地の栄光

「あれっ、オスカー様だー」
 そろりと這い出した裏庭、夕暮れの風を浴びていたオスカーの背をボーイソプラノが打った。
「よう。どうした、慌てて」
「チュピを探しに…」
 言う肩先に青い鳥は舞い降りて、マルセルはオスカーに向き直り、歩み寄った。
「もう起きて良いんですか?」
「ああ、そういえば、マルセルがなおしてくれたんだってな」
 オスカーは直接質問には答えなかった。
「ありがとう、助かった」
 マルセルはことんと首をかしげた。
「……それだけ?」
 オスカーは噴き出した。
「なんだ、こいつめ。ご褒美にチェリーパイか?プリンか?」
「違うよ!」
 マルセルは大きな声と身振りで答えた。
「ちぇっ、褒めてくれるかと思ったのに」
と、膨れて言い、オスカーは少年の中で何と賞賛が同一視されているのかを悟った。無言のままぬっと腕を伸ばした。
 長い指がハニーブロンドにもぐり、ぐしゃぐしゃにかき混ぜながら頭をなでる。
「もういい! もういいですって!」
「そうか?」
 オスカーは何食わぬ顔で手を引っ込めた。
「本当に感謝してるんだぜ」
 本当に感謝しているからこそ子供扱いした態度は控えたのだと、伝わらなかった気持ちをかみ潰した。
 強いて求めずとも、旅の中で少年は大人に近づいていく。

「まぁ、オスカー様」
 マルセルと連れだって表玄関から戻ったオスカーを、アンジェリークが声上げて迎えた。
「お元気そうで安心しました」
 少女はにっこりと笑ってから、足元に目を遣る。
「うん? 何か落ちてるか」
「いいえ、嘘みたいにお元気だから、幽霊じゃないかしらと思って」
「ひどいな、この俺がかわいいお嬢ちゃんをおいて死ねるわけないだろ」
 アンジェリークが大真面目に言い、オスカーはちょっと情けない顔になりつつ反論した。
「で、何してるんだ?」
 と、抱え込んだ手帳を指す。
「あたりの探索に行ってみようと思って、パーティの編成中なんです。ゼフェル様に、エルンストさんに、メルさんと――あとお1人お願いしたら終わりだわ」
「お嬢ちゃん」
 オスカーは少女の肩に手を置いた。
「俺に、汚名返上のチャンスをくれる気はないか」
「オスカー様!」
 アンジェリークは目を見開いた。
「いくらなんでも、まだ休んでなくちゃ。みんなどれだけ心配したと思っておられるんですか」
「それについちゃ面目ないと思ってるが」
 が、という逆接の後を彼女は奪った。
「駄目です」
「……お嬢ちゃんは俺に愛想をつかしてしまったってわけか。君のためなら身も心も捧げつくそうというこの哀れな騎士に、かける情けはないのか」
 オスカーはじっと目を見つめたまま、片膝をついた。微かに眉を寄せた表情。横顔を夕陽が照りつけて、陰影を濃くする。
「オスカー様が大切な方だからじっとしてて下さいって言ってることくらい、分かって下さらなきゃ」
 アンジェリークはひとつ息を吸って、さらりと返した。
「この手も通じないか…。さすが女王になるだけあるぜ、お嬢ちゃん」
「ありがとうございます」
 ふふ、とアンジェリークは微笑んだ。
 オスカーは立ち上がり、膝の埃を払った。
「しかし、攻撃力を増強した方がいいのは事実だろう。アリオスかヴィクトールのところに行ったらどうだ?」
「そうですね、そうします」
 ありがとうございます、と一礼して擦違いに出て行く彼女にオスカーは手を振った。
 少女が頭を転じるのを確認するとふっと力が抜けた。
「気をつけてね!」
 数歩先まで送りに出たマルセルが、アンジェリークが行ってしまったのを見て振り返り、戸口に寄りかった彼をちらりと見た。オスカーは慌てて背を浮かせた。
「じゃ、またな」

 寝っぱなしも性に合わないが、まだ調子が出ないのも確かだった。
 日が落ちてしばらくしてオスカーは部屋に引き揚げた。
 横になっていると、ヴィクトールが入ってきた。手にしていたバスタオルを窓際にかけて、ベッドを覗き込んだ。
「お加減は如何ですか?」
 無理して格好をつけるから、と眼が言っている。
 ふん、とオスカーは鼻を鳴らした。それから、バスタオルとヴィクトールを交互に見た。はっと気付いた。
「そうか、同室だったんだな。迷惑をかけた」
「とんでもない」
と、ヴィクトールが笑う。その口元が好きだ、とオスカーは思う。何かを噛み締めるように――人の世の悲喜を噛み締めるように、かるく力の入った頤が美しい。
 彼が隣のベッドに腰掛けたので、オスカーはシーツの上に起き上がった。
 起きなくて良いのに、と言いたげな苦笑がヴィクトールの頬をよぎった。
 オスカーはわざとらしく顔を背けた。格好つけの自覚はある。身に不相応な昇進をしたと気にしていたお前、好きなものを訊かれて豆の缶詰と答えるようなお前、栄光への愛からも醒めたお前の目に、俺はどれだけ愚かしく映ることだろう。
「アリオスを推薦したそうですね。アンジェリークが喜んでいましたよ。気にしていたほど仲がお悪い訳ではないのだと」
「悪いさ」
とオスカーは困ったような顔で言い返した。
「だけどお前を連れて行けと言ったんじゃ押し付けがましいし、ヤツを避けているのも露骨だし、お前だって疲れているだろうから」
「何の話です?」
 ヴィクトールは話の飛躍に軽く顔を顰めた。
「何だ、聞いてないのか」
 オスカーはにやりとした。
「俺はお前かアリオスを連れて行けと言ったんだ」
 そう言えばどちらを選ぶか、予想できなかったと言ったら嘘になる。
「振られたもの同士仲良くするか!」
 サイドボードからボトルを取った。
「傷に障りますよ」
 ヴィクトールは立ってきて、酒瓶を取り上げた。手袋越しに指が触れ合った。オスカーは男を見上げた。この、自分を教導すべき年長者と見做している落ち着きに、どうも弱い。
「治ってるんだろう」
「大事を取ってください」
 言いながらヴィクトールは、もう言い負かされたような困り顔だった。
 オスカーは唇に笑みを刷いた。
「お前が慰めてくれるんならな」
 ヴィクトールは盛大に溜息をついた。
「オスカー様、あなたは」
「うん?」
 あなたという人は、という愚痴をオスカーは予測した。
「あなたは充分魅力的です」
 ヴィクトールは大真面目で続けた。眼差しも声音も真摯だった。
 常に強く洗練された男でありたいオスカーの、虚勢も虚栄も知っていてまともにぶつけられる言葉に彼は面食らった。
「いい男だし腕も立つし、地位名声にも恵まれていらっしゃる。それで分別と誠意さえあれば、誰があなたを喜ばないでしょうか」
 ここはズレを笑ってもいいものか、相手の顔を見てよくよく考えてから止めておくことにした。
「誠意はともかく分別か。難しいな」
 分別があれば恋なんかしない、とオスカーはくつくつ笑った。
「どうですかね」
と、信じていない風に合いの手を入れるヴィクトールは、多情を責めているらしかった。
「ま、努力はしよう」
 オスカーはこっくりとうなずいた。
「それなら、まずは休んでください」
 掛け布団を整えなおし、優しく肩を押す。オスカーはとっさに抗った拍子に、ヴィクトールの胸に抱え込まれる形になった。心臓が跳ね上がった。肩に置かれた手の温かさ、顔をうずめた胸の厚さにくらくらする。
「オスカー様?」
 オスカーはのろのろと顔を上げた。こいつが好きだ。好きだが、甘い言葉で誘ってベッドイン、旅の終わりには後腐れなくスマートにお別れなどという訳にはいかない。とてもじゃないがいきそうもない。
 無様な恋をしている。
 ――かくて地の栄光は去り行く。


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