here to stay

 視察の準備で研究院へ出向いたオスカーは、装備の説明を受けている途中、エントランスホールの向こうにヴィクトールの姿を見つけた。
「よう!」
 手を高く挙げ声を放つと、ヴィクトールは職員に声をかけ、内側に入ってきた。
「丁度いいところに本職が来たな。お前、扱い方を教えてくれないか」
 オスカーは両手で机上の銃器を示した。
「え? ご存じないんですか」
 ヴィクトールは面食らったような顔をした。
「型式が変わったんだ」
 オスカーは顔をしかめた。ここ最近、せっかく見直してくれたようだったのに、これはまた馬鹿にされるかもしれない。
 だが怠惰と言うならそうなのだろう。制式銃の扱いは必要になった時に教わるようにしている。軍事書を逐一追うのも二十歳前にはやめた。すべてはめまぐるしく変わっていく。時は飛ぶように過ぎ去る。何もかもはかなく虚しい。
「では、全くご存じないわけではないんですよね」
 ヴィクトールはほっとしたように頤をゆるめた。
「ああ……」
 うなずきかけて、オスカーはやめた。
「いや、全く知らないと思って、いちから教えてくれ」
 言いながら射撃場へと向う。
「はぁ…いちからですか」
 後へ続くヴィクトールは、いかにも不審そうに復唱した。
「手とり足とりな」
 オスカーはにやりと笑った。
 ヴィクトールは訝しげにしながらも銃を手に取った。
「ではまず装弾から」
 銃口は下へ向け、引き金から指を外して弾を込める。
「次は激鉄を引き起こす」
 ヴィクトールはひとつひとつ解説しながら見本をみせ、手を添えて正しい姿勢を作らせた。
「片手で扱える拳銃であっても、可能な限り両手撃ちするのが基本です。銃を視線と同じ高さまで持ち上げて下さい」
 オスカーは無言で指示に従った。触れてくる肉厚の掌に、物慣れた声音に、わけもなく動悸がしていた。
「狙いは定まりましたか?」
「ああ」
 かすかに揺れていた腕がぴたりと止まった。 まっすぐに前を向いたまま、ヴィクトールの気配を強く意識した。
「――撃て」
 オスカーは右の人差し指に力を込めた。
 初めて銃を握ったとき、反動にのけぞった彼の背をしっかりと支えてくれた大きな手を思い出した。
 しかしオスカーはすでに短銃程度にはびくともしない体躯を獲得していたし、銃の性能も向上していた。
 さしたる反動はなかった。受け止めてくれる手も。
 何とはなし、拍子抜けした。
「物足りないな」
 ぼそりともらしたひとり言に、ヴィクトールが律儀に答える。
「命中精度優先なんでしょう。大きさに拘らなければ威力の高いものはいくらでもありますが、守護聖様の視察に相応しい装備とは言えないのではありませんか」
「……まあ、そうなんだろうな」
 オスカーは顎先に指をあて、考えるように言った。
「しばらく慣らしますか」
「ああ。一人で撃ってもつまらんな。お前、付き合わないか」
 ヴィクトールに否はない。練習に付き合うだけのはずが、あっという間にムキの勝負になった。
「何がいちから教えてくれですか……詐欺じゃないですか」
「勝っておいて文句を言うな」
 オスカーは顎につたう汗を拭って眉を顰めた。
 振り返った瞬間、その深い皺は消えた。甘い鼓動が胸を満たした。
 有能な軍人であることが今でも自分を惹きつけるとは思わなかった。
 憧れと愛の見分けがつかなかったのは若さゆえだ。やりたい盛りに周りが男だらけだったからだ。
 お前の嗜好はそうじゃない、と自分に言い聞かせる。考えるまでもないことだろう、オスカー?
 それでも人恋しい夜、足の向く先は変わった。
「今夜あいてるか」
 そうやって1本か2本のボトルをさげてふらりと学芸館を訪ねては、酔った振りをして絡んだり纏わりついたりする。つぶれた振りをして強引に泊まっていく。だから、酒好きだがもともと酒豪というわけではないオスカーのことを、ヴィクトールは意外と酒に弱くておかわいらしいなんぞと失言したことさえあった。
「ええ、もちろん」
 いつ行っても夜が空いているというのは理解を絶する生活だったが、オスカーには都合がよかった。
 宿舎にいるときのヴィクトールは、スイッチで切り替えられたように私人モードだ。
 武骨だが頼りになる年嵩の男として、心地よく迎えてくれる。
 オンとオフがこの上なく明確に分かたれているヴィクトールは、その二面性で、心を許したことをはっきりと知らせてくれる。だから何でも話せるような気がした。実際に何もかもを吐き出すかどうかは別として、それはとても気分がいいことだ。
「眠ってしまったんですか?」
「んー」
 オスカーは床に伸びたまま生返事を返した。
 危険な泥酔ではないか、様子を伺って空けた酒を確かめて、その後はヴィクトールは無理に起こそうとはしない。諦めているとも言うが。
「せめてベッドで寝て下さいよ」
 言いながら立ち上がる気配がした。
 自分でも酔っている自覚があるとき、ヴィクトールは背中側から上腕を掴んで後ろ向きに引きずる基本的な救難姿勢をとる。それが災害救援部隊に長くいた彼らしくておかしく、オスカーはいつも笑いそうになった。
 ベッドに運び上げられて、冷たいシーツを味わう。
 その時、温かい人肌が上唇に触れた。
 介抱をしようとして、手がかすめたのだ。指の腹だとか。
 分かっている、その程度のことだ。
 だがオスカーは浅ましいと思いつつ、くちづけを想像した。
 そしてこんな幻想を抱くことの意味から、目を背けようとした。
 時は飛ぶように過ぎ去る。何もかもはかなく虚しい。人生は無意味だ、空だ。欲望だってかりそめの肉体が見る幻だ。
 ぱたりと、夜の訪いは絶えた。
 試験にまつわることで顔をあわせたり、剣の手合わせを申し込んだりはしたが、踏ん切りがつかないまま、時間は流れた。
 次に杯を交わしたのは、聖殿での別れの宴だった。 
「食べてらっしゃいませんのね」
と、ロザリアが男に尋ねるのをオスカーは視界に認めた。
「あ、いえ私は」
 飲むときは酒だけで結構、とヴィクトールは悪さを見つかったかのように羞笑いしながら答えた。
 そういえば部屋に飲みに行ったときも、つまみを出しはするが自分ではほとんど手をつけなかったなとオスカーは思い返した。
 それが昔からなのか、手袋を外したくないがためなのか、ひとり忖度したこともあった。
 そうだ、手袋。
 白い手袋に、今グラスごしの赤ワインの色が落ちている。
 オスカーはそれを意識した瞬間、弾かれたようになった。
 あの夜、目を閉じる前に見たのも同じものだった。愕然とした。なんてことだ、なんて馬鹿なことを。
 あの時、俺の唇に置かれたのが手指だったとする。
 あいつは手袋を、一体いつ外したと言うんだ?
 だがもう確かめる暇はない。
 夜が明ければヴィクトールはここを出ていく。時は飛ぶように過ぎ去る。すべてははかなく虚しい。人生は無意味だ、空だ。
 がしかし、そこには捨て去ることの出来ない何かがある。消え去ることのない何かがある。
 オスカーは自身の唇に指先をあてた。
 お前は行く。この胸に温もりは残る。それだけで、満足しなければならない。
 決別の朝、オスカーは男の肩に腕を回し、きつく抱きしめた。そしてその背を何度も強く叩いた。
 それが、色欲を帯びた抱擁ではないことを証明するために。


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