ことばよりもっと

 慌しいノックの音に扉を開けるとオスカーがいた。
「しばらく匿ってくれないか」
 夕闇を背に、目にするたびはっとするような見目の青年が、かすかに乱れた息をつきながらまっすぐに彼を見ていた。
「もし、あんたが構わなければだが」
「どうぞ」
 ヴィクトールはドアを大きく開いて招き入れながら、苦笑いを浮かべた。
 この方は、俺に断ることが出来るなどと、本気で考えていらっしゃるのだろうか。出来るわけがない。雲居の上なる半神に。これほど焦がれている相手に。その心にかなわないことを言えるわけがない。
「そうじゃない」
 苛立たしげな声に、彼は訪問者を振り返った。
「あんたにはいつだって拒否権がある」
 オスカーは戸口から足を進めずに立っていた。
「そして俺が特に言っているのは、この新しい問題のことだ」
 オスカーは人差し指で自分の耳の上あたりを突いた。
「あんたは本当に平気なのか?」
 気味が悪くないかという問いならば、かなり今更だとヴィクトールは思う。元より守護聖であるオスカーのことを、尋常な人間だとは思っていない。人の心を読み操る事だって、普段からしているではないか。告げたことのない好物を知っていたり、態度に出さないようしているつもりでも思い悩んでいるたび気晴らしに連れ出しに来たり。いつの間にかこんなにも、俺の心をとろけさせていたり。……しかしまあ、可能な限り今夜は何も考えないようにしよう。対自白剤講習ならば受けたことがある。他の人間よりは耐性があるはずだ。
「ええ」
とだけ彼は答えた。
「お疲れのようですね。あれから、どうしていらしたんですか?」
 オスカーは不機嫌な沈黙に陥った。
「オスカー様?」
 俺は、何か悪いことを言っただろうか。
「……ジュリアス様にご相談に行ったら、研究院に引き渡された」
「ああ、それは……」
 ヴィクトールは言葉を濁した。
 オスカーは溜息を吐きつつ、部屋の隅に無造作に腰を下ろした。
「だがまあ、連中が有能だということは認めるぜ。幾つか法則も見つけ出してくれたことだしな。たとえば、3メートル以上離れ、かつ対面していない状況では異常は発生しない、とか」
 でも逃げてきたんだよな、とぼんやり考えながらヴィクトールは扉に鍵をかけた。
「何か、お飲みになりますか?――オスカー様」
「ああ……?」
「何か飲みますかと、お聞きしたんですが」
「すまん、ビールでも貰えるか」
「分かりました」
 彼は冷蔵庫から買い置きの缶を取り出し、グラスとともに盆に乗せて戻った。ひとりの時にはそんな手間はかけないが、オスカーに対しては供応の用意を整えることにしている。
 テーブルから部屋の端まで、およそ3メートル。見詰め合わなければ安全というわけだ。ヴィクトールはちらりとそちらを覗った。気味の悪い思いをすることになるのは、むしろ客人の方かもしれないが、しかし、守護聖様を床に座らせたままというのも具合が悪い。
「オスカー様。――こちらへいらっしゃいませんか」
 彼は笑って続けた。
「貴方を間近に見ても、よこしまなことは考えないと誓いますから」
 オスカーは吹き出した。
「あんたに出来るかな?」
「試してご覧になりますか?」
 ヴィクトールは酒をグラスに注ぎ、差し出した。
「ああ」
 オスカーはゆっくりと立ち上がり、近づいてきた。
 受け取ったビールをひと口ふた口とすする間中、青年の視線は彼の口元に張り付いていた。言葉にされたことを区別するためなのだろうが、そのせいで伏目がちになっているのが、妙にしおらしげな雰囲気を作り出している。
 ヴィクトールは椅子に座り、残りのビールをグラスに注ぎ、乾杯の仕草で掲げた。
 オスカーはテーブルにもたれかかったままヴィクトールを見下ろしていたが、カチリとグラスをあわせ、そのまま一気に残りを煽った。
 ひどく酔うような度数では、勿論ないが。彼は何とはなし気遣わしげに炎の守護聖を見上げた。青年はつややかに濡れた唇を舐め、彼を見つめ返した。
「試しても、かまわないと言ったな……」
「はい?」
 ああ、これは何か良からぬことを考えている目だ。薄く容よい唇に笑みを矯めたオスカーはたのしげに手を伸べ、ヴィクオールの肩に置く。軽く前かがみになりながら唇を合わせる。
 ……考えなければいいのだろうか。何も考えなければ、この甘い唇を貪っても?
 はや手はオスカーの頭を抱いている。ヴィクトールは唇をはむように軽い口付けを繰り返した。チロチロと誘い出されてきた舌を強く吸う。口腔にはまだビールのかすかな苦味が残っている。
「……ックトール……」
 薄蒼い瞳に情炎を揺らしてオスカーが囁くとき、その匂い立つような美貌はほとんど凶器だった。俺の意思を打ち砕いていく銃弾。自制心を薙ぎ倒していく爆風。
 ヴィクトールは青年の腰を抱き寄せ、自分の上に座らせた。
 これが敗北なら、かまうものか、俺にはそれを受け入れる準備がある。
 が、自分で口にしたことをこうも軽々裏切るというのは……やはり忸怩たるものがあるな。
「詰まらんことを考えてるなよ。ただの言葉の綾だろ」
 ヴィクトールは苦笑した。
「では、お許しも出たところで」
 相手の正装の詰襟を開き、口付けの跡を鎖骨の上に印す。肌に押し当てた状態でゆっくりとシャツのジッパーを下ろし、ベルトを解く。
 彼はオスカーの衣服をまとめて後方に引き剥がした。緩やかに後ろ手を扼す格好で、衣はオスカーの両腕にわだかまる。彼はみじろきしている青年の胸に唇を寄せた。舌先で転がすうちに硬く立ち上がってきた突起を甘噛みする。
「……んっ」
 ようやく着衣をふるい落としたオスカーは、片手でヴィクトールの肩をつかみ、もう一方の手で彼のポロシャツの前を外していった。ボタンが尽きたところで、着衣の上からゆっくりと手をすべり落とす。ズボンの膨らみに触れてふっと口元を緩める。
 欲望が余計でも張り詰めていくのを感じながら、ヴィクトールは青年を見つめた。
「そんなお可愛らしい顔をなさると、歯止めが利かなくなります」
 彼はそれを恋人の腿にこすりつけながら、音立ててキスを降らせた。
「望むところだ」
 オスカーはヴィクトールのシャツの裾から片手を滑り込ませた。
「何も考えられないくらいにやってくれ」
 オスカーは脇から背中へと傷跡を辿るように撫であげ、彼のシャツを剥ぎ取るようにして脱がせ、その手首をつかんだ。
 そのまま指を咥え、しゃぶりはじめる。舌先で撫でるように触れ、舐めまわし、吸い上げる。焦らしているのを承知の上で手元にだけ専心するオスカーは、愉悦に目を細めている。
 ヴィクトールは頬を引きつらせた。
「そんなものが旨いですか?」
 迂遠なことを言うなと、薄蒼い瞳が笑みを滲ませる。が、別のものを連想したなどとは、自分の立場ではとても言えない。
 高貴な客人は深々と息をついて指を放し、手の甲から肘の方向へと動きを変えた。唾液を塗りこめるように這う舌先は、意識があるのかないのか、傷跡をなぞっている。
 神経の束の奥を刺激が走った。
 苦く昏い記憶が胸裏から這い出してくる。
 傷跡は、作戦の失敗や近しい人の戦死の記憶と結びついている。いや、だめだ、今だけは絶対に考えてはならない。オスカーに聞かせてしまう。こんなものを伝えるわけには行かない。
 しかし、敗北と慙愧と恥辱の痕跡として忌まわしくも思っていたそれを、よりにもよって軍神に愛撫されているというのは、なんとも性質の悪い冗談めいていて、笑いたくもなる。
 オスカーが突然がばと身をもぎ離した。 
「気付いてやれなくて悪かった」
 ヴィクトールは息を呑んだ。
 まいった、これは思っていたよりずっと精度のいい読心プログラムだ。
「ていうかあんたはそんな風に感じてたのか」
 濡れた目で睨まれ、太腿が強張るのを覚える。傷つき怒っている相手に、不実な反応だとは思うが。
「不満があるなら口で言ってくれたら良かったんだ」
「……あなたに不満などあるわけがありませんよ」
 彼は微笑して青年の引き締まった頬を掌で包んだ。
 何かをやめてくれと頼むことはないだろう。
 それが自分に与えられるものである限り、鞭打たれてさえ喜びを見出すことができるだろうと分かっている。
「何をしても何とも思わないと言われるのは、それはそれで空しいものがあるんだが」
 客人は拗ねたように口を尖らせた。
「そう悪い方へばかり取らないで下さい」
 彼は囁きながら唇を寄せた。オスカーは嫌がる素振りで大きくかぶりを振った。キスは目標から逸れて深紅の髪を掠めた。
「違うに決まってるでしょう?」
 が、言葉を尽くして愛していると伝える気はヴィクトールにはない。
 貴方の為すことすべてが歓喜と直結し、貴方が存在するだけで例えようもなく満たされるのだとは。本気で愛していると認めるわけにはいかない。虚空に星が満ちたならば、自分はここを出て行かなければならない。仮初めの恋人には、それに相応しい態度というものがあるはずだ。
 重たすぎる気持ちから相手が逃げ出してしまわないように。
 俺はただ、この方の気が向いたときに、暇潰しに応じる男でいい。退屈が若い心身を焦げ付かせてしまいそうなとき、思い出してくれるのが今は俺だと言うだけでいい。簡単に忘れてしまって構わない。俺はしがない軍人で、相手は神様なのだから。浅ましい淫欲で信仰を汚してしまったのは、己の不徳の致すところだが。
「ちょっと待て!」
 ヴィクトールは臍を噛んだ。(しまった…!)それはすでに思惟だった。背筋を伝う冷や汗を感じながら、恐る恐る炎の守護聖を見た。
「なんだそれ。俺はそんなの、全然知らなかったぜ……」
 オスカーは唇をわななかせていた。顔を火照らせて、彼の肩口をぎゅっとつかんだ。
「言葉にして言ってはくれないのか」
「言えません」
「即答するな!」
「オスカー様、俺は、つまり……」
 真剣な色を宿しているアイスブルーの瞳と見詰め合うと、目も眩むような思いがする。
 その瞬間に、本当に何も言えなくなった。
 太陽を崇めるように、貴方に恋をしている。
 この瞬間が、俺を支え続け、世界の果てまででも歩いていかせるだろう。
 ヴィクトールはオスカーを抱え上げ、テーブルに載せた。
 言葉で伝えられるよりもっと、もっと愛しているので、とても口では言い表せない。ましてや守護聖様を相手に、口に出して言ったら狂気の沙汰だ。
「あ、あんたな、それはズルイだろ…ッ」
 詰る声を無視して中心を口に含んだ。
「やめ……あッ」
 甘い吐息に煽り立てられながら、ゆっくりと欲情の芯を舐め上げる。
 背中に爪立てられる感覚さえが甘美だ。
 愛ゆえにすべてが喜びになる瞬間がある。
 この幸いをどうやって貴方に返そうか?


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