全てではない、と言うだけの話
「そうか、もう店じまいか」
積み上げられた木箱と旅行鞄とを目にして足を止めたオスカーは、君のうるわしい姿を見られなくなるとはさみしいことだと、聞き流されるのは承知の上で一通りの美辞麗句を吐いた後で、
「手伝おうか?」
と、聞いた。
「あらぁ、オスカー様といるところなんて見られたら、パスハがやきもちを焼いてしまいますわ」
火竜族の占い師は、ちょうど畳み終えた天幕を両手で抱きしめてくすくすと笑った。
「あの御仁のやきもちか。それはぞっとしないな」
彼は快活に答えながら荷物を抱え上げ、側の無蓋馬車に乗せてやった。
占い師は面映そうに目を細めた。不和を本気にされないことに満足しているような気配があった。
「結局手を借りてしまいましたわね。お礼ににわたくしも最後のひと働きいたしましょうか?」
占い道具をしゃらりと手に遊ばせて、サラが言う。
「いや」
オスカーは首を振った。
「もういいんだ」
言った後で、口を滑らせたとばかりに顔を背けた。
アーモンド形の大きな深紅の瞳で男を振り仰ぎ、じっと見た後で、占い師は頬に片手を当ててため息をついた。
「不思議でなりませんわ〜。わたくし新陛下とオスカー様は、愛し合う運命だと思っておりましたのに」
「否定はしないぜ」
炎の守護聖はふてぶてしくもにやりと笑った。
「しかし、愛だけじゃ世界は回らないからな」
彼女は使命と夢を選んだ。
己にしたって、天秤にかけた物はある。
力ずくで抱きしめて唇奪ってしまえば、あるいは跪いて情けを乞えば、手に入るかもしれないと思いながら、俺は彼女を、世界への生贄に捧げた。
かくしてこの平和がある。
「あら、それは間違っておりますわ!」
恐れ気もなく正す女をほとんど穏やかに見遣り、オスカーは無言で手を差し伸べた。それは強制力を持ったエスコートだった。サラはひらりとベールを宙に踊らせ、車上の人となった。
「愛や運命を甘く見るべきではありませんわ、オスカー様」
声はどこか遠くから響くかのようだった。馬車がまだそこに止まっているのが不思議なくらいに。一拍をおいて御者が鞭を振り上げた。軽やかな車輪の音が徐々に遠ざかる。追い立てたことなどなかったかのように、二人は名残惜しげに手を振り合う。やがて馬車は角を曲がって建物の影に入り、オスカーは手を下ろした。
今や正しい責務への応答があり、宇宙の調和がある。
まったき忠誠と汚れない信頼がある。
それは、全てではない。この心を埋める、全てではないが……到底足りないが。
悲しみによって証明される
「女王になるのが君の幸せ?」
野原に腹ばいになったまま花冠をかぶせてもらいながら、マルセルはロザリアを見上げた。
「ええ」
もう何度も繰り返された質問に、ロザリアは迷いもなく短く答えた。
「君を陛下と呼ばなきゃならなくなっても、君は僕のお姉さんだと思っていい?」
マルセルは指先で輪になったシロツメクサをなぞりながら訊いた。
きっと陛下は優しくて素敵な方なんだろうし、僕は勝手にみんなのお母さんみたいに思ってるんだけど、でも、なんていうか。わからなすぎて、おおきすぎて、ちょっと怖い。僕は君が女王になるのが怖いんだ。
「もちろんですわ、マルセル様」
笑う彼女はどんな花よりも綺麗で可愛い。
彼女は覚えているだろうか、と緑の守護聖は思う。
ロザリア、僕は、お嫁に行くお姉さんを見送るみたいな気分だったよ。
土の曜日の昼下がり、僕が花なり果物なり庭の収穫物を下げてプライベートエリアを訪ねるのを、アンジェリークがいつも大歓迎してくれるのは、陛下の気晴らしになるからだ、とマルセルは理解している。あるいは、気晴らしになってほしいから。
ロザリアはいつも少しさみしそうに微笑んで訪問者を迎える。
君、ずっと女王様になりたがってたでしょう? 僕、君はきっと何でも望みのものを手に入れて幸せになるんだと思ってたのに。どうしてそんなに浮かない顔をしてるの?
「わあっ、とっても可愛くて美味しそう!」
金の巻き毛の補佐官は、クロスグリでいっぱいの籠を受け取って声を上げた。
「明日はこれでマフィンをつくろうかな。マルセル様、もし都合が良かったら、みなさんをお誘いして遊びに来てくださいね!」
アンジェリークは朗らかに喋りながら客に席を勧め、飲み物とお茶請けを並べた。
「約束だよ、アンジェ。僕すっごく楽しみにしてるからね!」
「まっかせてください。お菓子作りの腕は補佐官の資格ですもんね」
ついでに本当かどうか分からないことを、力瘤のジャスチャー付きで自信満々に言ってくれる。それディア様にだまされてるんじゃ……と思いながらもマルセルは言葉を呑んだ。
「あら、それじゃ私が失格してしまったみたいだわ」
ぼんやりと紅茶を冷ましていた女王がこぼした。
「やだ、そんな意味じゃないのよ!」
「候補の頃に陛下がつくってくれたケーキも美味しかったよ!」
勢いよく返す言葉が重なった。ロザリアはまだ半分上の空のまま、しゅんとして手元に視線を落とした。
「まぁ……ごめんなさい。女王がこんな風に言ったら、誰だって否定しなくちゃならないわよね。駄目ね、まだ自覚が足りないみたい」
「……僕、ゼフェルだったら今でも遠慮なしにけなすと思うな」
マルセルはお菓子に手を伸ばしながら話を捻じ曲げた。だけど嘘はついてないんだから、ばれても謝らないよ、と心の中で同僚に言う。
「自覚が足りないなんて認めたら、ジュリアス様の雷も怖いわよ〜」
アンジェリークが薄手のカップから湯気を吹き飛ばしながらおどす。ロザリアは肩をすくめて苦笑いした。
「そうね。それはそれで有難いことだわ。それに貴方たちなら、きっと立場に関係なく慰めてくれたわね。私、とっても……」
マルセルは舌の上に乗ったクッキーを噛み砕くのも忘れて彼女を見た。
幸せね、と、言って。
お願い、ロザリア。
女王は濃藍の瞳を柔らかく細めた。
「恵まれているわね」
マルセルは俯いて残りのクッキーを口に押し込んだ。流し込むように飲む紅茶が苦い。
僕は、君みたいに賢くて冷静な女の子は、幸せになるものだと思ってた。
ロザリア、ロザリア、僕は君は、毎日笑って過ごしてくれると思ってたんだよ。
お姉さんがお嫁に行くときにいつもそう願うみたいに。
だけど君が認めなかった思いは ここに、悲しみによって証明されている。
「女王になるのが君の幸せ?」
「ええ」
「ほかには?」
ロザリアはくすぐったそうに笑った。
「チェリーパイにプリン、シャルロットポワールに苺のショートケーキ?」
ソシアルダンスにキャンドルディナー、愛の誓いにオスカー様?
「ほかのものはみんな霞んでしまうわ」
笑う彼女はどんな花よりも綺麗で可愛い。
ほら、世界が跪く
庭園は、宮殿の前庭と見紛うほどの距離にある。
何気なく窓の外へ向けた瞳が、ひどく懐かしいものになってしまった男の影を捉えた。
御前会議のたびに見ているのに、それでいてなお懐かしく慕わしい。
忠誠の仮面を外した、炎の守護聖。
時々癪なことは仰るけれど、とても男らしくて素敵な方だったので、ドキドキするのも憧れるのも当然のような気がしていた。誰だってそんな風になるのだろうと思っていた。恋をしているのだと、気付いたときには遅すぎた。
男は門前で買い求めた花の一輪を差し出して女王候補に膝を折る。
目許涼しく、鼻梁の通った横顔。
緑瑞々しい春の中で、笑っているオスカー。
ロザリアは息をつめてそれを見た。
まだ蕾の薔薇が手から手へと渡るのを見た。
少女の面で笑みが花開く。
間に挟んだ窓ガラスが砕け散ったかのような錯覚がロザリアを打った。
震えながら我が手を引き寄せる。
女王の能力の真髄は時空の掌握だというのに、ただ、あの頃に戻ることだけが出来ない。少女の頃に。
花を一輪差し出されて上気した、あの瞬間の幸福に。
彼女は静かに窓に背を向けた。
頷いて扉を開けさせる。背筋を伸ばし、ごく淡いピンク色のハイヒールで一歩踏み出す。微風が背から吹き、ベールを揺らす。
扉を抜けたら、何が起こるのか分かっている。
世界が私に跪く。
嵐を待っている
立ち上がった瞬間、くらりと脳の芯がぶれた。
オスカーはテーブルに両手を広げて突き、まるで悲しみに項垂れる人のように、頭を垂れて眩暈が治まるのを待った。その後で慎重にグラスとボトルを持ち上げ、揺れているカーテンのただ中へと歩み寄って行った。
寝室の絨毯は気に入っている。駄目にしてしまったらもう二度と同じものが手に入る保証はない。時間流の格差はこんなところにも影響していた。損耗してしまえばくよくよ惜しみはしないだろうが、物を大切にするのはそう悪いことじゃない。
だから、酔ったと気付いたら外へ出ることにしている。夜風で酒を醒ますつもりがあるならグラスを手放せと、煩く言うような誰も今夜はいない。石造りの床にボトルを据え、彼はゆっくりとデッキチェアに腰を下ろした。
眼差しは夜空の表面を撫で、ひとつの場所へと還って行く。白く宵闇に浮かび上がる、広大で壮麗な、天治の君の居城。
あれに比べれば、空の星の方がまだしも、手が届きそうに思える。
我知らず、深い吐息が漏れた。
酔って望めばいよいよ宮殿が遠い。
こんな夜は。
決して則を越えず、扉へだてて警護に当たる、宿直の兵さえ羨ましい。
そう、嵐でも来れば、それを口実に駆けつけることが出来るのに。
お題提供:模倣坂心中さま