夢のように霞む

 オスカーは外套の隠しに財布が入っているのを確認し、ばさりと音立ててそれを羽織った。冬物のコートの重さを肩で感じる。誰にも告げず、館を出る。春の陽気で汗だくにないよう、ゆっくりと歩き出す。月星かがやき、風もぬるい聖地の夜だ。が、外は、初冬のはずだった。
 まっすぐに、門へと向かう。その後背を明るい声が打った。 
「はぁい、イイ夜だね」
「ああ、月が明るくて……」
 オスカーは振り返りながら、語尾を微かな笑いに紛らわせた。
「隠れて出るには向かない夜だったな」
 昔、夜襲と脱走は新月に限ると習ったことを思い出した。
 レンジャー部隊に憧れて、そりゃあもう熱心に励んだ学生時代。
 狙撃、築城、徒手格闘。潜伏、爆破、武装水泳。対尋問行動、パルチザン……。
 選抜試験の受験資格は年齢制限がついた。上限は28だったか、9だったか。もう忘れたことにしようと、頭では思う。外人部隊で身分を偽造するところから経歴を始めるとして、逆算するといくつ鯖を読めば手が届くかなんて、あきらかにこの期に及んで考えるべきじゃない。
 扉の向こうには平穏な人生が待っているはずで、それで十分なはずだ。
「見送りはいらないと言ったはずだったんだがな」
 苦笑して言えばオリヴィエは即座に、
「見送りに来たなんて誰が言ったのさ」
 オスカーは言葉に詰まった。言ってない。人の情としてそうだろうと、自分が勝手に思っただけだ。別れ惜しまれるくらいには、仲が良かったと。
「これから遊びに降りるだけだよん」
「はは、そうか」
 オスカーは首を竦めるようにしてコートのポケットに手を突っ込みながら、歩き始めた。
 オリヴィエはするりと腕を絡めてきた。
「今夜は飲み明かそ?」
 オスカーは真円に近い月を見上げ
「悪くないな」と、答えた。


 星都は昼下がりだった。
 目星をつけていた幾つかの店はまだ閉まっていた。
 開店を待つくらいなら、自分たちでシェーカーを振った方が手っ取り早い、というところで意見の一致を見た彼らはホテルの最上階に部屋を取った。
 昼日中から飲むのは常態ではない。ペースを乱されている感じがするのは、だからだろうか、とオスカーはいぶかしむ。ローテーブルにグラスを置く指先の感覚までが不安を訴えている。
 ミニバーのカウンターから戻ってきたオリヴィエが、向かいではなく真横に腰を下ろした。
 何気なく向けた視線を濃藍の瞳に捕らえられる。
「あんたが好きよ」
 オリヴィエは剥き出しの腕をオスカーの首に回して、笑った。
「そりゃどうも」
「あんたが好きで、どうにかなっちゃいそう……」
 笑いを絶やさぬままに身を寄せた。
「おい、よせ」
 オスカーには笑える要素が見つからない。
 オリヴィエは彼の耳元で、ピアスを食むようにして囁いた。
「最後だから言えることだってあるでしょ」
 オスカーは顔を逸らそうとして思い留まり、目の端で彼を見た。最後だと思ったら我慢できなくなった、ではなく、これは自覚的にやっているというわけだ。
 自分の上にしなだれかかっている軽くしなやかな身体を感じる。
 薄い肩や、後れ毛のうなじや、こちらを見る目に。
 深酒をしたときなど、少し妙な気分になることもあった。
 何度か、言い出す前にさり気なくかわされて、脈はないのだと諦めた。友人と寝ることに抵抗がないのは、たぶん自分が軍学校出だからで、一般的ではないのだろうとも思った。己にはとっくに過去の話だ。
「はぐらかし続けといて、今更よく言うぜ」
 オスカーは苦く言い捨てた。
「ふふ〜ん。分かってないね。あんたが誘おうとしてたコトとコレは、似てるけどちょっと違う」
 オリヴィエはその色付いた指先でオスカーのシャツに包まれた胸の突起を一発で探り当て、軽くつつきながらにんまりと笑った。
「そりゃ、つまり……」
 役割の、ことか。
「冗談だろ」
 オスカーは低く呻き、片手で顔を覆った。
 オリヴィエは静かに笑みを収めた。
「どっちにしろ籠の中で番うなんてまっぴら。最後には嫌悪に変わるに決まってるんだから」
「そう夢のないことを言うな」
 オスカーは乾いた笑いをもらした。宙に手を浮かしながら、揶揄を滲ませた眼で悪友を見上げた。
「……夢の守護聖が」
 それでうまいこと言ったつもりかい、とオリヴィエは彼の額を弾いた。
「美しい夢なら一晩でいいの。その後で現実に立ち向かう」
 きっぱりと言い放った。
「あんたもそういうやり方のほうが好きでしょ」
 オスカーはオリヴィエを、見知らぬ他人を見るような目で見た。
 実のところ、悪友にとっては、日夜のすべてが夢なのではないかと思っていた。
 彼がいると場が華やぐ。
 自由になんでも言ったりしたりできるような空気が生じる。
 夢のような国の、夢を司る男。
 ――俺はといえば、人生など意味のない夢幻だと、信じてしまいたくて、そうできずにいる。
 遊び倒しても、泥にまみれても、所詮は一場の夢だ。監視に耐えて大人しく暮らしても。すべてが等しく無意味なら、俺は迷わずにすむ。
 オスカーはため息をついた。
 しかし確かに、最後だから言えることもある。これが最後でなかったら、一蹴してしまえた。終わった話だ、お前は俺の手を取らなかったんだとか。逆なら考えてやってもいいぞとか。
 ラメ入りのグロスを塗ったつややかな唇がおりてくる。柔らかなキスはかすかにパッションフルーツの匂いがした。
「おいでよ、オスカー。もし選択を間違えたって、たった一晩のことじゃないか」
 外はまだ明るい。メッシュの入った金髪と、そこに絡む金属の髪飾りが、窓からの光をきらきらと反射していた。
「ああ、犬に噛まれるようなもんだよな」
「そうそう」
 オスカーは顔をしかめた。怒らせようと思って言ったのだ。調子よく頷くなんてらしくない。オリヴィエは身を起こしながら、唇を引きつらせるようにして笑った。
「欲しいものが手に入るなら、理由も言い訳もなんだっていいに決まってるでしょ」


 ベッドインの前にはデートをするものだ、とオリヴィエは主張した。それくらいの手順は踏まなくちゃ、よっぽど飢えているみたいじゃないか。そんなのはまったくファッショナブルじゃない。
「ちょいと電話借りるよ」
 受話器に向かう声は弾んでいた。
 シャトルだ船だコテージだと、思った以上に大掛かりな手配をとっている元同僚の背中を、オスカーは見やった。
「おい、いいのか。夜が明けちまうぜ」
 すぐ隣の部屋にだってベッドはあるというのに、わざわざ何をやっているのかと思うとおかしい。とはいえ、今すぐ引きずり込まれたら困るに決まっているのだが。
「時間流の格差を覚えてないの?」
「今の?」
 知ったことじゃない、とオスカーは呆れまじりの声音で告げる。俺がそんなことに、少しでも興味を持つと思うか? 夜が明ける前に戻らなければと計算して気を揉むことはもはやない。もう全然関係ないことだ。
 俺は夢から覚めていくところだ、とオスカーは考える。
 美しくて軽やかでほとんどすべてが可能で、円環のようで強迫的で不条理で、しかしいつかは終わる、聖地という夢から。
 もう少ししたら、目が覚めるに違いない。
 少なくとも、この男が目の前から消えるころには。
 やられちまう前に目が覚めたら、それはそれで構わないが、と胸中に呟いてみる。……だめだ、まだ覚めそうにない。
「あっ、電話繋がった」
 また後でね、とオリヴィエは背を向けながら細く長い指を揺らした。


 どれほどの時差を見込んでいるのか、オリヴィエのプランはなかなかの遠出だった。
 シャトルで星系外の惑星に飛んで、鉄道とレンタカーを乗り継いで港まで出て、小型ボートで小さなリゾート島へ。その間中繰り返される意味ありげな眼差しと、ボディタッチと、人目を盗んだキス――なんという長い前戯。
「生殺しにされてる気分だぜ」
 オスカーはしまいには音を上げた。
 シートから半ばずり落ちたような行儀の悪い姿勢で、目を閉じた。手の上に重ねられる手。非日常の上に重ねられる非日常。
 別れるころには落としどころを見つけられているだろうか。
 大人しく余生を送る気に、なれているだろうか。
 そう、そうなるはずだ。
 かの秘密の花園で抱え込んだ機密の重みは、碇のように俺の人生を定めるだろう。
 ……そうなるはずだ。
 船を降りると濃い花の匂いが黄昏を染め上げていた。
 着の身着のまま飛び出した彼らは、身軽い。そのまま散策に出た。荷物はといえば、冬仕立てのコート一着。
 海辺を経巡り、小高い丘に登る。なんとかと煙は高いところが好きっていうしねーっ、と、昔はよくからかわれたものだった。何かが起きたときのために地形を把握しておきたい、といつぞやの長い旅の途中で口にしてから雑言はやんだ。
 戦闘続きの旅の中では言い訳があった。が、その後は意味などない、ただの癖だ。叩き込まれて骨まで沁みた、習慣だ。たかだか遊覧先で何を小心なと、逆にどやされても仕方がないくらいの。しかし揶揄は二度と繰り返されなかった。
 オスカーは残照に手庇して眼下を見下ろす。
 細長く伸びた、しかし小さな島だった。長径をとっても踏破にせいぜい2時間、陸影までは泳げばどれくらいだろうと、無言で距離を読む。
「いい景色だ」
 風になぶられながら、オスカーは上の空に言った。
 ここを守るなら攻めるならと、不意に溢れかえってくる教科書の文言。
 あの学び舎へはもう戻れないな、と分かりきったことを思う。胸は痛まない。長い長い時間のうちに、その言葉が持っていた鋭い刃は摩滅してしまった。
 丘を下る道は色鮮やかな熱帯の植相を示していた。
 オリヴィエはオスカーの腰に腕を回しながら忍び笑いをもらした。
「ねー、あんたのあのむずがゆい台詞を言ってよ」
「はあ?」
「ほらぁ、ひと夏の恋が永遠に続きそうに思えるとかなんとか」
 オスカーは胡乱な目つきで連れを見た。
「洗練された大人の女性を連れて来い」
「ちょっと、失礼にもほどがあるよ!」
「どっちが!」


 海に面したコテージに入った彼らは、幾度か共に過ごした休暇のように思い思いにくつろぐ。
「悪くないな」
 壁を背に、床へ両脚を伸ばしたオスカーは、手中にライトブルーのカクテルを揺らして言った。
「こうして海の音が聞こえると、外にいるんだと実感する」
 自分の耳元で鳴っているドライヤーに負けないように、声を張ってオリヴィエがまぜっかえす。
「ああ、アンタは気になって眠れなくなったりしそうにないね」
「なんだ、眠っていいのか?」
「その間に何されても知らないけどね〜?」
「このやろ」
 オスカーは目の前でくるくると回される人差し指を掴み取った。ふざけて引いただけでバランスを崩し倒れこんできた身体に驚いたのは一瞬だった。抱きとめてドライヤーを取り上げてスイッチを切って放り出す。
「枝毛になっちゃったらどうしてくれんのよ」
「もう乾いてるだろ」
 ところどころ染色されている金髪に左手を潜り込ませる。まあ、自分であれば、これは乾いたと見做すところだ。
「いまさら怖気づいたか?」
「どの口がそーゆーこと言うのかな〜?」
 オリヴィエは彼に膝で圧し掛かりながら、両手でその頬をひっぱった。なめし革のような皮膚は容易くは伸びない。
「びびってるのはあんたでしょ」
 オスカーはその手を振り払い、目を眇めて悪友を見上げた。
「俺を誰だと思ってるんだ?」
 何ものにも負けない強さを司る炎の守護聖様だぜ、とは、今はもう続けられないが。それが何だというんだ?
「……上等じゃないの」
 オリヴィエはゆっくりと上体を倒し、嫣然と笑みを浮かべ、彼の唇にくちづけけを落とした。オスカーは軽く口を開いて彼の舌を受け入れた。
「ふぅん、抉じ開けるまでもないってワケ」
 オリヴィエはつまらなそうに呟いた。
「んっ……!」
 続くキスは荒々しく、呼吸を奪うほどに力強く、情熱的だった。
 唇と指は喉から胸、下腹部へと降りていく。
 オスカーは緊張と性感に軽く息を弾ませていた。もう少しアルコールを摂って感覚を鈍らせておくべきだったかもしれないな、と思う。
 視線の先で、早々に手放したグラスの表面を水滴が滑り落ちる。時折微かな音を立てながら崩れてゆく氷。溶け出した水分はくっきりと分離層を作っている。オスカーは苦笑を浮かべた。
「飲み明かす、と言ったのが、嘘になったな」
 オリヴィエはちらりと手の中の器官を見下ろした。
「別にそうしてもいいけど」
 オスカーは慌てて跳ね起きた。
「よせ、俺をミイラにする気かっ」
 オリヴィエはぷっと吹き出した。
「あははは、なんて顔してんのよ!」
「お前なぁ……」
 オスカーは笑い転げている元同僚を咎めるはずが、結局つられて笑い出してしまった。
 笑い声は活きのいいウサギのように辺りを跳ね回って彼らの情動を勢いづけた。彼らは笑いながら、純然たるたのしみの中に飛び込んでいった。








 喉が渇いた、とオスカーはまどろみの中で思った。
 水音が……シャワーの音が向こうでしている。
 みじろきすると体中が軋むように痛んだ。2ラウンド目からは、ベッドへ移動した……はずだ、が。それとも3ラウンド目だったか? 頭がはっきりしない。
 ようやく重たい身体を引きずり起こしたときにはすでに物音は止んでいた。ベッド脇のランプテーブルに、鈍く光る鍵が置いてある。下に敷かれた何の変哲もない紙に、ボートのナンバーと、在り処と、返却先についての走り書きと、GOOD LUCKの一言が残されていた。ああ、まったくあいつは。
 オスカーは冷水を呷り、べたつく身体を洗い流し、身づくろいを済ませ、戸を押し開いた。彼にはおよそ似つかわしくないほどゆっくりと歩き出した。
 腰にはまだ疼くような痺れが残っている。
 この調子では日が暮れてしまうんじゃないかと皮肉っぽく思ったが、昼過ぎには波止場に着いた。自分のためのボートを探し出し、片足をかけて運転台を覗く。これくらいなら何とかなりそうだ、と考えていると、若い声が背中を打った。
「急ぎでないならやめといた方がいい。一雨来ると長老が言っていた」
 オスカーはそちらに顔を向けた。船の揺れが目眩めいて彼を襲った。息をつめてやり過ごす。視界の先ではひとりの青年が舫いを結びなおしているところだった。
「そうか。親切にありがとう」
 急ぐ旅では、まったくない。自然には逆らわないのが一番だ。
 オスカーは舷をまたいで桟橋に戻った。
 宿へと踵を返しかけ――その言葉の意味に気付いた。
「なぁ、天気はいつもその人に教えを請うのか。気象局だとかから、伝達じゃなく」
 青年は妙な顔をした。何を言っているのか良く分からないとでも言いたげな。
「あんた、よその星からのお客さんなんだな」
 少し棘のある声で言った。
「……ああ」
 オスカーは言葉少なく頷いた。
 青年は、気象ネットワークが存在しないと答えたも同然だった。
 ここは小さな島だが、孤島じゃない。大陸はすぐそこ。休暇のための設備も整っている。
 この星全体に、まだ存在しないのか?
「雨だけなら、俺はもう行かないと」
 オスカーは独り言でも呟くように言った。
 真に問題なのは、気象ネットワークではない。
 オスカーは思い返す。往路に使った車にも船にも、GPSは組み込まれていなかった。
 ここには人工衛星が――監視衛星がない可能性がある。
 それならば、今。
 たった今出発したら、俺は捕捉されないんじゃないだろうか。
 俺を知る者が誰一人いない場所へ、たどり着けるんじゃないだろうか。
 馬鹿馬鹿しいくらい自由に、なれるんじゃないだろうか。
 オスカーは深く息を吸った。湿った潮風。脇腹で微かに疼く古傷。ああ、確かに雨は来るだろう。それが何ほどのことだ。俺は、もう行かなければ。
 彼は決然として舟艇に乗り込んだ。舫いを外す。キーをまわす。車のハンドルと余り変わらない舵を握る。ボートは滑らかに動き始める。
 足下でエンジンが打ち震えている。
 船は波を切って進んでいく。
 彼は横ざまに小島を振り返った。
 出てきたばかりのコテージを見た。
 朝靄の中。
 その、いらかは、夢のように霞む。


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