早春賦

 突発的な視察で聖獣の宇宙を訪れたオスカーから久しぶりに剣の手合わせでもと誘われ、ヴィクトールは一も二もなく頷いた。
 聖地時間における2泊3日のうち、オスカーは最初の24時間だけを星間視察に充てていた。高速艇を降りたその足であちらこちらへと顔を出して回る姿を見、宇宙の発展具合ではなく聖地の調和こそが懸念されているのだと気付いたのは、約束をした後のことだった。
 ごく当然のこととして、手合わせにかこつけて近況を質す心積もりなのだと思った。
 惨憺たる現状を考えれば探られて痛くない腹というわけでもなかったが、この先も何かにつけ自分なり同僚なりが世話になるに違いない大先輩相手に、約束を反古にするわけにもいくまい、とヴィクトールは早々諦めの境地に至った。
 ……いや、どうも自分は、オスカーに甘い。
 恋人であった頃はむしろ、おおっぴらな譲歩はしなかったはずなのだが。
 関係は、アルカディアを出る時に清算している。再会して以来ごく事務的な付き合いに終始してきた。
 召されてふた月。顔をあわせる機会自体、そうはなかったが。
 オスカーは彼の執務が終わる頃を見計らってやってきた。聖殿に干戈の音は似つかわしくないでしょう、と私邸に誘うと、承諾しつつも妙な顔をした。
「あっちじゃ聖殿に闘技場があるぜ」
 ヴィクトールは苦笑して、
「なかなかそこまでは、手が回りかねていまして」
「そう言ってる間に切欠を失うんだ。動くなら早い方がいい」
「貴方がお願いして作ってもらったんですか?」
「いや、俺が来たときにはもうあったな」
 他愛のない話をしながら帰途を辿る。
 初めて見る館の重厚な構えと緑みずみずしい前庭を、オスカーは褒めた。そつなく、興味などないが礼儀を守った、とヴィクトールは感じた。
 聖地では先代の屋敷をそのまま使っているというオスカーは、アルカディアでは下賜された館の重厚を通り越して圧迫感のある造りを気にとめる風でもなかったし、その地でのヴィクトールの仮住まいにも何ら言及するところがなかった。
 礼節は距離を知らしめる手段でもある。
「長旅でお疲れでしょう。まずは一服いかがですか」
「そいつは悪くない提案だな」
 オスカーは溌剌と答えた。それがまた妙に、猫でも被っているかのように思える。
 ヴィクトールは胸が疼くのを覚えた。
 蜜のような笑み、蠱惑的な眼、艶やかな声。一度はその甘い果実をもいだ。
 ――……夢のような話だ。
 コーヒー党と知ってはいたが、気紛れで出した近頃気に入りのホットラムティーを、オスカーはうまいと喜んで飲んだ。ヴィクトールは破顔した。
「お口に会って良かった。この間レオナードに教わったんですよ」
「意外だな、ヤツは酒ばかりかと思ってた。それに、あんたがあいつとプライベートな話をするというのも意外だが……」
 オスカーは少し考えるように宙を睨んだ。
「あいつらはちゃんと聖地に馴染んでるのか?」
 ら、というのは付き合いの短い3人を言っているのだろうと察しがついた。
「さあ…」
 ヴィクトールは口を淀ませた。
 フランシスやユーイと口論になったことはないが、争いがないということがイコール円滑なコミュニケーションを示しているわけではないことくらい分かっている。レオナードに至ってはこれはもはや意思の疎通など不可能な相手なのではないかと真剣に考えたことすら一度ならずある。それでも何とか信頼関係を築こうと努力してはいるのだ。件のレシピを乞うた際に、立ててさえおけば随分上機嫌な男なんじゃないかとちらりと思ったりもした。
「ことさら浮いているとは思いませんが、他の皆だって纏まりがあるといえるレベルじゃないでしょう」
 もちろんそここそが問題なのだが。多くの課題に共に取り組んできてどうしてこうも、と思わなくもない。それをヴィクトールは、「お恥ずかしい話です」と、一言に終わらせた。
 言葉でまた一つ垣根を作った自覚は後から沸いてきた。
「そうか」
 不当に邪険にされたかのように客人が眼を尖らせた。
「……暗くなる前にやろうぜ」
 オスカーは言って立ちあがった。
 芝生を蹴散らすのも丹精している庭師に申し訳ないので、賓客を通すようなところではありませんが、と断りつつ裏手に案内する。ヴィクトールは途中の部屋で練習用の剣を用意した。
「オスカー様はどうされます」
「こいつがある」
 オスカーは腰に差した剣の柄に掌底を当てた。見るといつもの家伝の宝刀ではなかった。先に会ったときには違ったと思う。
(準備のいいことだな)
 ヴィクトールは内心呟くに留めておいた。口に出したならば、俺が断るとは思いもよらなかったのですね、と皮肉が声音に溢れ出てしまいかねない。
 裏庭は敷地の縁を木立が区切っているだけの空き地が広がっている。その一角にシーツの群がはためいていた。
「む…汚すとまずいな。ちょっと待って下さい」
 乾いているのをいい事に、端の数列を取り込んでしまうことにした。
「手伝おうか?」
 オスカーが苦笑して言った。
「滅相もない」
 ヴィクトールは反射的に答え、今のもよそよそし過ぎただろうか、と自問した。
「すぐに終わらせます」
 しかしどれだけ親しく過ごすことが許された時であっても、まさか守護聖様に洗濯物の取り込みを頼むわけにはいくまい、とそこまで苦笑交じりに考えたところで、ヴィクトールは今は自分もそう呼ばれる立場にいることに思い至った。
 能力の限界を越えている、と思う。
 宇宙の命運を左右することへの、ほとんど恐怖にならんとするたじろぎを、いつかは呑み下せるようになるのだろうか。
 聖獣の聖地に居を定めてから、平気な顔で守護聖をしている存在が急に恐ろしくなった。
 オスカーはオスカーで、軍歴を断たれた男にかつての己を重ねてでもいるのか、再会の言葉もぎこちなかったもので、勢いふたりの付き合いは疎遠になった。しかしそれでもこの炎の守護聖は相変わらず精悍で凛々しく、率直で生彩に富み、水際立った男ぶりで彼を惹きつける。
 ヴィクトールは顔を上げた。
「……始めましょうか」
「よし!」
 相手をおいて剣を振るうのは久しぶりだった。
 向かい合って打ち合うこと数合、不意に耳元にひたりと冷たい金属の感触があった。
 実戦ならこのまま、延髄を叩き潰されているところだ。
「腕がなまったんじゃないのか?」
 オスカーがにやりと笑うのを眼の端で見た。この美貌、この鋭気、この溢れんばかりの輝きに、打ちのめされ続けてきたことを思い出さずにはいられなかった。
 10分1Rを5つ終えたところで日が暮れた。
「調子、悪かったか?」
 4つまでを押さえたオスカーが、あまり嬉しくなさそうに言う。
「いえ、本当になまったかもしれません。何しろ相手になってくれるやつがいなくて。ロードワークやなんかは今も欠かさないんですけど」
「ああ」
と、オスカーは嘆息混じりに頷いた。
「その苦労が一番理解できるのは俺だと思うぜ」
 違いない、とヴィクトールは相槌を打った。
 以前女王試験で神鳥の聖地に呼ばれた時には、自分は炎の守護聖様の暇つぶしのために呼ばれたわけではないのですと言いたくなるくらい、頻繁に声をかけられたものだった。
 それで今はランディを本腰を入れて鍛えようとしているところだとか、警備兵をあの手この手で誘い込んでいるのだとか、オスカーは快活に語った。それは、最早そこに自分の居場所はないのだということのように、ヴィクトールは感じた。被害妄想もいいところだと、頭で分かってはいる。
 苦々しく奥歯を噛んだ彼を、オスカーが不思議そうに覗き込む。
 紅い前髪の先から、ぽたりと汗の雫が落ちた。
「……俺は貴方のように器用ではないので、なかなか真似はできそうにありませんな」
 ヴィクトールは苦笑した。手の届かない果物を、欲しくない振りなら慣れている。
「そう言ってくれるな」
 オスカーはつうとアイスブルーの目を眇めた。皮肉と取られたか卑屈と取られたか。ヴィクトールは屈託を振り切った。
「今夜は聖殿にお泊りですか」
「いや、迎賓館だ。落成したばかりだから是非使ってみろと言われてな」
 ああそういえば、とヴィクトールは首肯した。迎賓館が出来るまでは、あちらの守護聖は聖殿に逗留するのが常だったが。
「とすると少し離れていますね。シャワーを使っていかれますか」
「ああ、助かる」
 ヴィクトールは客間のひとつにオスカーを入れ、バスルームの戸を開き、一揃いのタオルを棚から降ろした。
「ではごゆっくり」
 部屋を下がったヴィクトールは、着替えと水差しを届けるよう家人に差配し、自身も汗を流すことにした。体の火照りはそのまま高揚の温度だった。湯温を少しずつ落としながら、まだ鎮まらないか、と独り言に呟く。せめて半年、欲しかった。あの恋を忘れるためには。
 水温調節器は目盛の端まで行ってかちりと止まった。ヴィクトールはシャワーを止めた。

「オスカー様、お帰りはどうされますか。よろしければ馬車を――」
 ノックの直後から話し始めたヴィクトールは、無意識のうちに押し開けてしまったドアを少し引き戻して、言葉の続きを呑んだ。
「失礼しました」
 あれだけ格好をつけるからには毛繕いの入念な男だろうという先入観を裏切って、炎の守護聖は烏の行水を常とした。寸鉄身に帯びることのできない時間が落ち着かないと、どんな生活を送ってきたのか疑うようなことを言ったこともあった。
 だから、とうに着替え終わっているはずだと思ったのだが。頭から大判のタオルを被り、バスローブを緩く羽織ってベッドに腰掛けたオスカーは、未だ水滴を拭き終えてもいなかった。
「構うな、入って来いよ」
「は……」
 相手が恋人ではないとしても、別段恥らうようなことじゃない……男同士だ。
 強く握りすぎたドアノブが微かに軋る。
 ヴィクトールは部屋に入り、戸を閉めなおした。歩み寄り、バスタオルに手をかけた。
「そう悠長に構えていたら風邪を引かれますよ」
 名こそ同じ常春の聖地とはいえ、ここはまだ春浅く、日暮れれば風も冷たい。
 彼ががしがしと髪を拭くのにオスカーは笑って身を任せていた。笑ったままヴィクトールを見上げた。
 その眸のアイスブルー。その眸の……なんという威力。
 ヴィクトールは手を止めた。深緑色のタオルはオスカーの肩に滑り落ちた。
「ヴィクトール?」
「どんなことにせよ、俺が貴方の言いつけに背いたとは思われたくないのですが」
 彼は深々と溜息をついた。
「終に貴方を忘れられませんでした」
 濡れたタオルを払おうとする手を奪い、その甲に唇を寄せた。
 オスカーは何かを言おうとして、結局何も言わぬまま唇を噛み締めた。
 ヴィクトールはひとまずは張り詰めた空気を抜こうと、おどけた口調になった。
「俺は努力はしましたよ。この間なんて、上司の娘さんと見合いまでしたんですから」
 勧められる縁談を何年ものらりくらりとかわしていた男が、急にふたつ返事でお願いしますと返したものだから、そりゃあ噂になった。賭けが成立したから答えを吐けと同僚に迫られて、難儀もした。
 そこまで聞いて、オスカーはぶっと吹き出した。
「それで首尾は?」
「さあ。会ったその日に緊急出動がかかったもので聞かずじまいで」
 オスカーは自分の手を引き戻し、ヴィクトールの上腕の辺りを軽く叩いた。
「そりゃ大変だったな」
「まだ過去形じゃありませんよ」
 ヴィクトールはさらりと返した。
「あ……ああ、すまん」
 オスカーは枯葉色の絨毯に視線を落とした。
 大変というならば、聖地に囲われて宇宙の行く末に責任を持たされることのほうがよほど大変だ。生まれた場所も時代も異なる価値観の違う人間たちを仲間とすることの方が。気が遠くなるほどの長い時間を生きることの方が。
「今だって俺は途方にくれている。貴方みたいに賛美されることにも口説かれることにも慣れた人に、何と言ったらいいんでしょう。……遠距離でなければ、俺にもまだ望みはありますか?」
 オスカーは長く深い吐息で答えた。
「また別れが辛くなるぜ」
 そんなのはごめんなんだと彼が言うまで、ヴィクトールは待った。長い長い沈黙が続いた。このままみじろきもせずいつまででも待てるような気もしたが、もちろんそれは間違ったやり方だ。彼はゆっくりと身を屈め、アイスブルーの双眸を覗き込んだ。


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