あした愛は

 すでに通いなれたオスカーの館、執務室を見回して留守を確認したヴィクトールは私室へと向った。辺りに人気はなかったが、案内を乞うことは考えなかった。鍵がかかっていなければ開けて構わないと言われている。勝手知ったるなんとやら、とくすぐったく思いながら部屋に入ると、館主はソファに身体を投げ出して転寝の体勢だった。
「どうなさったんですか」
 オスカーは物憂げに訪問者を見上げた。
「風邪かな」
 言われてみれば少し鼻声になっている。
「あの霧は呪われてるんだと俺は思うね」
 夕べ、霧の晴れない地区の調査に出ると言っていたのを思い出した。そのまま朝まで戻らなかったのは、きっと途中で夜遊びに流れたのだとどこかで決めてかかっていたが。
「エルンストも同じことを言っていましたよ。2人してどうしたんです」
「らしくないって?」
 オスカーが口の端を吊り上げた。
「なんの口裏をあわせてるんですか」
 ヴィクトールは苦笑した。本来、怪力乱神を語る人間ではない。らしくないときは何か裏があるのだと思う。オスカーもエルンストもそれくらいぶれない人間だ。
「別に」
 オスカーは言いながら手を伸ばし、客の咽喉元を掴んでぐいと引き寄せた。吸い込まれそうな蒼い目と視線があって、何をせんとしているのか分かった。ヴィクトールは相手の側頭に手を添えた。小さく撫でるように動かした。
「駄目ですよ。風邪ひいてるんでしょう」
「うつしやしない」
 オスカーは嫣然とし、唇を外してキスした。
「熱っぽいじゃないですか」
 ヴィクトールは顔を顰めた。甘い鼓動を知られてはならない。制止するのだったら。
「こんなのなんでもないさ」
 言いながらオスカーは身を起こした。窓からの光が美しいシルエットを床に落とした。
「次にいつ会えるともしれないんだぜ」
 歯の浮くような口説き文句は流石にあまり聞かない。しかし時を惜しんで愛を囁く習性は、オスカーの生活の核心に根ざしているらしかった。
 ヴィクトールは肩ををすくめた。
「しょっちゅう行き来してるじゃないですか」
「それがいつまで続くと思ってる!」
 オスカーはいきりたった。
「ほら、大人しく休んでいてください」
 もって約ふた月、と心の中で答えながらヴィクトールはオスカーの肩に手をかけ、ソファに押し返した。終わりはいつだってある。これは特殊なケースではない、と信じようとした。あした愛は冷めるかもしれないし、死が2人を分かつかもしれない。どんな恋人たちにも起こる事だ。
「なるほどお前は精神の教官で、抑制の効く大人で、そうやって軽々と我慢ができるって訳だ。俺だけが馬鹿みたいにサカってると言いたいのか」
「オスカー様、そういう」
「ヴィクトール……」
 伸ばされた指先が頬に触れる。親指の腹で唇をなぞる。ヴィクトールは硬く身構えた。
「挑発しないで下さいますか」
 オスカーは双眸を眇めた。怒りを見極めたというようにひとつ肯き、小さく呟いた。
「じゃあ、ぎゅっとしてくれ」
 抱いてくれと言って誤解されるのを避けるために子供っぽい言葉を選んだのは分かった。それでもめずらしい甘え方だ、とヴィクトールは思った。臥せったままの男に覆いかぶさるように腕を回した。微熱を宿した身体、確かな重みのある筋肉、いとおしさがこみ上げて指先に力が篭もった。オスカーの腕が背中に回る。頬擦りするように身体を寄せてくる。肩にかけられた体重が偏ったと思ったときには、すでにオスカーが上にいた。
「おっと」
 悪戯っぽく瞳を輝かせて。
「オスカー様!」
 ヴィクトールは咎めるように名を呼んだ。呆れをこめて溜息をついた。
「元気ですね…」
「だからそう言ってるだろう」
 しらじらとオスカーが答えた。見下ろす瞳が熱っぽい。胸板を押さえつける掌も熱い。硬く張り詰めている欲望が分かる。
「どうあっても抱いてくれないんだったら、俺があんたを抱いちまうぞ」
「冗談でしょう?」
 ヴィクトールはこどもの戯言に反応する時のように、眉を吊り上げた。
「もう遅い」
 オスカーが上体を倒し、耳元で囁いた。そして、確かに逃げるには遅かった。
 ――あるいは、まだ早い。まだ愛は灼熱している。


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