いと低きところ 2

 オスカーが座っている場所からは王宮の庭が見える。
 幾何学模様の植栽からなる花園が見え、菜園と果樹園が見え、回遊式庭園が見える。立ち上がって窓辺に寄れば積み木を重ねたような家々が見え、その向こうに峨峨たる山脈が見える。
 屋内に目を転じても視野を遮るものは少ない。壁と扉に閉ざされている部屋は稀であって、営みはひろびろと彼の目に晒されている。
 最初はこうではなかった。すべては鎖され隠されていた。
 彼らが空間の支配と視認性のどちらに意味を持たせているのかは意見の分かれるところだったが、胸襟を開く意思の表示と見ていいだろうというところで、研究員たちは互いに合意を得たらしかった。
 高みに設えられた肘掛け椅子にゆったりと腰を下ろして、オスカーは行き交う人々を見ている。そして自分自身もまた視線に晒されているのを感じる。この処遇をどうして警戒の表現ととってはならないんだ?と考えている。
 技術の研鑽に情熱を傾けるこの地の住人に、研究員たちは親近感を覚えている。見る目が甘い。
 しかし「彼ら」が、誰が訪問者たちの主たるかを学んだのは明白だった。
 王による直接統治を採用していない人々は、誰が威を張っているのかを知ると同時に、彼を談義の席から外した。
 次は誰が話をする相手なのか分かって貰わなくては。
 研究院は認識と分析、知ることそのものを目的化している。いくらでも対話に付き合うだろうが、交渉の相手ではない。
 ――っと。
 オスカーは自嘲に撓んだ口元を押し隠すように片手で覆った。
 聖地もまた交渉の相手ではない。
 聖地はいかなる脅しにも屈することなく、いかなる富にも迷うことなく、取引を認めない。圧伏することを当然とした神の機関だ。
 恭順を得るために、差し出せるものなど何もない。語られる繁栄の約束を容易く信じるようなら、それはもう蛮族ではない。
 オスカーは自分がペテン師にでもなったような気がする――が、錯覚は一瞬で去る。強さを司る炎の守護聖に、自虐の癖はない。
 彼は立ち上がり、窓から離れていった。目に付いた一本の柱にゆったりと背をあわせ、耳を澄ます。足音が近づいて来ていた。
 裾の長い布使い豊かな衣を纏った女が、花篭を手に回廊を歩いている。彼女が窓辺や柱のうろに配された揃いの花瓶に、白い花を一輪ずつ加えて回っているのをオスカーは見た。
 ゆっくりと身を起こし、女の方に向き直った。
 彼は自分が力あるものだということを知っていたし、自分を脅威とみなす者がいることも弁えていた。彼の動きは緩慢で優雅だった。
 女は足を止めて彼を見た。
「猊下」
「そうじゃない」
 オスカーは首を左右に振った、それが否の意味だと、通じているのかどうか今もって心もとない。なにしろ、陛下という尊称がたいへん――豪胆な彼をして青ざめてしまうほど、不適切なものであることを理解してもらうのにも時間がかかった。炎のサクリアの主、すなわち万軍の主という表現に問題があったのだとは思うが。
「……綺麗だな」
 オスカーは笑みを作為した。女は花の一枝を指先でつまんで差し出した。オスカーは手を伸ばしてそれを受け取り、息を止めたまま一寸匂いでも嗅ぐような仕草をして、興味なげに手摺の上に打ち棄てた。もちろん最後には回収し分析に回すが、それは後での話しだ。彼は笑みを濃くし、首を横に振った。
「あなたが」
 女は頬を染めた。
「まあ」
 小さく声を上げた。
 だがその意味するところが、彼の常識とひとしいとは限らない。はたして彼女は言った。
「あなたがたも、二人称に単複の両形を持つのですね」
 彼は吹き出した。
「ああ、持つとも!」
 そういえば公的接触の場では、我々やあなたがたという言い回しばかりを使ってきた。
 彼は今や心からの笑みを浮かべて彼女を見つめ返した。
 ああ、この目には覚えがある。勝気で理知的で、彼が愛でてやまない目だ。ロザリアの碧紺の双眸を思い出して胸が締め付けられた。オスカーはいそいで付け加える。それにレイチェルの菫色の瞳。さらに5つ6つの名前を数え上げ、平静に戻る。
「他に俺から何を聞きたい?」
 これで彼女は一人称にも単複の両形があることに気付くだろう、と考えながらオスカーは女の方に身を屈めた。
 彼女は聡い。この地に住まうのは、火花を上げるように次々と発見し創発する人々だ。
 サクリアは自律循環するものではあるが、辺境と称される地にあっては一般的に希薄だ。ただしこの星ではひとつ鋼のサクリアばかりはよく満ちていた。緊急にサクリアの操作が必要とされているのではなくとも、となれば鋼の守護聖に令が下るのが定石だったが、なぜ優位の測定値が出るのかを調べているうち、先代が訪問していたことが分かった。
 ではゼフェルに行かせるのはやめた方が良いでしょう、とルヴァが言った。不死を聖性の条件とする文化は多いですから、と。その時点で手元に抱えている懸案の多少を検案した結果、お鉢はオスカーに回ってきた。彼に否はない。外の世界は好きだ。それに。
 お気をつけて――と、言葉少なに彼を見た女王の目。俺はあの雄弁な眼差しから少しでも離れた方がいい。あの青い瞳を忘れた方がいい。
 そこに幸福な結末はないと分かりきっているのに、すべてを投げ出すわけにはいかない。忠誠だけ。汚れない忠誠だけだ。愛ならば俺は、目につくところどこへでもつぎ込む。そうする権利があるはずだ。
 女が口を開いた。
「何とお呼びすれば?」
 第一にそれを問うつつましさを彼は気に入った。目を細めて答えた。
「オスカー」
 2秒をおいて後ろを振り返った。随行員が早足に駆け寄ってくるところだった。
「オスカー様!」
「終わったか。今日は早いな」
「はい。母船に主星から通信が入っているそうですので切り上げました」
 ふうんと生返事を返しながらオスカーは女に笑いかけた。
「ではまた、いずれ会おう」
 立ち去りかけたところではたと思い出した。
「ああ、花をありがとう」
 人差し指と中指の間で躍らせるようにしながらそれを拾い上げた。彼女に背を向けたところで、随行の研究員が不安げに口を開く。
「いいんですか、それ」
「ん?」
 オスカーは一輪の白い花を胸元のボタンホールに固定しながら聞き返した。若い研究者はちらちらとそれを横目で見ている。
「求愛だの決闘の申し込みだのだったらどうするんです」
「問題ない」
 オスカーは言下に否定した。
「まずありえないとは思うが、そういう事態になったとして、一体どこに問題がある」
「え、いや、どこにというか……」
 そこかしこにある。が、オスカーは相手の狼狽を無視して笑みを浮かべた。
「求愛ならば無論受け入れて娶るさ。この地にそれは見事な屋敷を建てて住まわせ、俺は月に何度か陛下の許しを得て下る。彼女が生きている限り、な。いつまでも歳をとらない俺を見れば、彼らも多少は聖地について理解が出来るだろう。どうだ? 完璧なプランだ」
「果たし状だったら?」
 彼が語るうちに立ち直った随行員が勢い込んで聞いた。
 炎の守護聖は余裕たっぷりに相手を見返した。
「この俺が負けると思うか?」
「……女性には手を上げない方かと」
 随行員が目をしばたかせて言った。
「ふむ、気は進まないな」
 オスカーは唇から顎先へと指をかけ、考え込んで見せる。
「しかし普通は、あっちが代理の騎士をたてるだろう?」
「そのあたりがまだ何とも」
 そもそも決闘の文化があるとは限らないと、青年は文化の類型に関してひとくさりのレクチャーに突入した。
「ま、気長に頑張ってくれ」
 オスカーは肩をすくめて聞き流した。
 多少長引く分には構わない。俺には頭を冷やす時間が必要だ。


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