秋の日の

 降り立った地が秋だったことはある。何度だってある。重く穂を垂れた金色の畑。赤く燃え立つ山々。葉を落とした枯木立。霜を置く大地。だが日々風が冷たくなり、陽光が軽くなり、季節が移ろっていくのを肌で感じたことは久しくなかった。
 時は大きな力に押し流されていく。このまま感傷に身を任せたら、破滅するに違いないと思った。
 タイムリミットまで1週間を残して、オスカーはヴィクトールを私邸に呼んだ。
「裏庭で何かなさってるんですか?」
 時間通りにドアを叩いたヴィクトールは、挨拶もそこそこに尋ねた。
「いや、どうして」
「煙が立っていました。心当たりがないなら、様子を見てきた方がいいでしょうね」
「ああ、俺も行く」
 そのまま戸口でUターンしたヴィクトールをオスカーは追った。
 外は晩秋。日は昇りきっているが、空気が温むにはまだかかる。ヴィクトールはキャラメル色のセーターに焦げ茶のトレンチコートを重ねていた。秋だな、と思う。秋が来てその次には冬が来てこいつはまたひとつ歳をとる。自分はそうではない。それだけのことが寒々しい。
 二人は色づいた林の脇を通って裏手に回った。
 煙を立てていたのは掃き寄せられた枯葉だった。
 火の番と思しき少年が一人ついていた。
「彼は?」
「庭師のところの子だ」
 近づく足音に少年は顔を上げ、
「オスカー様も召し上がりますか?」
 笑って屈託のないことを言った。
 掻き分けられた焚き火の中に銀紙が覗いた。
「食い扶持を減らしちゃ悪いだろ。後で始末するのを忘れるなよ」
 オスカーは少年の頭をくしゃりと撫でて踵を返した。
「オスカー様、ちょっと」
 言いざまヴィクトールに肘を取られて振り返る。
「何だ?」
「こどもだけで火を扱わせるのはどうかと思いますが」
 オスカーは瞬きをいくつか繰り返した。
「……そいつは考え方の違いだな」
 育った文化に根差す考え方の違いだ。
 異質なものとの摩擦には慣れている。自分たち守護聖はいつもそれで大騒ぎしているのだから。
 今日のところは折れよう、と思う。大事な話に行き着く前に諍いなどご免だ。
「ただ見張っているのもつまらんな。俺も台所から何か調達してこよう」
 あからさまに安堵の笑みを溢すヴィクトールの背を、待っていろとひとつ叩いて離れる。
 野菜や果物の類を両手に抱えて戻ると、ヴィクトールは少年と笑い転げていた。
 世話好きで子供好きな奴だと、ずっと以前から年少者への態度を見て思ってはいた。こいつはきっといい父親になる。きっと今に家庭をもって俺のいいひとではなくなる。そうなるだろうし、そうなるべきだとも思う。
 ……後味の悪い別れ方はしたくないものだ。ある日忍んで行ったら愛を失っていて、皮肉のひとつふたつぶつけて去るなんてのはかっこ悪すぎる。
「おい、これも一緒に焼いてくれ」
 ヴィクトールは口をあけてオスカーを見上げた。
「……貴方は限度というものを知らない」
「これくらい食えるだろ」
「燃料のほうが足りませんよ」
 本末転倒だとごちながらヴィクトールは立ち上がった。
 交代で枯葉を集めて回るうち、オスカーの庭はすっかり綺麗になった。落ちかかる木の葉一枚ないまでに。だが、秋は依然としてそこにある。
 腹を満たし火を消したところでヴィクトールが聞いた。
「今日は、何か俺に用があったのでは」
「あ……ああ」
 気づいていたのか、と思う。
 どこまでバレているんだろう。
「ちょっと出かけようぜ」
 オスカーは服についた煤を払いながら誘った。
 忘れたつもりで忘れられず、消そうとして消せなかった火がある。口付けにあんまり簡単に答えてくれたから、自分を受け止めてくれる逞しい腕に甘えてしまった。また曖昧にしたまま別れたら、どうなるのか少し自信がない。この俺が、恋心をとめる自信が。
 今のうちに手酷く振ってくれと頼んで叶えてくれるような相手ではなかった。誠実で不器用な努力はしてくれるかもしれなかったが。ならば自分がけじめをつけるべきだ。心の強さとは、感情を抑制できることに他ならない。
「ええ、いいですね」
 ヴィクトールはごく自然に頷いた。
 約束の地、天使の広場、日向の道、太陽の公園。
 話を切り出しあぐねて歩き回る大陸はどこも秋の装いだ。
「まずいな、一周してしまいそうな勢いだ」
 健脚なヴィクトールは見納めになるかもしれないのだからこんな休日も悪くないと笑ってくれたが、行き会ったルヴァに揶揄するでもなく「競歩大会ですか〜?」などと聞かれるに至ってオスカーは大いにへこんだ。デートなんだと言い返せたら苦労はない。
「……ここで最後にしよう」
 オスカーは浮島への階段に足をかけた。
 日はすでに既に暮れかけていた。高台とあって風はいっそう冷たい。湖ごしに街が遠望できる。残照に煌めく屋根が目にも綾だった。
 時は満ちたと、家々の灯が告げているかのようだ。
「育成が間に合って良かった」
 この美しい光景はそういうことだ。
 良かったと心から思う。
 この男と別れるくらいなら、世界を道ずれにしても心中したいなんてわけじゃない。人生は愛だけで構成されてはいない。さよならには慣れているはずだった。それはもう、嫌というほど。
「ええ、これで元の世界に戻れますね」
 無意味に連れまわされた半日の後で、まだ笑みを含んで自分の横顔を見ている視線を感じる。
 リミットが今より長くなくて良かったぜ、とオスカーは自分に言い聞かせた。でなければこの恋人は、自分を甘やかせてスポイルしてしまったに違いない。
「ああ。それで考えたんだがな、ヴィクトール」
 オスカーは隣を振り返った。
「はい?」
 なんでもない顔を全力でつくる。
「俺に遠恋は無理だと思う」
「はは」
 ヴィクトールは笑い声を立てた。
「何だよ」
 こっちは大真面目だってのに、とオスカーはむくれた。
「……遠恋なんてもんじゃないでしょうが」
 二度と会える目途もない、と急に声が低くなった。
 オスカーは唇を引き結んだ。
 会いに行こうと思えば、それだけなら可能だ。
 だが逢瀬のたびに地上では何年が過ぎるだろう。
 時が人を変え愛を壊していくのを止める術などない。
 そんな馬鹿みたいな失敗ならもう済ませた。同じ過ちを繰り返す気は断じてない。
「あんたもいい歳なんだしな。俺のせいで人生を棒に振ることはない。ちゃんと可愛い嫁さん見つけろよ」
 オスカーはしいて明るく言って男の肩を叩いた。
 ヴィクトールは一度ぐっと眉間に皺を寄せたが、ゆっくりとその表情を解いた。
「そうですね、努力します。今じゃ貴方の持論も分かりますからね」
「ん?」
「誰かを愛することは人を強くすると」
 そうか、とオスカーは頷いた。
 ヴィクトールは柔らかい口調で続けた。
「俺も貴方が運命の女性を捕まえられるよう祈っていますよ」
 オスカーはにやりとした。
 親密になる前、漁色を責められてそんな話をしたこともあった。夜毎の遊興はひたすらにどこかにいる誰かを探しているのだと。
「心配御無用。出会ったらその瞬間に捕まえるさ。俺はその道のエキスパートだぜ。だけど……」
 口ごもったオスカーをヴィクトールが怪訝そうな目で見た。
 自信たっぷりの笑顔ははにかみになった。
「分かってるか。運命の男はあんただったんだぜ」
 ヴィクトールは一瞬あっけに取られた。
「意地が悪いお人だ」
と、口の端をあげた。
「何がだ」
 ヴィクトールはオスカーの頬に右手を添えた。逃げる様子がないのを見て左手で腰を抱き寄せた。
「そんなことを言われたら止まらない」
 オスカーはヴィクトールの肩に腕を絡めた。
 二人は唇に唇を重ね、キスにキスを重ねた。
 彼らの頭上、一番星が光り始めた。


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