エンジュとリモージュ
とても個人的で、とても悲しい出来事があって、これは泣き疲れるまで泣いて眠るしかないと思った。
希望の星と期待されているこの宇宙では、絶対に泣けない。泣くわけにはいかない。船室にこもって独りきりになってからもどうしてもここでは泣いてはいけないと囁く声がやまなくて、エンジュはもうひとつの宇宙にのがれた。
聖殿の中の、最初の頃滞在させてもらっていた部屋が、そのままいつでも使わせて頂けるようになっているので助かる。が、調べ事で遅くなってもお茶会が長引いても必ず船に帰っていたのが仇になった。
一体どうしたの、と聞きに来たのが行儀作法を教えてくれた女官長だったら、せめて補佐官様だったら、少しは余裕を持って何でもないんですとお話しできたのに。扉を開けた先、何気なく立っていたのはあろうことか金の巻き毛の女王陛下で、虚を突かれたエンジュは何を繕うこともできなくなった。
「……ただのホームシックなんです」
とても個人的で、とても悲しい出来事があって、それで――帰りたいと思ってしまった。
エンジュは泣きはらした顔を隠してうずくまった。
気配を感じで腕の隙間から目を上げると、若い女王は向かい合わせで同じようにしゃがみこんでいた。
「あのね、あなたのための帰り道はもう出来上がっているの。すぐにでも、あなたの時代のあなたの町に帰してあげられるわ」
「…………」
「使う? 一回壊しとく?」
我慢する、じゃなくて、壊しとく?って。
この質問をしてくださる陛下がすごい。
どうして分かってらっしゃるんだろう。
「……壊してください」
エンジュは呟き返した。
本当にいいのかなぁ、とてつもなくハイエネルギーの無駄遣いをしているような気がするんだけど。
だけど、逃げ道があると分かっていて逃げずにいられるほど強くはない。
ああ、私は本当に、摩擦熱なんかで簡単に燃え尽きてしまう脆い流れ星だ。
(2009.06.02)
エンジュとコレット
ひとくさり労いの言葉をかけた後で、薄紅色の唇から思いもかけなかったような言葉がこぼれた。
「私も、貴女みたいになりたかったわ」
エンジュはびっくりして、摘み上げたばかりのチョコレートから女王へと視線を移した。
「ちょっとした冒険をしたことはあったのよ。でもあの時は、本当に心細くて、怖くてたまらなかった。どうして楽しめなかったのかしら。守護聖様たちもいっしょだったし、宮殿を出られる貴重な機会だったのに」
女王は微かに首をかしげて微笑していた。
「ちょっと待ってください。今想像します」
エンジュは両手で軽く耳を覆い、目をつむった。夢を見るように想像の中に入っていく。
「陛下が私みたいに。アウローラ号に乗って……」
「ええ」
下にもおかぬ歓迎ぶりだった。自分はあっさりお払い箱かとちょっとムカっとする。
レッドカーペットに花の雨。段差の大きな場所の移動は船長のお姫様だっこだ。うん、だけど、陛下をお迎えするのなら勿論これくらいはやって頂かないと。
「惑星に降りて……」
このところ気にかけている砂漠の惑星が浮かんだ。白い肌がたちまち真っ赤になって痛そうだった。日焼け止めは必須と……。でもレース使いの手袋にお揃いの日傘なんてさしたら、きっとすごーくよく似合って素敵だ。
「町にでて……」
ずっと楽しいことばかりを考えて前向きに任務に励んでいたはずなのに、どうしたことだろう。
「………………」
住人のつっけんどんな物言いに傷ついたことや、漁港で怪我をしそうになったこと、ぼったくられたりすられたり、あやうく人攫いにあいそうになったことばかりが次々と頭に浮かんでくる。
エンジュはぱちりと目を開けた。
ああ、こんなに可愛くて美人の陛下だったら、あのときの相手も本気で追いかけてきたはずだ。それだけのリスクを負う価値がある。きっと今頃は高く売られて遠い国の……。
エンジュは赤くなったり青くなったりした。
「だっ、駄目です!陛下にはちゃんと玉座にいて頂かないと、みんな心配でお仕事になりませんっ」
そう玉座に、宮殿に、この宝箱の中に。
(2009.04.08)