光の速度で

「驚いたな……すっかり生活の用が整っている」
 それにこの広さは何事だ。
 与えられた館を散策しながら、ヴィクトールは感に堪えないというようにため息をついた。
「女王陛下のお力は偉大だ」
と、オスカーが誇らしげに言った。
「それ、思考停止ですよ」
 ヴィクトールはつい苦笑してしまった。
 オスカーはむっとして、階段を上り2階を一周する間、ずっと黙っていた。
 子供っぽさを笑われるのには慣れた。逆を返せば許されているということだ。
 テラスでコーヒーを出される頃になってようやく機嫌を直す。
「それにしても、よく都合がついたな」
 ヴィクトールはカップの縁ごしに相手を一瞥した。
「聖地の威光は絶大ですから」
 研究院との専用回線、エルンスト経由でランディから呼び出されたと思ったら、3分後には全ての業務から締め出されていた。
「それでも少し遅ければ訓練飛行中でしたから、行き違いにならなくて良かった」
「新しい訓練を?」
「ええ」
「相変わらず仕事熱心だ」
 オスカーは破顔した。笑みはすぐに引いた。ヴィクトールの気質は知っているが、実際の本職での仕事振りは知らないことに気付いた。
 ヴィクトールには自分の知らない外での生活が、人生がある。
「あんた、今いくつだ」
と、彼は時の干渉を受けていない瑞々しい姿で言った。
 もっとも外でどれだけの時が経ったか、彼は知っているはずだった。セイランに年上ぶるなと牽制されているのを、ヴィクトールは見かけたことがあった。僕らは同い年になってしまいましたよ、と元同僚は笑っていた。表面だけは実に愉快そうに。
「34になりました」
 どうしてわざわざ言わせるのだ、とヴィクトールは苦く答えた。
「結婚は」
 オスカーはゆっくりと瞬きした。
「もうしたか」
「まさか」
 ヴィクトールは慌てて両手を降った。
「おい、なんでまさかなんだ」
 オスカーは眉間に深く皺を刻んだ。
 地位と年齢と社会通念は彼に娶ることを要求するのではないか。それに、厳しい任務の後で羽を休める暖かい家庭を望んだことは?
 俺のことは忘れてくれと言ったら、やんわりと断られたのを思い出した。その時の優しい慈しむような眼差しを思い出した。幸福感と後ろめたさが表裏一体となってやってきた。
「……まさかとは思うが、俺のせいじゃないよな?」
 ヴィクトールは乾いた笑みをもらした。
「俺は貴方があれから何十人の恋人を持ったか、ちゃんと想像できていると思いますよ」
 何十人は言いすぎだろう、とオスカーは拗ねた。
 じゃあ十何人、と言葉をひっくり返されて、しぶしぶ首を縦に振った。
 ヴィクトールは背を丸め、ひとしきりくつくつと笑った。おい、とオスカーが声を荒げた。こういうのを逆ギレというのだ、とかつて女子高生に吹き込まれた語彙で思いながらヴィクトールは話を戻した。
「派遣軍で高速機動艦隊をつくろうという話が持ち上がってるんです。貴方のところへも報告が上がったかもしれませんが」
「ああ、そういえばあったな」
 ヴィクトールはゆったりと目を細めた。
「リップ・ヴァン・ウィンクル効果のことはご存知ですか」
 オスカーは知っていた。無言のまま顔色が変わった。
 亜光速で移動する宇宙船の中では、時間の流れが緩やかになる。あたかも聖地がそうであるように。
「いつか貴方と、外で会えるかもしれませんね?」
「馬鹿を言うな!」
 ほとんど激昂の声音だった。ヴィクトールは曖昧に笑って片手を振った。
「ああ、それこそ貴方が結婚したって恨みやしませんよ。それでもたまには遊んでくれるでしょう?」
「……遊びでいいのか?」
 オスカーは猜疑の目を向けた。
「何の話をしてるんですか! 俺が言ってるのは、一緒に酒を飲んだり、登山とか釣りとか」
 ヴィクトールは段々としどろもどろになった。
「うんうん、そういう健全な」
 目の前には調子よく肯くオスカー。
「貴方本気で聞き返したでしょう」
 脱力と怒りの衝動に引き裂かれた間隙に、かなしみが滑り込んだ。
「気持ちは嬉しいさ。だけど間に合う目算はない」
 俺のためなら馬鹿な真似はするもんじゃないぜ、とオスカーは嘯いた。まるで気ままで身勝手な恋人を演じているかのようだ、とヴィクトールは思う。
 そうだ、またこうして恋人の甘い微笑を向けてもらえるとは思わなかった。
「こんな偶然が俺たちを引き寄せることがなくなるなんて残念だ」
 オスカーはいつの間にか椅子の位置を寄せていた。
「俺がどこにいたって、女王府がその気になればどうにでもなりそうな気もしますけどね」
 ヴィクトールは呟いて首を振った。
「しかし貴方には、今現在の方が大切という訳だ」
 オスカーは現実と折り合いをつけることの出来る強い男だ。だから期待を未来につなぐことなどしない。――だが本当に?
「そうだ」
と、オスカーは肯く。両腕を伸ばす。肩抱いて唇を重ねる。その口付けもかなしい。
 ヴィクトールはオスカーの形良くとがった顎に指を添わせた。
 知っている、かなしみから逃げる術はない。
 どこへ行ったって、かなしみは光の速度で追いついてくる。


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