我は我が素を行う 1

 目深に被った銀鼠のフードが重たい。
 彼は視線が落ちるのをそのせいだと思おうとした。
 霧雨をたっぷり吸い込んだ外套が膝にまとわりつくようだ。
 歩みの遅さをそのせいにしようとした。
「アリオス」
 少し先を行く少女が彼を振り返った。
「そんなにゆっくり歩いてたらおいて行っちゃうわよ」
 なんでもない笑みを目にした瞬間、口をつきそうになったのは何だっただろう。足の重さを気の重さと結びつけるよりも先に、嫌な予感を覚えたのは確かだったが。
「けっ、抜かしやがって」
と、アリオスは悪態をついた。
 2週間にわたる任務の終わり、徹宵のハードワークを終えて帰った聖地はうららかな昼下がりだった。若い女王のお召しそれ自体は、珍事でも、苦でもなかったが。
「これから聖地へ行かなくちゃならないの」
と、アクセサリーを選びながらアンジェリークは言った。
 玉座につくときの正装ではないが、よく似た印象の、よく似合うよく似た色合いのドレスが彼女の体を包んでいた。テーブルの向こうでは彼女の補佐官が、ジュエリーボックスを広げながら彼を意味ありげな目で見た。
 決定事項か、と彼はそれで思った。肩をたわめて笑って見せた。
「聖地へって、それじゃ今お前がいるのはどこなんだよ」
「もう、分かっててまぜかえさないで」
 ふくれっつらが控えめで、不審になったのと同時にばっちり化粧も仕上がっているのに気付いた。
「これにするわ。ねぇ、おかしくないかしら」
 小さな赤い石をあしらったイヤリングをあてがって、アンジェリークは補佐官を振り返った。
「いいんじゃない?」
 レイチェルが一瞥して答えた。見詰め合う目と目が微笑む。アンジェリークは頷き返して、今や退出の頃合を見計らっていたアリオスを省みた。
「あなたについてきて欲しいの」
「は?……なんでだよ」
「だってお忍びなのよ」
 待ってましたとばかりに答えられてしまった。
「ワタシまで留守にするわけにもいかないでしょ。かといって病み上がりのこの子をひとりでいかせるなんて心配だし」
「いや誰かつけろよ。護衛なり随員なりちゃんとしたヤツを」
「あなたしかいないの」
「あのな」
「ね、お願い!」
 2人がかり畳み掛けられてアリオスは折れた。雑用に借り出されることにはもう慣れている。旅装をとく暇を求めることもしなかった。じとつく厚い布が今は不快だ。
「何か言った?」
 立ち止まったアンジェリークの真正面まで、アリオスの歩幅なら2歩。
 彼は指の背で頭巾を持ち上げ、二色の双眸を彼女に向けた。
「何が本調子じゃなくてひとりじゃ不安なのーだ」
「私が言ったんじゃないわ」
 目の前で言わせて訂正しなかったのなら、それが言い訳になるとも思えなかったが。
「ほんとに弱ってるんだったらそれらしくしてりゃいいんだ。何の招待か知らねぇが、断れなかったのかよ」
 アンジェリークは不思議そうに彼を見上げた。
「招待じゃないわ。私が用があって行くの」
「あっそ」
 アリオスはそっぽをむいた。
 行かなければならないと、確かに彼女は言った。自分の意思に対して、義務の表現を使う気負いが息苦しい。
 洞窟の外には4頭だての馬車が待っていた。
 神鳥の紋章が入った女王府の特別仕様車だ。御者が戸をあけると紅い布張りの内装が見えた。
 アリオスは庇を鼻先まで引きおろした。
 アンジェリークが片手を出してエスコートを要求するのに応える。そのままぐいと手首を引かれ、気がつくと少女の向かいに乗り込んでいた。
 聖殿までは、徒歩でも5分かそこら。
 どのみち門前からは下車しなければならないのだから、格式の高い出迎えを得て歩くのが常ではなかったか、と記憶をたぐる。レイチェルと喋っているのを聞いたことがあるような気がする。だがしかとは思い出せなかった。そうした行き来が絶えて久しい。
 馬車が止まった。
 聖殿の廊下を渡りながら、姿を消すタイミングを逸していることに気付く。洞窟の外で馬車を見送るのが良かったな、と今更ながら考える。室内へと自分を引き込んだ白い手さえなければ。
 先導の廷吏はメインサロンの前で止まった。細身の剣を腰に差した警備兵が扉を押し開いた。
 紅も濃い絨毯が伏せた視界に広がった。気配を探りながら拙いところに来た、と内心思う。しかしまあ、バレやしないだろう。サクリアはサクリアに対する以外の超感覚的知覚をともなうものではない。彼らも万能からは程遠いのだ。
「こんにちわ、陛下、みなさま」
「いらっしゃい、アンジェリーク」
「ごきげんよう」
 真っ先に飛び出したのはマルセル。ろうたけた物腰で差し招くロザリア。
「お久しぶりね。今日はどうしたのかしら」
 鈴を転がすような声音で金髪の女王が問う。
「はい、陛下。聖獣の宇宙がただしく運行し始めた今、私の大切なパートナーをもうひとりご紹介したくて」
 アンジェリークははきはきと言うなりアリオスのフードを跳ね除けた。
「この…っ。何考えてやがるんだお前はッ」
「てめーは何考えてんだよ!」
 まさしく異口同音だった。アリオスはちらとゼフェルを見た。少年は噛み付かんばかりの目で彼を睨み返している。
 誰かがぶっと吹き出した。ジュリアスがそちらに目を向ける。
「オリヴィエ」
「ごっめーん」
 だけど笑えるよね?と言いたげに弧を描いた口元。確かにこれはとてつもなく阿呆らしい状況だ。
「責任は私が持ちます!」
 アンジェリークだけがまだ気を吐いている。
「……俺は先に帰るぜ」
「えっ」
「えっ、じゃねえだろ」
 そうかしら、と考え込むような生真面目なアンジェリークの表情を見下ろす。アリオスは返事を待たずに踵を返した。来た道を戻りながら、洞窟で待つか、と考える。置いて帰ったと知ったらレイチェルがうるさいだろう。10歩と行かないうちに衛兵が追って来た。
「聖獣の陛下がお泊りになる部屋にご案内するよう、申し付かりました」
「別に構わねえけど」
 アリオスはうべなった。野放しにすべきではないと、とっさに考えた奴もいるわけだ。
 部屋は一面砂糖菓子のような色だったがもう気にしないことにした。ドアの前に2人、バルコニーの下に3人兵士を張り付けられているのも同様だ。貴賓の部屋ならば静かで気安く過ごせるようにしつらえるのが心遣いというもので、これみよがしの警備の意味するところは明白だった。
 面倒な、と口の中でごちる。
 アリオスは人が近づけば分かるよう鈴を通した糸を張り巡らせ、靴を履いたままベッドに仰向けになった。アンジェリークが戻ってきたら怒るだろうが。
 そう、アンジェリークが戻ってきたら、よく言い含めなくては。
 自分の決定に承認を求めるなどというのは臣下の礼、一国一城の主がむやみにすべきことではないと。それに聖獣の宇宙やアルカディアで、守護聖たちとのニアミスは何度もしている。俺の存在は薄々奴等の知るところだったはずだ。俺の行動の範囲を広げたいなら、暗黙の了解と既成事実を積み重ねていくやり方のほうがずっと賢明だ。そもそも、己の存在をおおっぴらにするメリットなどあるとは思えない。
 深々とため息をつく。
 事を起こす前に俺に相談しろと言って聞くだろうか。
(これまでずいぶん下手に出てきたからな……)
 両目を閉じる。眠って忘れてしまおうか、と呼吸をするように思う。
 それは全く物事の解決にはつながらないが、どれだけ考えを研ぎ澄ませ腕を鍛え上げても及ばないことはあるのだと、彼は今では知っていた。窓の外、鳥の鳴く声が遠くなっていく。

 眠りから醒めたとき、あたりは暗かった。飯時だな、と腹具合で見当をつける。
 ぼうっとしたまま灯りをつけた。
 女王と守護聖たちはサクリアによって互いの居場所をおおまかに把握できるが、自分は別の手を必要とする、といくらか面白くない自覚を強いられてから、彼は人の気配に特に敏感になっていた。
 果たしてドアはノックなしに開けられた。
「アリオス、貴方のことを認めて頂いたわ!」
 喜色満面の少女を彼は無感動に見やった。
 まるで彼女の庇護者であるかのように傍らに立つ光の守護聖が、しぶしぶ口を開いた。
「我々はしかるべき形式を踏んだ場合には、そなたを女王の代理人として認めることで合意に達した」
「しかるべき形式ってなあ何だ?」
 アリオスは眠たげな声で聞いた。
「具体的な話はこれから詰めていく」
「……あぁ」
 そんなことだろうと思った。
 彼等はこれから妥協を引き出していくだろう。もちろんそうする。いくらでも引き出すことができる。
 しかしそれにしたって思い切ったことを言うものだ。
 女王の代理人?
 アリオスは長いため息をついた。
 ほんとに、つくづく、かえすがえすも、おめでたい奴等だ。俺があそこまで詰めたというのに、実は全く懲りてないんじゃないか? 後一歩でこの宇宙は俺の手に陥ちるところだったというのに。
「俺はまだ寝てんのか?」
 夢を見ているようだとは完全に皮肉だ。
「もう、アリオスったら」
 アンジェリークが笑って彼の肩を打った。結構本気で痛かった。
「それじゃジュリアス様、送ってくださってありがとうございました」
 男は白皙にくっきりと苦笑を浮かべていた。
「衛兵もメイドもそばに控えている。何かあったらすぐに声をかけるように」
「? はい」
 曖昧な笑みでアンジェリークが見送る。
 白い御仕着せの立哨が扉を閉めた。
 アリオスは右手を銀髪にくぐらせ、がしがしと頭をかいた。あーともうーともつかない唸り声。
「……一応聞いとくぜ」
 アンジェリークは振り返り、目顔で先を促した。
「何だってこんなこと考え付いたんだ」
「その方が自由にやれると思わない?」
 彼女は一歩踏み出した。アリオスは意識してそこに踏み止まった。
「そりゃお前にとっての話か?」
 有難迷惑、と書いたような顔で問い返してやる。
 アンジェリークはそ知らぬ顔でバルコニーへのガラス戸を開いた。夕暮れの風が流れ込み、少女の頭の細いリボンを揺らした。
「だって貴方は、どこに出しても恥ずかしくないエージェントだわ」
 アリオスは外へついて出ながら、げんなりとして言う。
「躾のいい犬か何かじゃねぇんだぞ」
 どこにも出すべきじゃない、荒事を請け負うエージェントなんてのは。
「貴方を日陰者のままにはしておけないじゃない」
 ましてやお妾さんでもねえ、と言いかけて己が情けなくなった。
 ロココ調の細工細やかな手すりに軽く手をのせて、暮れなずむ聖地を遠望するアンジェリークは晴れ晴れとしている。彼女はさっと首を回した。
「私は貴方に、何がなんでも幸せになって欲しいの」
 射抜くように強い視線。
 はは、とアリオスは気の抜けた笑いを洩らした。
「……すげえプレッシャー」
 何ひとつ面白くないが笑うしかないので、と言わんばかりに。
 何がなんでもとかねばならないとか、そんな思考様式はもう捨てた。その日を過ごすことだけを考え、腹を満たす以上の快楽をあきらめると、人生は実に楽になった。この欺瞞に満ちた生活に俺は満足している。愛していると言ってもいい、とアリオスは思う。かつての彼も、欺瞞に満ちた旅を愛し、終わりを先延ばしにしていた。今は終わらせる必要がない。……幸か不幸か。
「あっ」
 アンジェリークが声を上げた。
「こんばんわ、オスカー様、オリヴィエ様」
 手すりから身を乗り出して笑顔になった。
「ハーイ、アンジェリーク」
「やあ、お嬢ちゃん」
 闖入者たちが口々に手を振る。
「おさんぽですか」
 そんな訳があるか、とアリオスは腹の底で思った。目的を持ってでなければ、客間の真正面に入ってくる訳がない。
「まあそんなとこ」
 オリヴィエは眉一つ動かさなかった。軽くはぐらかす口調も物慣れている。オスカーはといえば甘い口吻なめらかに、
「夕闇に浮かび上がる白い牡丹のような君の笑顔に、ふらふらと吸い寄せられてきたのさ。暫く見ないうちにまた綺麗になったな」
「まあ、オスカー様ったら」
「こっちにはいつまでいる?」
「明日の朝には帰らなくちゃならないんです」
 手のかかる子供がいるようなものだから、とこそばゆい言い方をするのが、宇宙のことなのかまだ不慣れな守護聖たちのことなのか判然としない。
「では今宵限りの逢瀬か」
「ちょっと待ちな、アンジェには先約があるんだよ」
「なに、まさかお前の抜け駆けじゃないだろうな」
「いえ、陛下とロザリア様に晩餐のご招待を頂きました」
「残念だな。俺だってうまいもの食わせてやろうと思ってたのに」
「こいつはそのあとでかわいいゲストをおいしく頂いちゃう手合いだからね。気をつけるんだよ〜」
 アンジェリークは笑って言葉を返さなかった。
「それで、女王陛下の番犬はテーブルの下で大人しくしていられるのか?」
 自分のことは無視して蚊帳の外に置くつもりだと踏んでいたアリオスは、反応が少しく遅れた。
「……なんだと。喧嘩を売ってやがるのか」
「飲もうって誘いに来たんだよねぇ、これが」
 呆れたようにオリヴィエが言う。だめじゃん、うるさい、と応酬する2人の手にそれらしきボトルは確かにあった。
「で、どうする」
 オスカーが顔を上げた。
「あ?」
「来るのか」
「――行く」
 答え手すりに足をかけてからはたと少女を顧みる。アンジェリークは小さく手を振っていた。

 酒はオスカーが出す、場所は私が貸す、ならサカナはあんたの提供だよねえと言われたのは勿論ツマミではなく話の種のことだと分かっていた。好奇心旺盛で闊達で社交的、一方で警戒心も強い彼等は以ってゲートキーパーを自任している。素直に誘いに乗ったのは単に餌に釣られたわけではなく、逃げを打っても長くはないだろうという諦めもあってのことだったが。
「どういうことなのかなら俺のほうが聞きたいぜ。あいつもお前らも、いったい何を考えてやがるんだ?」
「そう言うな。両陛下もみなも、いろいろ考えた挙句のことなんだと思うぜ」
 苦笑まじりのオスカーは、三人称で語った。つまり自分は意見が違うと言うわけだ。
「ほんとかよ」
 アリオスは気付かない振りをすることにした。
「俺はまだ騙されてるような気がするぜ」
「そんなことより! ねー、アンジェとはどこで再会したのよ」
「アルカディアだ」
 いかにもわくわくと質される夜更けには、この酒には自白剤でも入ってるんじゃないかと思うくらい黙秘する意思が失せていた。
 アリオスはグラスを干した。手酌を叱られてボトルを置く。
「気がついたらでかい木の下にいて何も覚えてなくて」
「お前が? その面で記憶喪失だって?」
「面が関係あるかよ」
 アリオスは水滴の浮いたグラスに骨ばった指を滑らせた。
「やっぱり喧嘩売ってんじゃねえか」
 剣の腕酒の量女の歓声。競い合うという経験は新鮮で楽しいものだった。角突き合わせながら築いた何がしかの友誼を打ち捨てたのは、確かに自分だったが。
「拗ねない拗ねない」
 オリヴィエがひらひらと手を上下に振った。彩られた指先が目にちかちかする。
「別に拗ねちゃいない」
「酔っ払いは酔ってないと言い張るもんだぜ」
「そりゃあんただってーの」
 ふん、と鼻を鳴らしてオスカーは新しいボトルを取った。身に覚えがあるわけだと考えながら、注がれるままをアリオスは取り上げ一口飲んだ。ウォッカだった。彼等が酒というとワインではなかったか。意外なものを、と思いながら啜る。
「で、今はぜんぶ思い出したのか」
「ああ…。体を作り出して魂を吹き込んで記憶を蘇らせて、ついでに仕事と報酬を与え続けるなんて、あいつは一体俺で何がしたいんだろうと思うぜ」
 権能を尽くしてペットにしてしまおうというならまだ分かる。裏切られた復讐に奴隷にしようというなら上等だ。あれがそんな眼か?一体何が彼女をそうさせるのか、皆目分からない――別に真剣に考えたこともないが。
「お嬢ちゃんはお前を、更正させたいんだそうだ」
 オスカーはくつくつと咽喉で笑った。
「頑張ってる女の子の熱気と言うのはすごいな。熱く語られるなら俺は、もっと色っぽい話のほうが嬉しかったんだが」
 アリオスはその男をあからさま胡散臭げに見やった。オスカーの声音は彼が知る限りいつも明るく力強く、そこに欲望があるのかただの口癖や冗談なのか読めた例がなかった。
 が、嫌な予感はした。
 アンジェリークが自分を幸福にしようと意気込むのと同じくらいには、自分も彼女に思い入れを持っているはずだと思う。何といっても彼女は、自分にとって創造主なのだ。征服し支配することに慣れた己をして膝を折らしめた女なのだ。
 唇に残った酒気を舐め取る。
 彼女は、彼女こそは幸福に満たされなくてはならない。
(こいつは駄目だ。絶対苦労するぜ)
 自分に自由が必要ないように、それが少女に一番必要ない心配だとしても、これは特別なエージェントの責務というものだ。


inserted by FC2 system