IN MY HEAD

 結界を越えて戻ると聖地は夜だった。
「どうりで」
 セイランは肩をすくめた。
 疲れると思ったら、丸一日以上がたっているわけだ。
「まだ夜なのか?」
 オスカーが不審げに眼を眇めた。
「オスカー様」
 軽く肘をくらわせると、オスカーは「ああ」と天を仰いで答えた。
「もう、だな」
 金の曜日の勤務時間が終わるなりやってきたオスカーに手を引かれてセイランは外に出た。僕には聖地の方が珍しいんだけど、と口では抗ったが平穏に少し飽きてもいた。
「どうも感覚が狂うな」
 いつもなら2,3日遊んで帰ってもまた土の朝まで間があるんだが、とオスカーはごちた。しかしセイランの見るところ、オスカーは外界と同じ時の中にいることを楽しんでいる。なじみの店をつくるという体験にほとんど有頂天だ。
「泊まっていくか」
「そうさせてもらおうかな」
 試験に付随する設備は聖地の中央部に集められている。学芸館よりはオスカーの私邸のほうがまだしも近い。
 夜の森を足早に抜け、急斜面を這うようにして登ってようやく目指す館は見えてくる。セイランはもう少しで、くそっ、とかなんとか口走りそうだった。
「まったく貴方の気が知れないよ。ここまでして飲みに行くような何があったって言うんだい」
 書斎で優雅に杯を傾けようと思えば、いくらでも酒は揃ってるくせに。
 オスカーはただ笑っている――子猫にひっかかれたって別に痛くはないとでも言うように。前もって鍵を外しておいた窓を開け、長い足をかけた。
「自分の家で何やってるんだか」
 オスカーは黙って手を差し伸べた。
 セイランはそれを黙殺し、勢いよく地を蹴って窓枠を越えた。幾度か泊まった客間に出た。
「泥だらけだな」
と、オスカーがさもおかしそうに笑った。あなただって、と言いかけて明かりのもとでオスカーを見ると、自分ほど汚してはいないのが悔しい。しかしそれは、いかに脱走に慣れているかの問題だ、と考えてセイランは自分を宥めた。
「先にシャワーを使えよ」
 オスカーが命令形で話すのは、あれで気遣いの内らしい、とセイランは最近分ってきた。遠慮なく体を洗って出ると、館主はソファで缶のままビールを呷っていた。ごしごし髪を拭きながら眺めていると、同じものを手元目がけて投げられた。
「何? まだやるの?」
「今やめたら二日酔いになるじゃないか」
 セイランは溜息をついた。呆れた、と表情だけで示す術は心得ているはずだったが、オスカーを相手にしていると自信が目減りしていくのが分かる。
 この後は勧められてもソフトドリンクにしようと心に決め、プルトップを起こした。オスカーはひとりで食事するのを嫌う。おそらくは酒もだろう。あのプレイボーイっぷりも人寂しさゆえなのではないかとさえ思えてしまうのだから、絆されたもいいとこだ。飲み下すビールはすでに美味いなんて思う領域をこえている。
「……信じられないね。ここまで付き合うなんて、僕はどれだけあなたのことが気に入ってるんだ」
 それは皮肉であり自嘲であるはずだったが、オスカーは堪えた風もなくセイランを見返した。
「別に構わないんだぜ」
 空になった缶を振って腰を上げ、中腰のままローテーブルごしに身を乗り出した。マントがなく上着がないとずいぶん胴周りが細く見えるものだな、とセイランは考えた。全部剥いでしまったらどんなだろう。そこまでで思考を一時停止した。人物画は描かない。人体デッサンはしない。オスカーの体がどんなに魅力的でも関係ないはずだ。
「俺は今フリーだからな」
 オスカーはにこやかに言った。頬を掠める息が熱い。
「はは、冗談だ」
 オスカーはそのまま立ち上がり、シャワールームへ向った。セイランに点火した後だった。
「あなたセンスないんだってば」
 肩越しに振り返って言い返す声は、一足早く流れ出した水音に掻き消された。
 セイランは苛々と頭を振りながら立ち上がり、廊下へのドアを押し開けた。
 客間から程近い一室にはピアノがある。どうしてこんなものがあるのかと聞いたセイランに、さあ、元からあったからな、とオスカーは言った。屋敷の風格にあったグランドピアノにセイランは忍び寄った。許可は以前にもらっている。
「使ってやった方がいいんだろう?」
 その方がピアノも喜ぶ、などとオスカーが続けないのは、彼なりに気難しいセイランに調子を合わせているのだった。
 音を確かめるようにゆるやかに弾きはじめる。手入れはされているらしい。誰が弾くんだろう、とセイランは訝しんだ。それはすでに嫉妬の響きを帯びていた。
 鍵盤を従属させる快感にひとしきり酔って寝室へ戻ると、ベッドにはオスカーが伸びていた。
「ちょっとオスカー様、それ僕のベッドだよ」
「俺のだ」
 不機嫌に言い切られてしまえば、確かにそうなのだが。
「今は俺のものだ」
 オスカーは重ねて言った。感慨もなく受け継いでメンテナンスさせているピアノのように、それは束の間の所有の形で語られた。
 セイランはまた溜息をついた。
「自分の部屋に戻りなよ」
 うつ伏せになった男の横髪を摘まみ、表情を伺うともなく見下ろす。
「めんどくさい……」
 シーツに顔を押し付けたまま呟く声はくぐもっていた。
「隣や向かいも客間だ。たぶん鍵は開いてる…」
「僕だってめんどくさいよ」
 セイランは言いながらベッドに潜り込んだ。掛け布団の上でオスカーが居心地悪そうに寝返りを打った。
「風邪引いても知りませんからね」
 聖地に病はないのだった、と言ってから思い出したが手遅れだ。
「中、入ってもいいか」
「あなたのベッドなんでしょ」
 セイランはふんと鼻を鳴らして背を向けた。
「ああ」
 オスカーが背中合わせに横になるのをセイランは確かめた。何を言うまもなく二人は眠りに落ちた。

 オスカーの朝は早い。
 それが宵っ張りな自分と比べてなのか、一般的にも早いといえるのかセイランは知らない。
 セイランが起き出す頃には、オスカーは身支度を整え、酒精の影響下を脱し、朝食かコーヒーの一杯も喫して優雅にくつろいでいる。庭を散策していたり、メイドと笑いながらしゃべっていたり――時には撃剣の音がすることさえある。
 カーテンの隙間から前庭を覗くと、オスカーとランディが剣を交えていた。
 オスカーと付き合いだしてからセイランは、自分は言葉だけ知っていて、詩歌のために磨き上げているのに、その実体を知らないことが多い、と思うようになった。
 騎士物語は使い勝手のいいモチーフだが、剣術を間近に見たことはなかった。夜遊びも規律ある生活も知らなかった。青春も愛も、まだ知りはしないような気がする。
 3年の歳の差がそうさせるのだというようにオスカーは振舞う。しかし自分が生まれる前からオスカーが今と変わらぬ生活を送っていたことも、3年後の自分が決して今より闊達ではないだろうことも、セイランは知っている。
 緩慢に身づくろいしてワゴンに用意されたオレンジジュースを注ぎ分ける。この館では要らないと言っても朝食は用意される。食わなきゃ大きくなれないぜ、なんてオスカーに笑われるのは結構ムカつく。ありきたりな反応だが。
 コップをあけながらセイランは窓の外を眺めた。
 星の高みの聖域。端整な半神たち。日曜の早朝から繰り広げられる剣戟。
 ――場違いすぎて、なんとなく身を潜めてしまう。
「見物するなら出てくればいいのに」
 オスカーは汗を流した後でやってきて笑った。
 デートの予定のない休日の彼の装いはシンプルだが布使いが時代がかっていて、それがまるで神話の登場人物のような風情を煽る。
「お前が見てると知ったら、ランディだってもっと気合が入ると思うぜ」
 セイランは鼻に皺を寄せた。
 勿論あなたには関係ないんだろうさ、と思った。オスカーが張り切るのは美しい女性の歓声でだ。間違ってもちょっと気が合うだけの同性ではない。
「あなたのそういう無神経なところが嫌いだね」
 皮肉が通じないならと直球を混ぜるようになって、セイランはますます分が悪くなったような気がする。
 オスカーは無言で肩をすくめた。その目の雄弁なこと。
「失礼致します、オスカー様」
 もっと言ってやろうかと思ったとき、召使が開け放たれたままの戸口で一礼した。
「ジュリアス様がお見えですが、いかが致しましょう」
「ああ、すぐ出る」
 オスカーはその場で踵を返した。
「約束があったんだ。忘れてたのかい」
 着いて歩きながらセイランは揶揄かうように声を弾ませた。
「忘れてない」
と、オスカーはすぐさま言い返した。覚えていて昨夜の強行軍かとセイランは呆れた――そして僕は強行軍も本当には知らないけどね、と思った――が、馬場に連れて行っていただくんだ、とか何とかオスカーは上機嫌だった。
「そう。僕ももう帰るよ」
「ああ、馬車を用意させよう。執事に声をかけてくれ」
 セイランは客人がオスカーを連れ去るのをまたもカーテンの陰から見送って、執事に学芸館に戻ると告げた。
 自室に戻った彼は自分好みのコーヒーを入れた。酒の臭いが残っているような気がしてシャワーを浴びた。その間中ずっとうずうずしていた。とうとう我慢しきれなくなってピアノの蓋を開いた。音楽が感情の捌け口にもなることを、彼はいつからか知っていた。
(ランディ様の憧憬を、あれを恋慕と取りはしないくせに。ジュリアス様があなたに目をかけている、あれを寵愛と思いはしないくせに。どうじて僕には、俺に惚れてるんだろうなんて匂わせるんだ!?)
 セイランは目を瞑った。それは問うてはならない問いだ。
 昨夜は酔っていた。失言した。そこまでは、お互い様だ。
 手は迷いなく鍵盤上を躍る。目蓋の裏に鮮やかに紅い髪のオスカー。
 初めて会ったとき、彼の透き通った薄蒼い瞳がセイランをちょっと見て、二言三言交わし、熱を失った。(なんだ男か)そう言わんばかりだったのをセイランは覚えている。覚えては、いる……。
 思いは千々に乱れる。音楽はむしろ赤裸々だ。
 セイランは黒白の鍵を苛立ちをこめて叩き続けた。
 強拍、強拍、そしてまた強拍。
 これは怒りだ、失望だ、軽蔑だ。
 だが流れ出る調べはそうではなかった。

――I got lovesongs in my head.


(The Love Song,Marilyn Manson)


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