We didn't start the FIRE 2

 小さなキャンディがポケットの底でころころと転がるのを感じながら、オスカーは人里離れた老人の小屋へと向っていた。紅葉の小道を歩いていると、後ろで声が上がった。
「あっ、オスカー様」
 足音に気付いてはいたから、彼は落ち着いて、甘い笑みを用意して振り返った。
「どうした、お嬢ちゃん」
 アンジェリークは笑顔では答えなかった。
「聞いて下さい、セイラン様ったらひどいんです。私の名前を陳腐だなんて!」
「何だと」
 オスカーは険しい顔になった。
 彼には相性よりも親密度よりも、物の考え方よりも優先される基準がある。女性であるか否か。
「そんなこと言ってないだろう」
 セイランはあからさまに面倒くさそうに肩をすくめて、反駁した。
「いいかい、人の親が娘によきもの美しいものの名を貰うのは一般的なことだ。それはロマンティシズムなんかじゃない。普遍的な祈りだ。人並みの愛情だ。それ以外の何だというんだ。僕はロマンチックだなんて皮相的な見方をするのは、陳腐だと言っただけだ」
 親元を遠く離れて過ごす少女は、じんと感じ入った表情で元教官を見上げた。セイランは、分かってくれたね、と微笑んだりはしなかった。
「だいたい、つれがいるのに目の前で素敵な名前だねなんて口説く奴が頭おかしいんじゃない? 僕は誰かさんを思い出して腹が立ってさあ」
「口説かれてなんかいません!」
「俺のはただレディに礼を尽くしているだけだぜ」
 にぎやかに言い合っているうち小屋についた。
 前庭に梯子や木の板が出され、少し様子が違うのは傷んだ屋根の補修をするためということだった。
「一宿一飯の恩ってヤツだな」
と、ゼフェルが鼻の頭を擦って梯子を登って行く。
 一宿どころではなく世話になっている家だ。オスカーは荷物を降ろして屋根に上がった。
「お帰りでしたか」
 ヴィクトールが視線だけを上げた。
「もう終わりますよ。中で」
 休んでいろとでも続けられそうな言葉を無視して、オスカーは彼の正面にしゃがみこんだ。余っている金鎚を拾いあげて、
「どうすりゃいいんだ?」
 いかにも興味津々と訊いた。ヴィクトールは苦笑して手順を示した。
「同じように向こうの端を打ち付けてください。それで最後です」
「分かった」
 傍からは簡単そうに見えたのがなかなか難しい。
 顔を上げて再び様子を伺えば、手馴れた仕種と集中した眼差しが眩しい。
 どきりとするのはこんなときだ。
 ヴィクトールには地に足着いたかっこよさがある。
 もしも同じ女性の愛を争ったら中にはこいつを選ぶひともいるんだろうなと、ものすごく認めたくないが、思うくらいだ。
 慎重に8本の釘を打ち終えて腰を上げると、機材を拾い集めながらそわそわとあたりを見回していたゼフェルが、足音を忍ばせて近寄って来た。
「なあ、オスカー、ちょっと頼みがあるんだけどよ」
と、声を潜める。
「何だ、言ってみろ」
 彼は気安く先を促した。
 宮殿で顔をあわせても小言をいうくらいのものだったが、ここ最近、経路や装備や作戦やで遠慮のない言い合いをしている内に、意外と反りは合うのが分かってきた。今も以前も生意気な少年だが、それだけに懐かれるのは楽しい。
「今度さ、リバータウンの外れの……に連れて行ってくれよ」
 聞き間違いかと思うような店の名だった。
「は…?」
 聞き返そうとして相手が真っ赤になっているのに気付いた。ということは、聞き間違いじゃない?
「オスカー様ッ!」
 足を滑らせた彼の前膊をヴィクトールがつかんだ。ぐいと力強く引き寄せられ、オスカーは息を飲んだ。足元のグリップを確かめてから男を見上げた。
「大丈夫ですか?」
 気遣わしげに覗きこむ鳶色の瞳がやさしい。
「すまん」
 ああ、くそ、まただ。どきどきする。
 いや違うぞ。こいつは屋根から落ちそうになったからだ。
「っぶねー」
 ゼフェルは脱力してその場に座り込んだ。
 オスカーはそろそろと縁から離れ、這い上がっていった。
「まったく、驚かせてくれるぜ。何だって急にそんなことを言い出すんだ」
 そりゃあ自分が17,8の頃は異性が気になって仕方なかったし、士官学校の高い塀を越えての娼家通いも知っていた。とは言え、ちょっとからかうたび真っ赤になってたお子様がどんな心境の変化だろう。好奇心が首をもたげた。
「だって聖地にはねぇだろ、ああいうとこ」
「お前、しょっちゅう抜け出してるじゃないか」
 もちろん人の事は言えた義理じゃない。
「そーゆー時は、メカの部品仕入れたりで忙しいんだよ!」
「……その程度の興味なら、強いて行くことはないんじゃないか?」
「んだよ、らしくねーこと言って」
 いつもは喜々として煽るくせに、とゼフェルはむくれた。それ以上口を割る気はないらしい。
 オスカーは肩をすくめた。
「悪いな、俺は今は禁欲中なんだ」
「嘘つけ」
 あまりの即答に本気でむっとしたのを、冗談に紛らわせてまだ細い首周りに左腕を巻きつけ、
「言わせておけばこいつめ」
 そのままくっと軽く締め上げる。
「うわ、待てって! マジで? 何でだよ」
「お前、茶断ちって知ってるか?」
 オスカーはまじまじと腕の中の相手を見た。
「知らねぇ」
 何だよ、とは少年の意地が聞かせない。
「ルヴァに教えてもらえ」
 疑いの眼差しをひとしきりあてた後、ゼフェルは立ち上がった。
「諦めたわけじゃねーからな」
 不穏な駄々を置き土産に、猫のようにするりと下へ降りていく。
 やれやれ、とオスカーは口の中で呟いた。
「女断ちとは、意外と真面目なんですね」
 ヴィクトールはくつくつと咽喉を鳴らしていた。
「俺はいつだって思いっきり真剣だが」
 オスカーは冷ややかなくらいの真顔で切り返す。
「失礼、貴方を見ていると、すべてを真剣に楽しんでいるような印象を受けますので」
 口では謝りながらヴィクトールは含み笑いしていた。
「……鋭いな」
 オスカーは首肯して梯階に足をかけた。地上に降りて、梯子を支えながら言葉を継ぐ。
「実を言うと楽しい。自分の力を試して、磨いて、そのたびに道が開けていくのがたまらない快感だ」
 だから禁欲は自分への歯止めだ。俺は痛切に反省すべきだし、もっと深刻に物事を受け止めるべきだ。女に飢えて、ときどき妙な錯覚を起こすとしても。
 ヴィクトールが降りて来るのを待って梯子を外し、倉庫に仕舞う。
「俺は実際に戦場で剣を振るったことなどほとんどないからな……俺にとっちゃ、あんたは初めての戦友なんだぜ」
 ヴィクトールは戸を締めながら莞爾とした。
「それは光栄ですね」
 オスカーはいわく言いがたい表情になって足を止めた。
 怪訝そうに振り返る男へ、いいから行け、と手を振った。
 大きく息をつく。屈託はそんなことでは消えない。
 奥歯で苦虫を噛み潰す。
 俺はあいつに憧れているなんて認めたくない。
 自分があいつに劣るなどとは考えたくないのだ。
 恋をしているなどと思うのは、だからだ。
 この胸の動悸に理由が欲しいだけだ。
 彼はやがて、ふ、と吐息を洩らすように笑った。
 なくなってしまうのが惜しくて食べられなかった最後のドロップをポケットから拾い出した。
 どうかしている自覚だけはある。
「……我ながらリリカルだぜ」
 琥珀色の粒は夕暮れの光を宿して微かにやさしくひかった。
 年上のあの男の目のように。


(We didn't start the fire,Billy Joel)


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