いと低きところ 1

 その出来事の最初の衝撃と苦痛が引いていった後で、ヴィクトールは世界の片隅で静かに暮らしたい、と思うようになった。望みはまだ叶っていない。
 労多く果少ない仕事は、自分が世界に関わっているという感覚を磨り潰してくれるような気がして、一頃立て続けに出した左遷といえそうな僻地への転任願いは尽く弾かれた。いっそ辞めてしまおうとすれば握りつぶされ、ならば人間性のことなど忘れてしまえるような、本当に激しい前線へ行こうと志願すればそれも蹴られる。挙句がこの任務だ。
 今から200時間のうちに、ヴィクトールは若い文明を破壊する小惑星を撃墜することになっている。
 反撃はない。現地人との折衝もない。技術職とコンピュータの演算に任せて、あとはボタンひとつ。
 まわりは俺を見誤っている、と彼は思う。
 平穏で楽な仕事が俺を元通りにしてくれるわけじゃない。
 そんなことは先の特務で分かったことだろうに、何だってまたこんな。
 もっとも聖地での日々が楽だったかと言うと、かなり微妙な答えに窮するものがあるか、と気づいて彼はひとり苦笑いした。
 しかしまあ、やはり俺はここから放逐されるべきだ。作戦行動中の休憩時間、辞表作成に精を出すようでは――ヴィクトールはキーを打つ手を止めた。画面の左上、入電を告げるアイコンが光っていた。内容を参照し、通信を受け入れるよう命じ、文書をとじる。
 部外者による私信が届くこと自体が、任務のぬるさを示しているな、と心の隅で思う。
 景気はどないでっか、といやに明るくなったような感じがするディスプレイの向こう、チャールズ・ウォンが笑った。
 もちろん聞き流せば何でもない挨拶だが、いっとき任を同じくした芸術家は、経済活動を中心に社会を捉える君のような輩が、人間の感性を腐食させていくんじゃないのかい、と皮肉で応じたらしい。釈迦に説法かもしれませんがと前置きして、主星圏の景気動向をひとくさり解説した研究院の話も聞いた。商人がいつか彼に泣き付くように言いつけたところまで含めて、彼らのコミュニケーションのうちだ。
 ヴィクトールはただ曖昧に笑って、「そちらは」と返した。
「ぼちぼちやな」
と、様式美にのっとって男は答えた。
「えーと、制服っちゅーことは仕事中?」
「気にしなくていい。休憩時間だ」
 ヴィクトールはちらりと時刻表示に視線を落とした。いくら饒舌な相手とはいえ、残り時間を食いつぶすほどの話の種はないだろう。
「へえ、いまどこにおるん」
「悪いが、作戦行動中は口外を禁じられている」
 さよか、とかすかに鼻白んだ気配と共に軽く答えた後で、チャーリーは眉尻を下げた。
「例の会の件でかけたんやけど、そやったら今月は難しいかな」
 ――女王試験終了も近いある晩、まったくここで出会ったのでなければ、こんな風に飲み交わす仲にはとうていならなかっただろうと、最初に感慨をもらしたのはヴィクトールだった。社会に出てから異業種の友達作るチャンスなんてそうないしな、とチャーリーが話を受けた。そういうものかい、と浮世離れしたセイランが気のない相槌を打ち、統計的に有意です、とエルンストが応じた。せやからここを出てもまた会おや、とチャーリーが屈託なげな笑顔で言った。酒の勢いの口約束が、存外続いている。
 が、異業種懇親会の名称は3度目にして例の会、に落ちた。異業種の友人ばかりが目的でもないことが分かってきたので。
「今月――いつごろだ?」
「27日以降やな。ほら、夏休みやん。エルンストさんとアンジェちゃんはオッケーで、セイランさんは例によって気が向いたら来るて。ああ、あとこないだティムカちゃんと会うたら、僕だって皆さんと会いたいのにずるいですよーて珍しゅう駄々こねとったんで、学生さんのおやごさんの許可が出たらロケーションは主星を離れるかも」
 ぱらぱらとページを繰っていた大判の手帳から顔を上げて、どないや、とチャーリーは問いを重ねた。
「問題なく任務が終了すれば、そのころは賜暇があるとは思うが……」
 ヴィクトールは軍装の白手袋に包んだ手で顎をつまんだ。指令所に戻る前にひげを剃らなければ、と頭の端に刻む。
「し――? ああ、休暇のことやな。なら、このままいってええか」
「そうだな、よろしく頼む。出席できそうになければ、分かり次第連絡させて貰うよ」
「了解や。頭数が減る分には、俺は一向かまへんよってな」
 冗談めかしながらチャーリーが口元だけで笑う。誰を敵視するべきなのか、お互いにもう分かっている。ヴィクトールは苦笑をもらした。
「ティムカをつついておいてよく言う」
「あれ? ヴィクトールさんが口すべらしたんとちゃうん」
「別段それらしい話はしていないが」
 ほなセイランさんかなあとチャーリーが首をひねる。
「一番ありそうなのは、アンジェリークじゃないか?」
 ヴィクトールは、手紙のやり取りがあるのだとはにかみながら言った少女を脳裏に浮かべた。
「あちゃー」
 想像しなくもなかったのだろうと思わせるタイミングでチャーリーが声を上げ、天を仰いだ。
「無邪気なんも困りものやな」
 ひとしきり呻いてから正面へと戻された緑がかった茶色の瞳は、共犯者の光を宿している。
「ギブアップするか?」
 今度はヴィクトールが作り笑いになった。
「冗談――」
 背後を慌しいノックの音が襲い、ヴィクトールは言いさしたチャーリーから目を離した。
「ご休息中失礼します!」
 扉越しの声が緊迫している。
「すまん、急用が入ったようだ」
 ヴィクトールは通信切断のボタンに指を伸ばしながら腰を浮かせた。
「ああ、気にせんといて。用件はすんどるわ」
「それじゃまた」
 悪いが失礼させてもらう、と口早に詫びてヴィクトールは通信を切った。同時にもう一方の手で部屋のロックを解除する。
「どうした」
 戸口に歩き出しながら聞く。
「所属不明の構造物が接近中です」
「妙だな」
 ヴィクトールは独り言のように呟いた。この案件には、妨害が入るような政治的な要素はないはずだった。人道的救援――彼がもっとも好む、否好んだところの。
「調べは付いたか」
 ヴィクトールは指令所に入るなり言った。
「いえ、まだです」
「今から警戒配置に展開する。調査班はそのまま続行してくれ。船外作業中のものはいたかな」
 いないはずだ、と思いながら聞いた。
 末端の兵士に至るまでを密に把握することを彼は好んだが、階級が上がれば部下の数も増えるもので、実際にそれが出来てしまうような編成でもって作戦行動を取るのは久しぶりだった。機械に多くを頼った今回は、最小編成といっていい。
 上層部は俺の愁訴をまったく取り合っていないわけでもないのだな、と不意に気づいた。一大艦隊を任せることは出来ないと考え始めている。それに、一瞬で重大な判断を下さなくてはならない前線にも向かわせたくない。形式に沿った退職願という手は、繰り返すだけの価値がありそうだ。
 なんにせよ、今はそんなことを考えている場合ではないが。
「船外作業中のものはいません」
 念を入れて各艦に確認を取った副官が答える。
「軌道計算出ました」
 オペレーターが声を上げた。
「第4惑星からです。何度見直しても他に考えられません」
 まさか、とざわめきがたった。
 若い、歴史の浅い星だと聞いていた。宇宙開発に乗り出すような段階ではなかったはずだ。
「リモートは飛ばしてあるのか」
「はい、まもなく対象と接触します」
 ヴィクトールは船内無線をとりあげた。
「第1砲室、遠隔調査機に対して援護射撃用意」
 汎用の無人調査機とはいえ、無為に失えるほど安くはない。人工知能の組み込まれたそれに、女名前をつけて大切に整備する兵も多かった。
 30分後、調査機は無傷で回答を寄越した。
「無人の探査船だと言ってきています。つくりはごく原始的ですが」
 担当は口を滑らせてから、俺は多文化主義者です、口が悪いのは調査機搭載のメリンダで、とあわてて言い訳した。
「探査船、か――」
 ヴィクトールは最初の部分だけを繰り返し、あとは聞かなかったことにすると無言のうちに告げた。
「進路をあけてやれ」
 肩の力を抜き、指揮座に腰を下ろす。
「対象が通過後、警戒配置を解除する。本部に現段階での速報を」
 言いながら思い出した。
「確か、研究院の連中が第4惑星に降りていなかったか」
 彼の言葉を受けて照会をかけた部下が、
「計画の所属は聖地のコードになっていますが」
と、困惑顔を上げた。
「聖地を通すとタイムラグが増大する可能性がある。研究院が絡んでいるなら、主星の研究院と聖地に同時通知しておこう」
「はい。では聖地、軍本部、および主星中央研究院に事象を報告します。現地へはどういたしましょう」
 直接情報を交換したほうが話が早いのは分かっている。だが探査船をとばした誰かは、聞き耳を立てているかもしれない。そしてそれが地上での活動にどう影響するか分からない。
 ヴィクトールは椅子の肘掛をこつこつと指先で叩いた。
「研究院から転送するよう依頼しておけ」
「了解しました」
「対象探査体が本艦の監視カメラ射程内に入りました。メインスクリーンに展開します」
 艦橋の壁に埋め込まれた大型ディスプレイにそれが映し出される。
 ヴィクトールは、ゆっくりと近づいてくる構造物を無言で見ていた。


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