研究院の報告によれば

 高い壁に守られた研究院の前庭に、軍の防弾仕様車を疾駆してきた勢いのまま乗り入れさせたヴィクトールは、後部座席のドアから出て約3時間ぶりの外気を味わった。
 火薬の匂い。狼煙代わりに焼かれた古タイヤの匂い。瓦礫の燻ぶる匂い。
 肺を刺すような戦場の匂いがした。
「やあ、これはようこそ」
 銃を構えたままノックした部下が、満面の笑みに迎えられて面食らっている。
 ヴィクトールは素早く視線を走らせ、その笑顔の背後に立ち働く多くの人影を認めた。
「やはり退避してなかったのか……」
 女王直属組織として専用回線を保有しているものだから、派遣軍からの避難勧告アナウンスはまっさきに研究院に流れる。それでいて大抵の場合、一番最後まで危険地帯に残りたがるのは彼等だ。もちろん派遣軍自体を除いて考えずにという意味でだが。
 二年ほど前に無理やり追い出した軍人が居て、頭だけは嫌になるくらい回る連中にあの手この手の居留守を覚えさせた。でなければ何だってこの忙しい時、本拠地作りもそこそこに遠出をする必要があるものか、とヴィクトールは多少恨みがましい気持ちになっていた。
 迎え撃つ男は彼の渋面にはお構いなしで、
「今すごくイイところなんですよ。いや勿論きりがついたらすぐ引上げるつもりなんですけど、ちょっと手を離せなくなっちゃって」
 愛想良く人懐っこく、1週間足らずの付き合いだった自分に親しげに笑いかけるロキシーを、ヴィクトールはあやしむような目で眺めていた。
 自分が知る主任研究員とは似ても似つかないが、なるほどこの過剰な熱心さにおいて、彼等は同根を持つというわけだ。
「立ち話もなんですから」
と、男は彼を中に招き入れた。追い返されそうになったらドアに足を挟みいれてでも食い下がるべし、と言われている。とはいえ間違いなく、積極的に懐柔策をとろうとする奴らのほうがよっぽど性質が悪い。それは丸め込む自信があるということなのだから。
「コーヒーでもいかがですか」
と相手が言い出した瞬間に、ヴィクトールは警戒心の水準を上げた。
「いや、結構」
「よそじゃなかなか飲めませんよー」
 通路を進みながらロキシーが言う。
「うちで納入してるのと同じものだったと思うが」
「ビーカーコーヒー、飲んでみたくないですか」
 ひょいと給湯室に手をつっこみ、ガラスの容器を指で弾いてみせる。
「むしろなんでそんなものを飲む気になるんだ……」
「そうそう、ついでに聖地奏上用にデータを集めてるんです」
 ロキシーは聞き流し、隣の小部屋から取り出したクリーム色のファイルを勢い良く振り返ってヴィクトールの胸に押し付けた。さらにひとつ奥が応接間になっていて、椅子を勧められたヴィクトールは、腰を下ろしながら申し訳ばかりファイルを開いた。
「それが避難遅滞の言い訳になるとは思えんが……」
 そして成果を俺に語られても意味を汲み取れるとも思えないが、とヴィクトールは内心で思った。が、チャートグラフの中、赤で示されたものの意味だけは分かった。炎のサクリアが横溢している。
 ヴィクトールは顔を上げた。視線を受けたロキシーが小さく肩をすくめる。
「しかし一般的に言って、炎のサクリアが欠乏していて紛争状態になるなんてケースよりはずっとマシです。この様子なら、おそらく早晩妨害がなされるでしょうし」
「ご来駕が、あるかな」
 誰の、とは言わなかった。
 あの紅蓮まとった人を思い浮かべるだけでひどく胸が騒ぐ。
 名など口にしたら気が違いそうだ。
「なんとも言えませんが、遠隔操作できないレベルの問題ではありませんね」
 そうか、とヴィクトールは頷いた。
「警備にいくらか兵をよこそう。機材と仮眠用にスペースをとってくれないか」
「難しいな、ここはご覧の通り手狭で」
「ではこちらでエントランスホールに設置させてもらうか……やはり同胞を見捨てるわけにもいかんしな」
 ましてや顔見知りに死なれてはこっちがどれだけ参るか。嫌味などという迂遠な物言いをしそうにないだけ、エルンストに会うのも気が重くなる。ひとりごとめいて不吉な呟きを連ねると、相手は諦め顔で溜息をついた。
「仮眠室は時間調整さえつけばうちのを共用してもらってもいいですけど」
「ああ、それは助かる。――なるべく早く切り上げてくれよ」
「はは、すみません」
 ロキシーは曖昧に笑って答えた。これ以上何を言っても堪えそうにない。
 ヴィクトールは施設図と周辺図を借り、砦に帰った。勝負はこれからだ。まず警備隊から毎日のように督促させるとして――。
 石組みの古城はつい先日までは無人だった。今はこの惑星における派遣軍の根拠地となっている。ヴィクトールは各所を見て周り、作戦本部室に戻った。窓からは乾季の赤茶けた大地が見える。
 自分たちが睨みを利かせている間に事態が沈静化してくれるならそれが一番だ。サクリアの与奪は即効性のあるものではないらしいが、ロキシーが己に示して見せたのは、そういう見通しがあるということだろう。もっと勘ぐるなら、じきに落ち着くのだから、研究院がここを離れる必要はないと仄めかしていたか。
 窓枠に手を突き、夕空を見上げる。大きく息を吸う。
 硝煙と重油の匂い。
 肺を刺すような戦場の匂いがした。
 研究院の報告によれば、この地に炎のサクリアは満ち満ちている。
 この状況でありえないほどの喜び、無上の幸福を覚えた。


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