Some are born to Sweet Delight

 夕暮れのテラスに直接腰を下ろし、一服していたオスカーは、室内から硝子戸を叩く音に振り返った。そちらが来い、と示す指先の仕草で、動く気がないことを伝える。
「なにやってんの、隠れて吸うような歳じゃないでしょ」
 外へ出ながら、呆れ顔のオリヴィエが言った。
「部屋に匂いがつくのが嫌なんだ」
 ふうんと言い訳へは生返事で、
「あんたは留守だろうと思ってたわ。ま、ちょうど良かったけど」
 オリヴィエは、主人が不在ならば執事にでも預けたのだろう紙袋を投げ渡した。
「なんだ」
 オスカーは片手で受け止め、封を開いた。以前貸したシャツが入っている。
「見送りには行かなかったの?」
「うん?」
 オスカーは顔を上げた。
 そういえば、今日は人員入れ替えの日だったか。
 警備兵に勧告を出してそれきりだ。別に仕事をさぼっているわけではない。守護聖にはサクリアに関係する職務が最優先であり、出張や研究院詰めになることもあるのだからして、毎月一再ならずある恒例行事くらい、自分抜きでも回るようでなければ困る。
「誰をだ?」
 オリヴィエは細い眉を大げさにひそめた。
「ああ、まーたあんたの悪い癖だ」
 マニュキアを塗り飾った指をつきつける。
「あんなに肩入れしてたのに、飽きちゃったんだ」
「まあな」
 オスカーは人の悪い笑みを浮かべて肩をすくめた。
 今日で滞在期限が切れる人々の中に、深い関係を持った人間は何人もいる。
 飲食物にしろ服飾や細工物にしろ――人間にしろ、気に入ったとなったら飽きるまで徹底して偏愛するオスカーを、オリヴィエが揶揄するのは初めてではなかった。
 飽きるまで、という留保は常につく。
「飽きてしまったらそこでお仕舞いだろ。あんたは人生の喜びをひとつずつ潰しながら生きてるようなものじゃないか」
 オリヴィエはデッキチェアに腰掛けながら、くるくると指を回した。リングやブレスレットが、歌うように細く高い金属音を立てる。
「もっとうまく、軽く、楽しむことを覚えなよ」
「それがいつまでもあるとは限らないのに?」
 オスカーは片眉を上げて同僚を見返した。
「消えてしまう前に飽きたら俺の勝ちだ」
 好ましい人間が星空のどこかにいることを光明とすることは出来ない。下界の人間は瞬く間に死んでいく。
「意外とこどもっぽいんだね」
 オリヴィエは笑いもせずに言った。
 勝敗の文脈で語ったからだろうと、オスカーはさして気にもせず受け流した。
 目を奪われたもの、心惹かれたものには即座に没入するようにしている。そうしてさっさと見切りをつけてしまえなければ、今頃は涙の海だ。
 目の前から消える前に味わいつくす。腹いっぱいになって、俺はそのエネルギーで生きていく。それがたったひとつの健全なあり方だ。
 オスカーはシガリロをくゆらせ、その煙越しに同僚を見た。葉巻もここしばらくの偏愛の対象だ。あと少しで飽きることが出来るだろう。それを、内心楽しみにしている。
 特定の何かに喜びを見出すのはむろん幸福な体験だが、それに心を動かされなくなることにも、快感を覚える余地はある。そういう時は、自分が確固たる存在だと感じることが出来る。いかにも強く揺らぎのない存在だと。
 感情を乱されることを嫌う傾向は訓練によって身についたものだったが、今や彼の中に深く根を下ろしていた。
 気に入っていた物の製造元がなくなって残念でならないとき、好きだった人間がいなくなって寂しさを持て余すとき、そういった諸々を諦めきれずに胸が疼くとき、屈辱的だとさえ思う。
 二度とこんな状況が起こるのを許しはしない、と――何度誓ったことか。
 幸か、不幸か。
 愛の対象はいつでも、いくらでも見つかった。
 この世に倦みきったと言って憚らない黒髪の先輩は、年齢で言うならば三つしか違わないのだが。どんな秘訣があるのか、もう少し親密度があれは聞きに行きたいくらいだ。
「一本ちょうだい」
「ああ」
 オスカーは木箱を引き寄せ、細葉巻を取り出し、差し出した。ついで硫黄の臭いを抑えた専用マッチを摺って近づける。まだそこに心を傾けている彼の手つきは細心だ。
 火がついたところで自分の一本を咥えなおし、芳醇な香りをゆっくりと静かに吸い込む。
「たまには悪くないね」
 オスカーは案外慣れた風にふかす悪友を眺めやった。
 気に入れば自分でも取り寄せるだろうし、しばらく部屋に置くくらいのことはするかもしれないが、オリヴィエにはのめり込むということがない。もとより美容を気にするような男だから、煙草の類がお眼鏡にかなうとも思えなかったが。
「お前は何でも適当に受け入れるんだよな」
 彼の棚やチェストには目まぐるしいほどに入れ替わり立ち代りお気に入りが陳列され、それらは待ち時間が長くなっていく一方のローテーションを繰り返す。
 この家では物事はそういう風ではない。
 しばらく踏みとどまった後で消えたものは、二度と姿を現さない。
 飽きた、と言い捨てるときの乾いた嗜虐が好きだ。
「そう、コレクションは増えていく一方だね。満たされて暖かく豊かな気分になれるよ。あんたもどう?」
 肩をゆすって笑う仕草に風が重なり、飾りの多い衣が羽根のようにひらひらと揺れた。
 オスカーは目を眇めてそれを見た。
 自分が何を勧められているのか分からなくなった。
 この俺にコレクションのひとつになれと? それとも程々を楽しむコレクターに?
 夢の守護聖は笑みを含んだ目で彼を見ていた。鏡の中に何度も見たことがある目だ。あとどれくらい楽しめるだろうかと、見極めをつける目だ。終わりが見えてきたら自分は次を見繕う。悪友は飽きる一歩手前で踏みとどまる。
「お前は俺のことも、そんな目で見ていたのか」
「何の事?」
 オリヴィエは明るく短く問い返した。反り返った長い睫毛の上で残照がはじける。
「……何でもない」
 オスカーは首を振った。
 詰ってどうなるものでもない。
 こいつにはこいつの、俺には俺のやり方がある。
 少し長く吸いすぎた重たい煙がひりひりと舌を刺す。
 何週間先にいなくなると決まっている一般居住者ではないから後回しにしてきた。が、それで手遅れになった人もいた。永遠にそこにいるわけではない相手に、手をこまねいている余裕はないのだ。
 オスカーはシガリロを灰皿に置いた。灰を落とすと先端から鮮やかに赤い光がこぼれた。夕闇が深いからこそ灯りが目に付く。夜が、近づいてきている。
 そうだ、こうしよう。
 一本吸ってみるだけだし、一夜限りの遊びだ。
 お前がその時にも、ニコチアナ・タバカムのアルカロイドに抵抗することができたなら。


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