追跡

 その街は冬の中に埋もれたようにある。いつ来ても白い街。常春になれた身に、それは思っていたよりも堪えることだった。
 疲れている時は、ことに。
 降り積もった雪が重たい脚にまとわりつく。夕暮れの光さえ通さない雪空を小さく見上げて、オスカーは溜息を吐いた。睫毛についた雪の何粒かが溶けて視界に光を散らした。突風とともに氷の飛礫がぶつかってきて、思わず目を閉じる。
 寒気は肌に染み入り、感覚を痺れさせていく。痛みを感じなくなることがどれだけ危険か、故国の士官学校で教えられたことを思い出した。昼間斬りつけられた腕を外套の上からぐっと握る。大丈夫だ、まだ、全く感じないわけじゃない。
 骨の髄まで冷え切った頃になって、彼等はようやく宿にたどりついた。
「わあ、中はあったかいですね」
 南国生れの王太子は心底ほっとした様子で声を上げた。
「あー、寒冷な国の知恵ですね〜。ほら、熱を逃がさないようにドアや窓に工夫がこらしてあるんですよ」
とルヴァが指し示し、
「あっ、本当ですね。面白いです」
 ティムカは熱心に聞き入った。
「すいませーん、部屋空いてますかー?」
 アンジェリークはカウンターに向って声を張った。
「はいよ、何部屋とる」
「あっ、ティムカ様、皆様、どうぞ暖炉にあたってらして下さいね」
「そういう訳にはいかないだろう」
 オスカーはやれやれと溜息をついた。
 この戦いは俺たちの問題で、彼女は行きがかり上巻き込まれただけだ。ところがアンジェリークの中ではこれが逆転している。ロザリア様に大役を仰せつかったのは自分で、目的を果たすため守護聖様たちに協力を”お願い”しているだけだと。試験で育成や妨害をお願いしたように。
「チェックインくらい俺だって出来る。任せてくれるよな」
「えっ、でも」
「お嬢ちゃんに風邪を引かせる訳にはいかないだろう」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
「いい子だ」
 上目遣いするアンジェリークの頭に、オスカーはぽんと掌を置いた。
「ほな俺はオスカー様とご一緒に」
 ふふふふふーとチャーリーは口を開けずに笑った。
「今日という今日は値切らせてもらいますよって」
「お前もこりない男だな……」
 オスカーは片眉を上げた。
「ここで引いたら商売人の意地が立ちませんて!」
「宿帳はどこだ」
 聞き流して求める。差し出されたノートにオスカーは何気なく目を落とし、息を飲んだ。
 カティス。
 懐かしい筆跡を見た瞬間、凍えて屍のようになっていた体に心臓が脈打ち始めた。
 オスカーはペンを走らせながら顔を上げた。
「この男はもう発ったのか」
 昼前に、と宿の主は答えた。
「どこへ行ったか分かるか」
「さあ、どこか他の星へ行くらしかったが」
「ん? 宇宙船はこの天候でも飛ぶのか?」
「今は止まってるなあ。最終飛行にお客さんが間に合ったかどうか」
 オスカーは沈黙した。瞬きをいくつか、思考中の合図。
「ああ――ありがとう」
 言いながら濡れて重たいコートを羽織りなおした。
「ちょっとちょっと、なんやねん」
「少し外出する。後は任せた」
 返事は聞かずに、外へ出た。
 叩きつけられる風雪の中、エアポートへと急ぐ。
 自分が何をしているかなど分からなかった。考えたくもなかった。
 たったひとことで魔法をかけられたみたいだった。
 カティス。
 あんたに言い損ねたことがあるんだ。
 会ったって言えるかどうか、分からないようなことだけど。
 強風のため締切中、と張り紙のあるガラス戸をひとつずつ押して行くと、ようやく開いているところが見つかった。
 人気の絶えたフロアの案内カウンターには、若い女性が1人座っていた。
「やぁ、レディ」
 オスカーはぐしゃぐしゃになった髪を両手で後ろへ梳かしつけ、自分が魅力的に見える一番確実な顔で笑った。
「人を探してるんだ。力になってもらえないか」
「はい、できることでしたら」
「ありがとう。名前はカティス、金髪で、背はこれくらい――」
 歳の頃を聞かれても答えられないことに、オスカーは思い至った。尋ねられないうちにと急いで言葉を継いだ。
「昼前に近くの街を出たらしいんだが」
「あら、その時間なら各方面とも欠航になっています。まだ出発してらっしゃらないはずです」
「運行再開待ちの人たちはどうしてるだろう」
「この付近の宿で待機してらっしゃいます」
 差し出されたリストを、オスカーはかじかんだ手で書き写した。
「いつごろまた飛ぶか分かるかな?」
「天候次第ですけど……朝を待っての飛行になるのではないかしら」
「親切に有難う。助かったよ」
 習慣でオスカーは相手の手を取った。自分の方がずっと冷たいのに気付き、はっとして手を跳ね上げた。
「すまない」
「いいえ。どうぞお気をつけて」
 オスカーは愛想を振りまいてからカウンターを離れた。コートの前をかたく合わせなおした。ひとつ大きく深呼吸し、外へ出た。
 宿はどこも開口一番満室を告げた。
「それじゃ、泊り客の中にこういう男はいないだろうか」
と問うと、皆一様に覚えがないと答えた。
 先客を知った男だと思ったのは勘違いではなかったか、と己を疑いながらオスカーはターミナルへ戻ってきた。船が飛び始めれば、外へ出るつもりの人間は戻ってくるはずだ。
 見通しのいいベンチを探して腰を下ろす。体はいまや鉛のように重たい。
 だがオスカーは意志の強い男だ。自分でそのことをよく分かっている。諦めて戻るには、もっと徹底的に希望を砕かれなくてはならない。
 すっかり暗くなった空を窓越しに見上げて、オスカーは吐息した。視界が白く濁った。
 カティス。
 兄弟のように仲が良いと、よく言われたものだった。
 だけどそれはオスカーがランディを鍛えたがるのとは違ったし、ランディがマルセルを可愛がるのとも違った。
 兄のように慕っている、というのはたぶん嘘だった。安全なポジションでカティスの傍にいるための欺瞞だった。
 彼が自分を、弟のようにばかり見ていたわけではないのも知っている。それなのに、越えられなかった一線がある。直視できなかった望みがある。
 舌打が洩れた。
 だからこんな風に、まるであの男に飢えているみたいな気分になるのだ。

 夜を徹して見張りを続けたオスカーは、眠気の霧がかかった視界に曙光を背に立つ男を見つけ、ふらふらと立ち上がった。心身がぎしりと軋んだ。雲の上を歩むような一歩を重ね、男の前に下りていった。
 金髪は色褪せていなかった。
 長いストレートを後ろでひとつに束ねるスタイルは変わっていなかった。
 服装と所作の若々しさが男の歳を読めなくした。
「オスカー?」
 名を呼ぶその声も。
 少しかすれながら上がり調子になるイントネーションも変わっていなかった。
「ひとめ、あんたに会いたくて」
 言ったきり手持ち無沙汰になった彼の頬を、男は両手で挟みこんだ。
 視線が合う。オスカーは俯角だ。背を越したのがいつか覚えている。祝杯を挙げたのを覚えている。だってほんのちょっと前のことだ。
「突然すまない」
「別にいいが、どうしたんだ?」
「宿帳に、あんたのサインがあった」
 カティスは破顔した。
「相も変わらず遊びたい盛りだなぁ」
「何でだよ」
「どこのことを言ってるのか知らないが、守護聖が公務で泊まるような宿じゃないだろう」
 にやにやしている男に言い返そうとして、オスカーはやめた。
「……ふん」
 この苦難の旅に、ようやく得た自由を満喫している旧友を巻き込むなどということが、できるだろうか。この男には、知らなくていいことが幾つかある。
「どこかゆっくり出来るところへ移ろう」
 肩を押しながらカティスは歩き始めた。
「おい、船がでるんじゃないのか?」
 いいのか、と問う己の声がいやになるくらい期待に満ちているのをオスカーは聞いた。後ろを振り返って、笑う目尻の皺に気付いた。何年が経った、と再び自問した。
「ああ、大丈夫だ」
 カティスはカフェを探すのではなく、前夜の宿に舞い戻った。
「まあ、せっかくだからな」
と、ローテーブルに酒杯を並べた。
「そうでなくちゃな」
 準備する背にオスカーはじゃれついた。
「お前なあ」
 遊んでないで手伝え、と脇腹をつつかれ、オスカーは慣れた手つきでコルクを抜いた。妙に気恥ずかしい気分の中で、グラスに口をつけた。
「あ、うまい」
「そうだろう」
 カティスが得々として肯く。
「あんた、ほんとに天才的だぜ」
 何度も立ち寄った惑星だったが、こんな馬鹿みたいにうまい酒を飲んだことはなかった。絶対にラベルを覚えて帰ろうと思った。
 絶対に、と力を込めて思った時点で、今日は回りが速いだろうという予感はあった。 近況と軽口を重ねるうち、あっという間に夢心地になったオスカーは、ソファに長々と手足を伸ばした。
「こら、狭いだろう」
 わしゃわしゃと髪をかきまぜられる感覚さえが気持ちいい。
 目を閉じて声を聞いていると、今がいつかを忘れそうだ。
 オスカーは手探りでカティスの腕を取った。指先で撫でるように辿り手首を掴んで引き寄せ、衝動のままに唇を寄せた。
 土の匂いはしない。
 もちろん、旅に暮らすとはそういうことだ。しかしオスカーはほとんど虚を衝かれた。
 カティスはもう一方の手をオスカーの咽喉元に向けた。ボタンをひとつ、ふたつと外す。
 頬を摺り寄せ、耳元で囁く。
「オスカー?」
 オスカーは襟元に回された手にまた手を重ねた。重みに引きずられるようにシャツの内側へと滑り落ちた指先が、やがて意思を持って素肌を這い始める。
 カティスが今どんな顔をしているのか見てみたい、と思いながら、オスカーは目を開くことが出来なかった。暖かい部屋と人肌に安心したらどっと疲れが出たらしい。オスカーは居心地のいい場所を探してみじろきし、傍らにある体に抱きついた。
「わるい。カティ…ス」
 眠気に抗うことが出来ず、口がもつれる。
「…ちょっと眠る……起きたら、続き」
 それきり意識が途切れた。

 彼は照りつける午後の日差しに目覚め、ベッドから飛び起きた。明るく静かな部屋の中を見回した。衣服を整えるのもそこそこに、足音高くフロントへ駆け下りた。
「俺の連れは!?」
「旦那によろしくと言って、先に発ったよ」
「そうか……」
 オスカーは悄然と応じた。
 カウンターには広げられたままの宿帳があった。
 彼は慕わしい名前を指でなぞった。
 口付けんばかりの衝動に、じっと耐えた。


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