HUMAN EVENTS

 それはなんでもない午後だった。
 ざわめきの中にある天使の広場。
 オスカーは呼び止められてカフェテラスに分け入った。
 幾人かでテーブルを囲んでいるうち、歓談がふとした流れで真面目な話になった。
 その中に、年上の恋人がいた。
「実際の被害より、人心が不安定になることの方が気がかりです」
「ああ、俺たちは闖入者なわけだし、信用してもらわなければ動きにくくなるだろうな」
 定期パトロールや自警団の組織教育の必要性で話が一致したまでは良かった。
 2人きりのときの自分を甘やかしてくれる懐の広い恋人もむろん好もしいものだが、共に問題解決に挑むというのはまた格別の味わいだった。厳しい眼差し、凛々しい横顔。俺が惚れたのはこんなにイイ男だぞと、浮き立つような気分になる。
 俺のことも惚れ直してもらわないとなとオスカーは意気込んで――失念していた。
 手分けして働くというのはすれ違うということで、2人きりで会う時間は劇的に減った。
 リミットは目前。2週間も会えなければもうたくさんだ。
 ようやく世情が落ち着いてきた日の曜日、オスカーは逸る心を抑えてヴィクトールの館へ向った。
 呼び鈴を押したとたんドアは勢いよく開けられて、そのあまりのタイミングに嫌な感じはしたのだ。
「オスカー様……どういったご用件ですか」
 一歩でも外に出たら硬い態度を崩せないヤツなのだと知っていたが、これは結構こたえた。
「おい、随分なごあいさつじゃないか」
「ああ、申し訳ありません。ちょうど出かけるところだったもので。その、アンジェリークと約束が」
 ヴィクトールは心から申し訳なさそうに説明した。
 こいつは悪気があるんだかないんだか分からないぜ、とオスカーは時々思う。なにも真っ正直に言うことはないんだ。
 オスカーはふーーっと溜息をついた。
「わかった、帰る」
「オスカー様!」
「先約があるんじゃ仕方ないだろう。また近いうちにな」
 背を向けながらかるく頭を廻らせ、片手を上げる。別に怒っちゃいないぜと伝えたかったが愛想笑いもでなかった。
 だがそうだ、仕方がない。
 1日空く確信がなくて予約は入れなかった。
 可愛い教え子の誘いを断れるような奴じゃない。
 それに――そうだ、あいつが女性に惹かれたって仕方がない。
 ちいさくてやわらかくて甘い匂いのする女の子たち。あたたかくてやさしくて美しい淑女たち。彼女たちはふわふわした幸福の心地に連れて行ってくれる。自分たちの中の善なるものを信じさせてくれる。
 ああそうさ、そんなことはよく知ってる。きっと俺の方がよく知ってる。
 だけど俺は真っ先にお前に会いに行ったんだぜ?
 オスカーはもう一度だけ、肺の底から溜息をついた。
 何だか一気に馬鹿馬鹿しくなった。
 ぽっかりと空いた休日。さみしくて、差し出された手を取った。


 アルコールの入った体で深夜の道をたどるのは馴染みのある心地よさだったが、玄関ホールの花台に浅く腰掛けた男を見たとたん、その気分は吹き飛んだ。
「……ヴィクトール」
 男は立ち上がり、彼のほうを向いた。
「こんばんは、オスカー様」
「あ、ああ」
 オスカーは扉を閉めた。夜風が絶えた。
 戸口に突っ立っているわけにもいかず、近づいていく。
「部屋に入ってても良かったんだぜ。客間でも俺の私室でも」
 ヴィクトールは己が身に纏ったうつり香に気付くだろうと思い、その通りになった。
「どこに、いらしたのですか」
 いかにもな軍人の眉間に皺がよると、本気で怖いくらい険しい顔になる。
 オスカーは圧されてなるものかと肩をそびやかした。
「飲みに行っちゃ悪いか。お前だって他所で遊んでたんだろう」
 上着を脱いでさっさと奥へ入って行く。
「俺は課外授業のようなものでしたが」
 あなたはどうだか、とはからかい混じり言外に響かせた。
「課外授業、ね。やらしい響き」
 オスカーは大きくドアを開け放ってベッドに身を投げ出した。
「何だって?」
 ぴたりと戸を閉ざしてから、ヴィクトールは振り返った。
「デートって言えよ。その方がよっぽどマシだ」
 オスカーは上半身を起こし、彼を睨み上げた。
「一体何を言うんだ。俺は彼女の倍も歳を食ってるんだぞ」
 その胸元を掴んだ。
「ダブルスコアがどうした。俺もいつかそうやって切り捨てられるのか」 
「話をそらすな」
 部屋に入ってから砕け始めた言葉遣いでぴしりとやって、噛み付くような口付け。追い詰めるように舌が動く。
 オスカーは濡れた唇を舐めて男を見上げた。 
「……お前は俺が言っても信じないかもしれないが、俺だって最後までやっちゃいないぞ」
「信用しますよ」
 含み笑いしながら男は大きな手で彼の下腹部をなで上げた。
「――この反応じゃあな?」
「くそッ」
 照れ隠しの面罵をヴィクトールは笑って見ていた。だがその笑みには怒りが含まれていた。愛撫は性急で荒かった。怒りが男の欲望を硬くしていた。
 オスカーはぞくぞくした。眼の色が変わったヴィクトールも魅力的だった。危機感と興奮の見分けもつかなくなる。
 だがそれは、多分危機の方だった。
「あ……んうっ」
 押し開かれる痛みに身がすくんだ。普段どれだけ大切にいつくしまれ、丁寧に愛されているかはっきりと分かった。
 ヴィクトールはハンマーでも振るうかのように、力強く素早く、何度も打ち込んだ。オスカーはシーツを鷲掴みして男を凝視していた。絶頂の衝撃といったら、まるで――まるで迅雷のようだった。

 まぶたを刺し通す日差しにオスカーは正気づいた。
 ヴィクトールはデスクチェアに座っていた。近づいてくる眼が、なんだかまだいつもと違う。
 おはようを言いそびれたままぼんやりと見つめ返す。
「もう、懲りましたか?」
と、苦笑交じりにヴィクトールが言った。
 懲りたって何に?
 夜遊びや浮気に? 行為に? そうじゃない。
 自分に懲りただろうと、この男は言っている。
「……聖地の夜の帝王をなめんなよ」
 オスカーは片頬を吊り上げた。
「来いよ、ヴィクトール。今すぐお前が欲しい」
 ヴィクトールは呆れたように笑った。
「強がりもそこまで言えればご立派です」
 額に軽いキス。
 そうやっていなしてくれるのは、百も承知のオスカーだった。


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