾を聞いていなかったな」
 このタイミングで聞くのは興味はないと表明するようなものだが、聞いた。
「お陰さまで、収拾がつきそうです。最後までついていることは出来ませんでしたが」
「贅沢は言うな」
 顔をしかめるのを見越していたような調子でヴィクトールは応じた。
「大丈夫です。俺は部下を信じています。後はやつらが何とかしてくれるでしょう」
 客人は何度目か、空になった器を満たそうと身を乗り出した。オスカーは薄く視線を上げた。間近に、日に焼け傷跡の走った面がある。
 男の容貌などあまり気にかけたことがなかった。まして目の色など。それも輝くような緑とか、眼の覚めるような青とでもいうのならまだしも、地味な黄褐色だ。まったく注意を惹かれるようなものじゃない。無論女性に対してなら、出会ったその日にハシバミにでも喩えて褒めただろうが。
 が、実際に見てみれば男のそれは、熟成されたウィスキーのような輝きを秘めていた。彼は訪問者の顎をつまみ、覗き込むように瞳を見た。酒精の香気の中に崩れ落ちてしまいそうだ。
「俺を酔わせてどうしようってんだ?」
「……そこまで回ってるとは思いませんでした」
 ヴィクトールはボトルを置き、オスカーの手からグラスも奪った。
「俺はそろそろおいとまさせて頂きます。ベッドルームまでお送りしましょう」
「すぐ隣だ」
 オスカーは不要だというように手を振った。
「では、すぐそこまでですから」
 ヴィクトールは酔っ払い用の愛想笑いと決然とした態度で腕を取る。
 オスカーは胡乱な目付きで客人を見た。手を払い除け、立ち上がった。
「よせ、自分で歩ける」
 ソファの背に手をかけ、軽くふらつく身体を支える。
「それは存じ上げておりますが」
 曖昧な笑みを口の端に溜めて、ヴィクトールが相槌を打つ。
 オスカーは背後に気配を感じながら寝室へ移った。
 ベッドに腰掛けて客人を見上げる。
「それでは失礼いたします。今日はどうも有難うございました」
 男は訓練された角度で腰を折る。
 従順なしもべのつもりでいるお前。俺が物分りよく話の通じる男でいれば、お互いにそれなりに楽しく過ごせるんだろうか。が、そんなことは断じて望みではない。
「ヴィクトール!」
 オスカーは離れようとした男の手首を掴んだ。
「プロレスしようぜ」
「はあ?」
 気の抜けた顔と声でヴィクトールが聞き返した。オスカーはそれを見、にっと笑った。
「もしも誰かに見られたら、年甲斐もなくプロレスごっこをしていたと」
 掴んだ手を引き寄せ、間近まで顔を近づけた。
「言い訳するしかないようなことをしようと言ってるんだ」
 耳元で、しかしごくそっけなく聞く。
「どうだ?」
 視線の先で喉が一度動いた。
「……俺は、剣技よりも体術のほうが得意ですよ」
 ヴィクトールがちらりとオスカーを見返した。
「望むところだ」
 


 キングサイズのベッド上を所狭しと暴れまわる彼らのせいで、シーツは大きく乱れ不規則な渦を巻いていた。
 背中をとられる、と思ったオスカーはとっさに横転した。利き腕を押さえられて回転が止まる。腕を固められたらここで決められてしまう。自由な方の手で胸元を掴み引きずり倒す。両肩押さえつけてカウントに持ち込もうとする相手に、脚で抵抗する。
 滴る汗が胸元に落ちてくる。
「……はっ。ははは」
 まるっきり馬鹿なことをやっているような気分になってきた。アルコールのせいで体が熱く、頭がぼんやりする。
 ヴィクトールが目を眇めて彼を見る。
「都合が悪くなると笑ってごまかそうとするのは、貴方の悪い癖です」
 オスカーはゆっくりと笑いをおさめた。
「ごまかそうとしているのはあんたの方だ」
 ベッドへの誘いを、単なる腕比べで終わらせようとしているのは彼の方だ。
「そうだろ?」
 ヴィクトールは顔をしかめて答えた。
「No,Sir」
 今度はNo excuseではなかった。
 オスカーは今気付いたというように、自分の肩を押さえたままの手を見た。
「笑い事で済むと、思っていましたか?」
 ヴィクトールは圧し掛かるようにしてオスカーを見下ろした。
「恩を仇で返すようで申し訳ないが――貴方は痛い目にあうだろうと、俺は言いましたよ」
「そうだな」
 相手がその気になったのならば仕切りなおしだ。形勢逆転の機会はいくらでもある。
 オスカーは危機感の欠片ものぞかせない、くつろいだ目付きで男を見上げた。
 もちろんこの男には、自分を傷つけることができるだろう。それだけの力がある。牙がある。それだけの胆力と世知と自棄がある。ああ、それでこそのスリルだ。
 永遠の五月から救い出してくれる、熱風だ。
 ヴィクトールはオスカーの胸元をかきひらき、襲い掛かった。
 ひとり正気のような顔をしていたが、実際は酒が回っているのだろう。熱い吐息が動物の呼吸を思わせた。大型犬とか、馬とか。いいや、この男ならばもっと危険な肉食の――
「ベッドの中のタイガー、か」
 オスカーはくくっと小さく笑い声を立てた。
「随分な余裕ですね」
 ヴィクトールが呆れ顔で手を止める。
「知ってるか。ある国の伝承では、琥珀というのは死んだ虎の魂が固まってできるんだぜ」
 オスカーは指先で彼の目尻に触れた。
「実に似つかわしい話だ。あんたの中に死んだ虎がいる」
「俺は、生きています」
 ヴィクトールは呻くように反駁した。
「そうか」
 オスカーは、どちらにせよ全く気に留めていないと相手に告げるような声音で応じた。
 だが、生きているのならその方がいい。それがこんな癪に障る男でも、とにかく。俺は誰かを助けたいと思ったとき、もう手を出せない場所にいる。


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