冬天情景

 彼が知る男は定年退役を2月先に控えていた。
 そのタイミングが我侭を言わせたのだ、とオスカーは思う。
 いなけりゃいないで別にどうもしない。
 何年も先があるなら立場を慮ってそっとしておくべきだとも考える。
 だけど、そうじゃなかった。

 彼が後任を得てから始まった聖地のゲート改修は、ついに引継終了までに終わらなかった。聖地と外を結ぶ抜け道はいくらでもあるし、王立研究院の星の小径を使うという手もあったが、深い忠誠をもって己に仕えた守護聖を送り出すのに裏口からもってするなどとは、女王の名に関わることです、と――本人は直接言わなかったが周囲が止めた。
「陛下の御心のままに」
と、オスカーは頭を垂れた。
 聖地はその神性を峻険な山脈に守られている。門が主星の都あるいは任意の場所に転移させてくれないということは、やはりこの足で踏破せねばならないのだろうか。かつて学んだ軍学校のカリキュラムには強行登山も含まれてはいたが、昔取った杵柄で何とかなるのは季節がよければの話だ。さすがに冬山は遠慮しておきたい。女王の本性は思いやり深いとはいえ、オスカーには彼女が少女らしい無邪気さを完全に克服しているとも思えなかった。外は、今、何月だろう。
 真顔で季を問うたオスカーに、察しのいい補佐官は船を出すから心配はいらないと答えた。
 女王府の飛行船だと思っていたそれが、派遣軍の軍艦だと知ったのは出発の日も間近くなってからだった。星の高みを離れる時にあたってなお乗艦を是非にと冀われるのは、光栄と言っていいことではあった。出来る限りの希望を叶えると軍当局から告げられたオスカーは、
「だったらアイツをよこしてもらおうか」
 ふと思いついたというように、笑って言った。

 山々は雪を冠していた。
「助かったぜ。これを歩いて降りるのはぞっとしない」
 窓から外の景色を見下ろして息をついたオスカーに、ヴィクトールは苦笑して応じた。
「相変わらず無茶なことを仰いますね」
 歳を重ねた彼は落ち着きをいや増し、以前にもオスカーをどぎまぎさせたあの、若者を教導せんとする姿勢がすっかり板についている。彼はオスカーの軽口をもはや完全に冗談として扱っていた。
 ともに過ごした時分には、よく自分の真意を測りかねて、困ったような戸惑ったような顔をしていたのを思い出す。その顔でじっと見つめられるのが楽しかった。意味もなく愉快だった。
 人払いを頼んだ訳ではないのだがラウンジはがらんとしている。この船を下りるまではまだ己は炎の守護聖だということになるらしいので、遠慮が勝ったのだろうと思われた。彼の習癖に近い人恋しさを知っている旧知の男は、面白くない思いをしてはいないかと様子を見に来てくれたわけだ。
「あんたらには手間をかけて悪かったな」
 オスカーは窓を背にしてテーブルに近づいた。
「いえ、お気遣いなく。皆栄えある任務を楽しんでいますから」
 ヴィクトールはローテーブルにコーヒーを供したところだった。
 オスカーはソファに腰を下ろし、相手にも向かいに座るよう右手で示した。
「息災だったか」
「はい」
 ヴィクトールは唇を綻ばせた。
「オスカー様も、お元気そうで何よりです」
 病なき聖地から出たばかりの身で、元気でないはずなどない。その脳裏から聖地の特殊性が抜け落ちたのか、儀礼を優先させたのか見極めのつかないまま、オスカーはにっと笑ってみせた。
「で、結婚はもうしたか?」
 していないはずがないと思った。こんな男がいつまでも一人身であるものか。カップを取り上げた左手で、シンプルな金のリングが照明をはじきかえしていた。
「ええ。おかげさまで」
 ヴィクトールは穏やかに笑みを含んだまま答えた。
「そうだ、娘が今、あそこで働いているんですよ」
と、スクリーンに見え始めた管制塔を指差した。オスカーは彼の指先を見、横顔を見た。その男の眼差しを、何と言い表せばいいだろう。誇らしげで愛しげで、そこにはオスカーを惹きつけながら拒む強い何かがある。
「そうか」
 オスカーは視線を引き剥がしながら頷いた。
 前に同じ事を同じ相手に聞いた時には、自分は真顔で、平静を装ってはいたが内心戦々恐々としていた。この男はといえば盛大に泡を食って……。
 それは、オスカーにとってはさほど昔の話ではなかった。
「あと5分ほどで着きます。念のため座ったままでいて下さいますか」
 言いながらヴィクトールは席を立った。
 新鋭艦で飛べば地上まではあっという間だった。
 一杯のコーヒー、短い会話。旧交を温める間もない。
 こんなことなら、難渋しながら峻岳を抜けたって良かったんだ、とオスカーは思った。

 長い間、主星に留まるつもりはなかった。
 オスカー自身はホテル暮らしも嫌いではないが、不特定多数の出入りする環境は警備担当者が嫌がると当然知っていてそう希望することも憚られ、コテージを借り上げた。
 オフシーズンの避暑地は閑静で、考え事をすることが多くなった。
 ……嘘だ。
 何も考えてなどいない。
 ただ心が懐かしい面影に惹かれているだけだ。
 オスカーは暖炉の傍のラグマットに腰を下ろした。
 冬の夜は長い。厚手のカップに満たしたコーヒーをゆっくりと飲む。
 あれから、会わずにいる間に色々と知った。
 奥さんを病気で亡くしたと聞いた。25年にわたる結婚生活が幸福なものだったと。あの日言っていた娘のひとつ上に息子がいると。
 湯気を吹く仕草に溜息を紛らわせる。
 ヴィクトールは結婚しているとだけ言った。それがどういうことか分かっている、あいつにはもうそんな気はないのだ。
 だが、旧い友人に会いたいと思って何がおかしい。これはごく自然で人間的な感情だ。
 ――結婚しても遊ぼうと、いつか話したっけな……。
 文脈は全然違ったような気もするが。
 オスカーはカップの中の黒い水面に浮かぶ顔を見下ろした。
 リップ・ヴァン・ウィンクル、一体何百年ぶりに人間界に帰ってきたんだ?
 見知った顔を見て安心したいと望んで何が悪い。
 俺は別に、特別に強い人間じゃない。下界に還った今ならば認められる。俺など片意地張って、強がって、なんとか虚勢を維持して来ただけだ。
 ヴィクトールはいつも、気の強い彼をさりげなく庇い、甘やかせてくれた。あまりに優しくて、自分が守護聖を降りてしまえば、こんなにも大切にしてはもらえないだろうと思っていた。いいや、誰であれ二度と自分をこんな風には扱わないだろうと分かっていた。
 キスも抱擁も愛の言葉もいらない。あの恭しいまでの愛撫などまして望まない。
 だが、会うくらいはいいだろう。ただ会うだけなら。
 彼は座り込んだまま、当面必要なものを引き出したきり、まだ整理もしていないスーツケースを見やった。それは部屋の隅で静かに彼を待っていた。
 聖地からの降下計画を立てたときの資料に、責任者の身元は明記してあったはずだった。

 家に電話をしてもしも息女が出たら、身に染み付いた癖で口説きまがいのことを言ってしまう自信は、はっきりいって自慢にもならないがある。それは実にまずい。ものすごく怒られるに違いないと、何故だか容易に想像できた。怒気を見せることの稀な男ではあったが。
 それでメールにした。
 ――登山の約束があったよな。本格的に寒くなる前に渓流釣りをしないか。
 何を訳の分からないことをと笑われるかとも思ったが、言葉少ない返信は承諾を告げていた。
 覚えていてくれたのかどうか、いまいち確信が持てない。
 分かってはいるのだ。
 あいつの思い出の中には、もしかしたら俺はいるかもしれない。
 だがあいつの人生の中にじゃない。生活の中にじゃない。予定の中にじゃ、ない。

 それでも約束の日、ヴィクトールはいかにも彼らしい車を自分で運転して迎えにきた。
 慎重に、小高い丘と言ってもいいような山を選んできた。
 友釣りは武士道に反すると、毛鉤を用意してきた。
 そのすべてがオスカーを上機嫌にさせた。
 岸辺に着くとオスカーは、うきうきしながらどれもこれも真新しい道具の梱包を解いた。
「オスカー様の家からなら、少し南へ下れば磯釣りもシーズンでしょう。やらないんですか?」
 ヴィクトールは不思議そうな顔で言った。
「今まで手近に海がなかったからな」
「あ」
 ほんの一瞬気まずい空気が流れる。
「多分そのうち覚える」
 あんたが教えてくれよと強請ってみようかと、オスカーは少しだけ迷ってやめた。教えを乞うたり習熟する前の姿を晒したりすることの苦手なオスカーをして、一度も拗ねさせることもなく釣りを仕込んだルヴァは、実に稀有な人物であったと今にして悟る。
 山中は黄色く色づいた落ち葉が足元を照らすように明るく、冬の夕暮れの早さを忘れさせた。
 勝ち逃げは許さないと食い下がっているうちに日は落ち、雨が降り出した。
 ふたりは小さな山小屋に逃げ込んだ。
「すまん、俺がねばったせいだ」
 オスカーは息を弾ませながら言った。
「いえ、良くあることですよ」
 山の天候はこんなものだと、ヴィクトールはいなすように答えた。
 一言断って電話をかける。
 オスカーは氷雨に濡れそぼった上着を脱ぎ、椅子に広げてかけながら男の背中を見た。頭に白いものが混じり始めているのが分かった。記憶の中の後姿はもっと力強かったようにも思う。……だがこれは、来たるべくして来たった未来だ。いっそ幻滅してしまえるほど様変わりしていたらよかったのに。
 雨に足止めされて帰宅が遅れそうだと、通話口に謝っている声が優しい。戸締りは火の始末はとこまごま心配して、反発を食らったらしく苦笑交じりに言い訳している。温かい家庭がどこかあの向こうににあるらしいことを、旧知のために喜ばなければ、とオスカーは思い、気づく。祝福に努力が必要だなどとは、とんだ旧友があったものだ。俯いて短く嗤笑した。最初に足止めしたのは天気じゃない。俺が引きとめたのだ。彼は端末が仕舞われるのを目で追いながら、
「ほんとは――迷惑だったか?」
と、口走っていた。
「そう気になさらないでください」
 タオルで頭を拭きながら、ヴィクトールが振り返る。
「オスカー様、俺には甘えてくださって結構ですよ」
 悪気もなさそうな顔で、これは甘えなのだと突きつけられてしまった。強面に微かな笑みが浮かんでいる。そんなことを望んでいたわけではないと、抗弁するはずの意地が雲散霧消した。お前はそんなつもりだった。それで十分ではないか。
「……ああそうかよ」
「オスカー様?」
「わかった」
 もういい、とオスカーは未練を振り切るように背を向けた。窓の外ではまだ雨がやまない。
 あの頃だったら、自分は遠慮なしにつむじを曲げ山を下りただろうと思う。そうしたらきっとヴィクトールは、迷いはしないかと心配して追ってきただろう。それでうやむやのうちに仲直りができたかもしれない。
 今はそんな事はしない。出来ないと言った方が正しい。
(年寄りを山に置き去りにするほど、俺は不人情じゃない。)
 追ってきてはくれないだろうと値踏みしているのには気付かない振りをした。だが以前から――自分が守護聖を降りてしまえば、こんなにも大切に思ってはもらえないだろうとわかっていた。
 あれが、恋だったか憧れだったか好奇心だったかなんてもうどうでもいいことだ。
 何か真正なものに触れている確信に高鳴った鼓動も、特別上手いわけでもないのに滅茶苦茶感じたセックスも、もうない。一緒にいるだけでやたら楽しかったのも立ち消えた夢だ。はや魔法は解けた。
「寒いですか? 今火を入れますからこちらへ」
 オスカーは言われて初めて、自分が暖をとるように腕をさすっているのに気づいた。
「いや、別に」
と、言いさしたところで咳き込んだ。
「雨で体が冷えたんでしょう。シャワーでも付いてたら良かったんだが」
 ひどく気遣わしげに言われて、オスカーはあわてて首を横に振った。
「本当に構わなくていい。ここしばらくちょっとな」
 とたん、ヴィクトールは目を尖らせた。
「体調の悪いときに山登りだなんて、何を考えていらっしゃるんですか」
 軽はずみだと叱る声に苛立ちが滲んでいるのを、オスカーは聞き取った。
「だからなんでもないと言ってるじゃないか」
 軽微な不調を自分の意思で隠していられるというのは、徹底した健康管理の下に置かれる聖地を思えば楽しいことだったが、そのうち故なき後ろめたさに負けて担当医に申告すると、無菌室のような聖地に長い間いたせいだと言われた。ごくありふれた細菌による一過性の症状で、普通に過ごしていて他人に感染させる心配はないだろうと。
「しかし」
「別にあんたに迷惑をかけちゃいない」
 オスカーは拗ねた仕草で顔を背けた。
 まだ誰かに迷惑をかけた訳じゃないし、仮にしばらく臥せったって、いっそそのままくたばったって、大勢に迷惑をかける訳じゃない。もう世界の運行を司る者ではないのだから。俺はとうとう愚行権を回復した!この開放感を分かれと言っても無理だろうが。
「どうして、こんなことをなさったんですか」
 疲れたように呆れを含んだそれだけは、聞き捨てのならない台詞だった。
「どうしてだと?」
 オスカーはゆらりと男に向き直った。見知らぬ人間を見るような目をむけた。胸を波立たせる激情のままに駁撃した。
「お前に会いたかったからだ。そんなことも、もう分かってはもらえないのか」
「いつでも会えますよ。貴方は視察が終われば聖地に帰るってわけじゃないんですから」
 ヴィクトールはいともあっさりと返した。
 オスカーは口を開けたまま、言葉を失って立ち尽くした。ヴィクトールはその呆然とした様子を見て戸惑いを露わにした。見る間に眉が曇る。
「……俺は何か、悪いことを言いましたか」
 オスカーは緩慢にかぶりを振った。
「いや、ただ……」
 不意に声を詰まらせて顔を伏せた。
 喉の奥がいがらっぽく熱い。じんじんと震えるような熱が広がっていく。
 ――ああそうだ、俺はお前の傍に戻ってきた。
 戻ってきた、とにかく人間の時の流れの中に。
 気配が、ゆっくりと近づいてくるのを感じた。


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