まず幻覚だと確信し、こういうのを逃げ水って言うんだよなとくさし合いながら目指したオアシスに、どうしたことかちゃんとたどり着けてしまった。
木々の間には池が広がっていた。人の気配の絶えた中に、鳥のさえずりが楽の音のように降ってきた。
ヴィクトールは拍子抜けして立ち尽くした。幸運を信じられないのは習い性だった。
「すごーい、水浴びしていい?」
聞きながら駆け出そうとしたメルをオスカーが引き止めた。
「こういう時はレディファーストだ。こどもだからって覗くんじゃないぜ?」
「え、そんな私」
「メルこどもじゃないもん!」
ヴィクトールは騒がしいやり取りを聞くうち我に返って、水質の確認にかかった。
「よし、飲んでも入っても大丈夫だぞ」
「わーい」
はしゃぐ声を真横に聞きながら手袋を外して掬い取り、冷たい水を味わう。
身構えているときには足をすくわれない。何でもない瞬間、急に思い出す。
厳しいミッションやトレーニングの、酷暑と渇きの後であおる水の旨さ。
それを二度と味わう事のないやつらもいるのだと。
「水筒、貸してください」
中の微温湯と清水を手際よく全て詰め替えて、立ち上がる。
「あの、私は後でいいですから」
「覗かないから」
遠慮するアンジェリークに、真顔のオスカーが駄目押しをする。
「おめーが一番信用ねぇよ」
と、ゼフェルが吐き捨てた。
「なんだと」
ばちばちと視線をぶつけ合う青年たちの間から、彼女はさっと身を引いた。
「お言葉に甘えて行ってきまーす」
ほどなく戻ってきたアンジェリークを、オスカーは目を細めて迎えた。
「濡れ髪がセクシーだぜ」
呼吸をするように女性に甘い言葉をかけて回る。こうでなくてはオスカーではないのだろうが、奇妙な気もする。
他愛ないじゃれあいに妬くほど若くはない。それともただ――幸福を信じていないだけなのか。
ヴィクトールは知らず苦笑の浮かんだ頬に指の節を当てた。
「てめーがそれだからアンジェは濡れるの嫌がったんだよ!」
と、ゼフェルが吼え立てた。
「な?」
アンジェリークは笑って誤魔化した。
「あんまし離れんじゃねーぞ」
入れ替わりに水場に近付きながら、ゼフェルが彼女に人差し指を突きつけて言った。
ヴィクトールは水辺の岩に浅く腰を下ろして哨戒の体勢をとった。
無人なのが、住人がモンスターと化した為ならば危険だったが、建物は影もない。生活の拠点とするには小さく、位置も悪い。あとはこれ自体が何かの罠だという可能性だ。
「代わろう」
水を滴らせたオスカーが膝まで裾を折ったズボンだけを穿いてそばに立った。
見張りをすると言ったわけではないのにお見通しだ。
「すみません」
立ち上がりながら、視線が裸の上半身をなぞった。
精悍に鍛えられた身体、筋肉の隆起、水を弾く滑らかな肌。
白昼眺めたことがあったろうか。あったはずだった。目を伏せ、逸らしてやり過ごした日々が。
オスカーがにっと唇をつりあげて囁いた。
「大丈夫だ、痕はついてないぞ」
「そんなことは考えてません!」
「じゃあ何だ、見惚れたか?」
「あっ」
ヴィクトールは笑って目の前を通り過ぎようとしたオスカーの手首を掴んだ。上腕に細い傷が走り、周囲が赤くなっている。
「またほったらかしにしてますね」
思わず舌打まじりになった。
「この程度、放っておいても治る」
オスカーはぞんざいに答えて腕を引き戻した。ヴィクトールは相手にしなかった。
「メル、ちょっと手を貸してくれ」
「はーい」
とことことメルがやって来るとオスカーは素直に腰を下ろした。メルは手早く回復魔法で傷を消し去った。悪いな、と炎の守護聖は笑顔で少年の頭を撫でた。
それからメルが充分離れるを確かめ、
「別にいいのに」
ぼそりといった。
無言のまま怒りを帯びた顔を覗き見て、オスカーは口角を下げた。
「だって魔法がもったいないじゃないか」
立膝に肘、手の平に顎を重ねて物思わしげに溜息をつく。
「贅沢には慣れてるつもりだったんだがなあ。どうも俺は貧乏性らしい」
ヴィクトールはぷっと吹き出した。
「似合いませんよ」
聖地では王侯貴族のような生活を平然と着こなす人だった。あそこがこの方の本当の居場所だ、と当然のように思っている。
オスカーの機嫌が傾いていくのを見取って、何か言おうとしたのを遮った。
「なによりお身体が大事です」
ヴィクトールは腫れの引いた腕にかすかに触れた。
「ほんとは俺が魔法をかけて差し上げたいくらいなんですがね」
戦闘に注力していると、すぐ底をつく。
「かけてくれてるじゃないか」
オスカーはふっと笑って顔を寄せた。
「あんたはいつも、俺に恋の魔法をかけてる」
柔らかく下弦の月を浮かび上がらせる唇が艶やかに誘っていた。
「オスカー様……」
陶然と名を呼んだ後で、ヴィクトールははっと我に返り、
「TPOを考えましょう」
顰めつらしく言った。
「じゃあ今夜」
オスカーは笑いを噛み殺していた。
「……はい」
どんな幸福も許されるはずがない、と暗く考えるのは止めた。
戦場に戻ろうと決めたのは彼と出会ったからだった。
美しい軍神の姿をとった夢に、もう少しだけ触れていたい。
心癒すオアシスに、長い間は留まらないから。
外は、灼熱の砂漠だ。