目を伏せろ、悟られるな
浮かない顔で深夜の扉を潜ったオスカーを、パスハが迎えた。
「遅くまで精が出るな」
気のない声で言った守護聖へ、研究院の主もまた感情のこもらない声で答える。
「お渡りがあると分かっておりましたから」
サクリアに関するオーダーは、余人によって覆されることがない。それが女王ではなく、ただの候補によるものだとしても。依頼が行われたからには、オスカーは必ずここに来る。
オスカーは彼を見、笑みを作為した。
「そう怒るな。お前が待ってる必要は別にないだろう」
パスハは沈黙を守った。
彼の威圧的な態度には、看守を思わせるようなところがある。
オスカーはそれ以上何も言わず、奥の間へと重たい足を進めた。
奢侈も放蕩も怠惰でさえ黙認される。
これはほとんどただひとつの義務。
サクリアの与奪だけは、規定どおりに行われなければならない。
育成は、依頼どおりに行われなければならない。
必要とされることは嬉しいことだと、彼女が笑ってありがとうと言ってくれるなら何だって出来ると、思っていたのは、あれは嘘っぱちだった。
やって当然の仕事の遂行にさえ、困難を覚えている。
オスカーは水盤を見下ろす。
育成はなされなければならない。
大陸が映し出されているのを見下ろす。
己の中にある神のような力は、ここにいかずちを下すこともできる。
美しい都を、町々を見下ろす。
だが、依頼は果たされなければならない。
それが彼女を、二度と触れることの出来ないひとにするとしても。
背後で扉が開く。オスカーは振り返り、そこに監視者の姿を見る。
目を伏せろ、悟られるな。この胸の内の道を外れた恋に。
宝箱から愛は出てこない
夜の内に遣いは来た。
今より宮殿で起臥するようにと。
私物はすべて寮に置いていくように言われたのは、当然のことだった。女王は名前さえ持つことが許されない。なのに、気がついたら口走っていた。
「待って、これだけは」
「例外はありません。新たなる女王陛下の御聖慮を仰ぎながら、こちらでしかるべく処理いたします」
使者は硬い声で答えた。その女性がどこか遠くにいるような言い方がおかしかった。私は、目の前にいたのに。
「でもこれは、守護聖様から頂いたものですわ」
「どうぞご理解下さい」
夜のお茶会を繰り広げていたテーブルの向こうで、おとなしく座っていたはずの親友が跳ね起きるように立ち上がった。
「ちょっと待って! ロザリアは、これからは守護聖様と一緒に仕事をするんでしょう。贈り物を放っていかれたなんて知ったら、亀裂の元になります」
「アンジェリーク……」
「あら、陛下」
バルコニーから戻ってきた女王補佐官が、首をかしげながら視線を合わせてくる。
「どうしたの、ひとりで笑って」
「あなたがこれを守ってくれたのを思い出していたの」
ロザリアは小箱に片手で触れ、目を細めて右腕を見た。
「あなたは最初から、とても心強い補佐官だったわね。意外なことに」
「意外なことにって何よー!」
「ふふ、怒ったかしら」
見下ろす宝箱の中はきらきらと輝く思い出で溢れている。
憧れも意気込みも、そこから取り出すことが出来る。魔法のように。
けれども、愛だけは、宝箱から出て来はしない。
貴方は孤独には勝てない
疲れきって焦点のあまくなった双眸を、それでも地に落とすことなく警戒のしぐさで周囲に向ける。その目のままに笑うとき、色素の薄い彼の瞳は、かるく狂気じみて見える。
「オスカー様……」
錫杖携えた女王補佐官の渡りを、炎の守護聖は微笑で迎えた。
「やあ、これは補佐官殿。掃き溜めに鶴とはこのことだな。それとも砂漠のオアシスにたとえようか」
アンジェリークはおののきながらも真っ直ぐに彼を見つめ返した。
彼が、こちらを見ているようで、見ていないのが分かった。それはきっと、戦場を気にしていて、補給線のことを考えていて、他の人のことを想っている目だ。
「ちょいと梃子摺ったが、今週中には決着がつく。聖地では大した時間じゃないだろう。急ぎの育成か?」
「はい」
アンジェリークは言葉少なくうなずいた。
衣服の上からでもはっきりと分かるくらい鍛えられた長躯。
汚れた軍装でさえ凛々しく見せる男ぶりの良さ。
威令辺りを払うかのような、よく通る声。
――私たちに強さを与える炎の守護聖様。
彼には、蛮族を平らげることはできるだろう。
けれどその人は、別の戦いで今しも敗北を喫しつつあることを、自分でよく知っている。誰かを愛して失うというのは、なんて恐ろしい孤独だろう。自信と活力に満ちていた人を、こんなにも傷つけてしまった。
アンジェリークはにっこりと笑って、錫杖を軽く振ってみせる。
「そのリミットで大丈夫です。私もこれを見届けて、ご一緒に帰りますね。せっかくここまで来たんですから」
オスカーは乾いた声を立てて笑った。
「おてんばなお嬢ちゃんだ」
アンジェリークは雷に打たれたようになった。
――ああ、私は本当に、何も分からないお嬢ちゃんでいられて良かった。
こんな不条理な目に合わなくてすんで。
ロザリアの隣にいられて。
ベール越しの距離にも満ち足りることが出来て、良かった。
願わくば、どうか、私の上に。
この先も、恋というものが降りかかってはきませんように。
その窓から星は見えない
帰還した炎の守護聖が復命のため参上しとき、ロザリアは手の甲を差し出しはしなかった。そうしたならば、そして手を引かれたならば、容易くその逞しい胸の中に落ちていってしまうのが分かっていた。
オスカーは言上を終えて頭をたれた。
ロザリアは彼の真っ青なマントの縁が焼け焦げているのに気付いた。その人がどこで何をしていたのか、今しも説明されたはずなのに意味が分からない。
「ご苦労でした」
彼女は後ろ髪引かれながら踵を返そうとし、
「陛下」
囁き声で呼ばれ、はっと立ちすくんだ。
オスカーが拝跪したまま、言葉もなく彼女を見上げていた。どんな言葉よりも雄弁なその強い視線は、もう少しで彼女を焦げ付かせることも出来そうなほどだった。
彼は微かに震える指をドレスの長い裾にかけ、恭しく口付けを捧げた。
滑らかなビロードは砂のように、彼の手をすり抜けていった。
天窓の外には薄曇りの空が広がっている。
お題提供:無限のムさま