月光

 隣に眠っていた人がのそりと起き上がる気配で目が覚めた。
 床に直接敷いたマットに雑魚寝の彼等は、今夜ばかりは他意なしに寝具を共有している。
 ヴィクトールは薄目にそちらを見上げた。
 深更、月は中天にさしかかっている。
 その薄明かりのなかに、茫然と手元を見下ろしているオスカーがいた。
 影になってしかとは表情が分からない。
 ぴくりとも動かない。
 いくら待っても。
「……冷えませんか」
 ヴィクトールは小声で聞いた。
「ん?」
 視線に気付いてはいたのだろうか、気遣いしたほど驚いた風もなくオスカーは振り返った。
「この辺りは、夜は気温が下がるとか」
 伝聞の形で語尾をぼかしたが、本当に誰かしら地元の人間から聞いたのか、自分で地形から当たりをつけたのか、夜半の寝惚けた頭では思い出せなかった。
 この地へ着いたばかりの頃、半円を地に伏せた形の家が故郷に似ていて懐かしいとどこかはしゃいでいたオスカーを、可愛いと心の中でだけ思ったことが脳裏を過ぎった。
 昼間からそんなことを言おうものなら、鉄拳が飛んでくるに決まっていた。
「ああ、すまん」
 オスカーはどことなく慣れた仕草で、外気が入らないように掛け布団をなおした。
 自然彼自身の上からは掛け布が落ちる。
「そうじゃないでしょうが!」
 ヴィクトールは跳ね起き、組み敷くようにオスカーを布団の中に引きずりこんだ。
「おいっ」
 抱き込んだ体はやはり冷たくなっている。
 両腕の動きを封じられたオスカーは、それでも諦め悪く身をよじって抵抗した。が、上をとってヴィクトールが競り負けるはずもない。
「……あまり暴れると皆を起こしてしまいますよ」
「誰のせいだばかやろう」
 ヴィクトールは宥めるように額にキスを落とした。
 間近に寄ると、サークレットの跡が微かに日に焼け残っているのが見えた。
「く……っ」
 オスカーは扼された腕を体の内側からかちあげ、加減しながら顎に拳を食らわせた。大きく開かせた咽喉を甘く噛む。
 ヴィクトールは唾を飲んだ。その咽喉仏の起伏を舌が追う。身を起こそうとすると項を掴まれた。せがまれるままに唇を合わせる。物音を立てないように、息を殺して、ゆっくりと口腔を味わう。
「ふ…」
 オスカーの甘い息が鼻に抜けた。
 四肢から力が抜けたのを見取って、ヴィクトールはブランケットを直した。抗うように伸ばされた手が彼の二の腕をつかんだ。オスカーが薄く唇を開けた。言葉は暫く出てこなかった。
「俺はずっと、こんな幸福を懼れていたのに、今の今まで忘れていた」
 呟きを耳に留めてヴィクトールは動きを止めた。
「え?」
 オスカーは目元を掌で覆っていた。
「本心を認めて楽しみに耽ったら、あとは別れが待っているだけだ」
「……」
「大した自信家だろう、俺は」
 オスカーは含みのある声で笑った。
 振られるのが怖いなどとは意地でも言うか、というわけだ。
 ヴィクトールには理解しかねるところだ。
「はは」
 彼は乾いた笑いを洩らした。
 幸福の恐ろしさだけが理解できる。
 ――先頃、事の全貌が明らかになったので。
 ひどく落ち込んだ人もいたが、作戦の目処はついた。
 征討か、あるいは敗死によって旅は終わるだろう。
 幸福な日々のすべて、愛の行為のすべてが終焉への道程だ。
 鼓動のすべてが破局までのカウントダウンだ。
 オスカーが静かに顎をあげた。硬く鍛えられた掌を宙に浮かせて、薄蒼い双眸が窓の外を見上げている。
「月が綺麗だな」
 ヴィクトールは背後を顧みはしなかった。
 恋人の眼差しの中にそれを幻視した。
「……ええ」
 月は美しい。
 口付は甘い。
 旅は、明日も続く。


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