神事は真夜中に行われた。
住人たちは、神を見ると失明すると信じていた。
ゆえに供物を運ぶのも、祈祷も、奉納の舞も、まだ人間になりきっていない清らかな幼子たちの任務だ。
夜は遊興のための時間と信じきっている二人は、御簾の向こうでげんなりしていた。
「これならクラヴィスが適任だったんじゃないのォ〜」
夜行性だし、じっと座っているのが苦にならない人だし。
指折り数えるオリヴィエの指先は、今日も隙なく飾られている。輝くようなネイルが、これじゃまったく見せびらかしようもない。
「まったくな」
オスカーは肘掛に肘をつき、掌に面を沈めていた。
「いい加減、限界だぜ」
オリヴィエは相棒がため息をつくのを見た。
単に退屈しているのだと思っていたが、それにしては険のある言葉だ。
「まだ引きずってたか」
ちいさな、お人形のような女の子たちが、透けるほどに薄いカーテンの向こうで舞っている。
あれは、オスカーが当分相手にしたくないといった未成年のお嬢ちゃんだ。
むごいことを、と声を詰まらせて。
この格好付けの男が、後輩たちのいる前で涙ぐんだ。
あの衝撃を思い出した。
自分がアクアノールへ行く前に、どんなやりとりがあってどれほど懐かれていたのかは知らない。でもあれはない。あんな物を見せ付けられるとは思わなかった。
オリヴィエは隣に向かって椅子から身を乗り出した。
「……アタシたちは守護聖でしかない。なんでも出来ると思うのは傲慢ってものよ」
「分かってる」
即答だ。
しかし実際には、オスカーは分かってなどいない。
この麗々しい祭壇に傲然と座している。ひざまづかれることを当然として受け止めている。
オリヴィエは実際には、自分たちは神様じゃない、と信徒の前で口にするのを憚ったのだった。
自分だけにできる仕事を、あくまで自分の能力の範囲内でやる。そのバランス感覚がオスカーには欠けている。期待にこたえることが好きで人助けが好きでロマンチックな騎士きどり。人々が見たいと思う夢を体現できてしまう男。こういう大時代で単純な男は、生まれた国を離れるべきじゃなかった。
舞い手たちは音もなく祭事の間を下がってゆく。
「……あんたは間違ったことを指示したわけじゃない。あんたが言わなきゃ誰かが残るように説得して、結局同じことになったって」
そしてそれは、自分だった可能性も大いにある。
無言のうちの総意。常識的な見解だった。危険な敵地に、年端も行かない女の子を連れて行くわけには行かない。
そう、オスカーが言わなければお鉢は自分に回ってきただろう。人生経験の差ってヤツ? 不器用なお子様たちや言い争いの嫌いなリュミエールに投げ出すわけにも行かない。だけど自分が少し面倒くさく思うこと、あまり深く関わらずに済ませようと目論むことに、オスカーはいつも躊躇いもなく突っ込んでいく。
「……しかし実際にそうしろと言ったのは俺で、そりゃもう熱をこめて丸め込んで」
オスカーは顔をあげながら、ぼんやりと呟いた。
「完全に裏目に出た」
赤い睫毛を伏せた横顔が薄明かりに浮かび上がっている。
オリヴィエは無言でその肩を叩いた。
しっかりしなよ、と、軽く言えない。
弱ったとこ見せないでなんて言ったら、多分いくらでも格好つけてくれるんだろうと分かっている。それは友人に強いるようなことじゃない。
まして自分は、これまでずっと弱みを晒してくれることを喜んでいたのだ。心ゆるされていると、悦に入っていた。
正面の大扉から細い光が入ってきたのを認め、オスカーはうっそりと薄布の向こうを見やった。
いっそ慰めさせてくれたらいいのに、と思いながら、オリヴィエはその横顔を眺めやる。
底なしに薄青い瞳が不意に見開かれた。
「……危ないっ」
オスカーはカーテンを切り裂かんばかりの勢いで飛び出した。祭司役のまだ幼い少女が、頭のてっぺんが隠れるほどの壷を抱えたまま、姿勢を崩すところだった。オスカーの手が真向かいから彼女を支える。こどもはがくりと膝をついた。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん?」
オスカーはこどもを立ち上がらせ、軽く裾を払った。もちろん守護聖の渡りを受ける神殿は家具も壁も床もぴかぴかに磨き上げられ、塵ひとつないのだが。
「ああ、ちょっと遅かったみたいだな。擦りむいてる」
こどもは取り落とした壷をしきりと気にしている。オスカーはひょいとそれを取り上げた。有り難味が分からないとでもいいたげな目つきで、不可解そうに眺めやりながら、言った。
「これを俺たちに? ありがとう」
「なに」
オリヴィエは近づいていってそれを見た。スパイシーな匂いのする枝が意味ありげに盛られていた。アタシは嫌いじゃないな、と思う。少しだけ貰って帰って、馴染みの業者に調香させてみようか。それから移動中に覚えこまされた祭事のプログラムを記憶の中に辿った。
「……あ、じゃあこれでお仕舞いなんだよね。ついにゴールだ」
両手で持ち上げて祭壇に置く。
「オッケー?」
「いいんじゃないか?」
オスカーがこどもを抱き上げ、扉を押し開く。その向こう側で悲鳴とざわめきが立った。
炎の守護聖は怯えている相手のために、肩口と片腕で顔を隠しながら足を踏み出した。
「小さな神官殿を返そう。よく働いてくれた。怪我の手当てをしてやってくれ」
「まあ、申し訳ありません」
駆け寄ってきた女官が細い両手を差し伸べる。
こどもは首を振った。
「おっ、おうちにかえるの……。もう終わったんでしょう?」
オスカーの胸元にぎゅっとしがみついて、泣き出しそうにくしゃりと顔をゆがめた。
「ママじゃなきゃいやー」
「分かった、それじゃ、お嬢ちゃんの家まで送って行ってやろう」
オスカーは骨髄反射めいて甘い声になった。
「かわいいお祈りのお礼だ」
オリヴィエは天井を仰ぐ。
もう分かっている。自分ならば深く関わらずに済ませようと考えることに、オスカーはいつも躊躇いもなく突っ込んでいく。
嫌になるくらい簡単に入れ込んで。
アタシは逃げを打ったはずなのに、後で気を揉む羽目になる。
「まあイイケドさ……本気で外に行くの?」
ごちながら廊下に出た。
大して遊ぶとこ無さそうだったんだよねー、と降下中に見た景色を思い浮かべる。緑深い森に抱かれて小さな村が点在していた。宿場でもあって酒を出してくれれば上等といったところか。自分の趣味からは外れる。オスカーはたまになら面白がりそうだけど。
女官や衛兵たちがあわてて顔を伏せた。オリヴィエは衣擦れと金音と悲鳴にも似て引き連れた呼吸を聞いた。ため息とともに大きく肩をすくめてやる。
「あのね、そりゃまあアタシが眩しくって目が潰れるかと思うくらい美しいのは認めるけど、それって単なる比喩よ?」
「言ってやがれ」
つられて地の出たオスカーが混ぜっ返す。
「うるさいよオスカー」
オリヴィエは手のふさがっている相棒の後頭部をはたいた。
「宇宙の意思はサクリアを害あるものとして作ったりはしなかったの」
「そこのところだけは真理だがな」
が、オスカーは自分から申告したりはしない。
麗々しい祭壇に傲然と座し、ひざまづかれることを当然として受け止め、人々が守護聖を不死身で万能の神と信じるならば、それを演じるにやぶさかではない。
「それじゃ行くか」
ふたりは神殿の外に出た。
長い階段をゆっくりと降る。
間違っても守護聖の姿を見ないように、家々の灯も街灯も消され、街は静まり返っている。これは道草の食いようもないな、と目配せを交わす。
「お家はどこだ。案内してくれるかい?」
こどもは通りの先を指差した。
「あのね、お家の人たちには、アタシたちが誰かは内緒だよ」
オリヴィエはその子を覗き込む。こくりと首肯が返ってきた。
「はい」
「いい子だ」
と、オスカーがあやすような声をかけながら揺すり上げる。
壊れ物からはできるだけ離しておきたい男だが、意外と抱きなれている。あの少女にも、妹でも重ねていたのだろうかと、ふと気付いた。幼く無垢なものは守られるべきだと、自らの毒牙からさえも守られているべきだと、信じている目。
以前、リュミエールが言っていた。
――あなたがいらっしゃるずっと前、私たちは物の考え方が違いすぎて途方にくれていました。三月ばかり会うたび一生懸命に共通点を探して、たったひとつしか見つけられなかったのです。妹の結婚式を見られなかったのが残念だと。
後で聞くとオスカーは否定した。
――俺は相手の男をぶん殴ってやれないのを残念に思っていただけだ。あいつが同じように思っていたとは、ちょっと考えがたいじゃないか。唯一の見解の一致? あれだな。聖地に足を踏み入れたとたん、成長痛がとまって空恐ろしい思いをしたというので、同意を得たと思うぜ。
目抜き通りはそのままの道幅で外れまで続き、森の中に伸びていた。
木々の陰には夜気と闇とがいっそう濃くたまっている。
「……道は、この一本しかないのか、お嬢ちゃん?」
森の出口が見え始めたところで、オスカーは声を低く抑えて聞いた。
オリヴィエは点頭する小さな頭を見、風に遊ぶ布を邪魔にならないようブローチで留めた。
木々の間で気配が動く。
足を速める。
暗い赤褐色の装束を纏った男たちが目の前に飛び出した。
「大人しくしていれば命は助けてやる」
「寝言は寝て言え」
オスカーはさり気なくこどもを抱えなおして片手を空け、
「冗談ならもっと笑えるヤツお願い」
オリヴィエは大きな仕草で両手を挙げ頭を振った。
あいにくと、命だけで満足できるような人生は送ってきていない。聖地は何者にも屈服しない神の機関だ。その御使いが僻地の山賊ごときに屈したなんて知られたら、屈辱的どころの話じゃない。
――いや、違うか。
オリヴィエはさり気なく辺りに目を配しながら、ひとつ考えを改める。四周を囲む男たちは揃いの衣服を纏っている。それなりの組織だ。
「退いてくんないかな」
ぎりぎりまで前に出た後で足を止めたオリヴィエは、鼻先に突きつけられた両刃の剣をしらじらと眺めやる。
「王妹殿下をこちらに寄越せ」
「王妹? 誰が?」
話を逸らして時間を稼げるなら何でもいい。オリヴィエは反射的に問い返した後で、これはただならぬ単語だと気付いた。
「はいっ」
同僚の腕の中で元気な返事があった。覚えたての新しい言葉に心弾ませているような、場違いな明るい響き。
「お嬢ちゃんが?」
オスカーは目をしばたいていた。
ああもう、とオリヴィエはうなる。
あんたってば、どうしてこう考えなしで厄介ごとが好きなのよっ――と、叫びたいところだったが。いたいけな女の子を厄介扱いするのかと揚げ足を取られちゃややこしくなる。せいぜいじっとりと睨んでやった。
オスカーは何食わぬ顔で、
「刺激的な人生は好きだろう?」
正確には、そうではない。
危機も苦難もいらない。華やかなドラマと色鮮やかなクライマックスさえあれば文句はない。なんなら古典演劇のような予定調和だって構わない。
……何の因果かこんな男に参ってしまっただけ。
「その子を渡せ!」
「あんたらの事情なんか、知ったことじゃないな」
オスカーは肩をすくめて歩き出した。
わざとのように、隙のある背中。
後方から振り下ろされる剣を彼は躊躇いもなく払い除けた。革の手甲が切り裂かれる音が響いた。前腕を絡め取って、斜め前方に引き倒す。手首を踏みつけて獲物を奪い背を刺し貫くまでが流れるような動きで、オリヴィエは見惚れた。こんな暴力に慣れた危険な男でいいのかなんて、心配するのは誰か別の人にやってもらおう。
目前の白刃が動いた。オリヴィエは後ろ髪から簪を引き抜きつつサイドに回りこんだ。長い針状の金属を眼球に突き立てる素振りでガードを上げさせ、強かにレバーを蹴り付ける。お気に入りのアクセサリーは出来れば汚したくない。息をつめてよろめく相手のベルトから、短剣を掏り取りながら脇をすり抜ける。
敵を斬り伏せながらこちらへ向かってくる同僚を投擲で援護する。
オスカーはこどもを押し付けるように手渡したところで急転回した。
「走れ!」
叩きつけるように言いながら、細身の刀を構えなおした。
こどものいう「おうち」は果たして山上の城砦で、門番との間にしばし押し問答があった。
「だめじゃないの」
麓の外門まで馬車で出てきた母親と思しき女は膝を落とし、少女の両肩に手を置いた。上質だが派手なところのないドレスと、細工細やかな装身具。自分たちより少し年上だろうか、とオリヴィエは見る。
「神殿をお家と思ってがんばるって、お約束したでしょう?」
「それは、事情を知らずに、申し訳ないことを」
頭を下げる男を、こどもはびっくりして見ていた。ぱくぱくと口を開閉させるのに、声にならない。オスカーは気付いて目配せした。
「しーっ」
オリヴィエは囁き声を重ねる。
「言っちゃダメ」
「この子を、ここへ連れてきたのはあなた方ですか」
若い母親は身を起こして彼らを見た。射るような眼差しだった。射るような眼差しがよく似合う顔だ。アイメイクを少しいじったらもっと綺麗に見えるだろうけれど。
「仰るとおりです」
オスカーがこんなときばかり生真面目な表情で正対して答える。
「ま、アタシたちはもう退散するから気にしないで」
オリヴィエはじりじりと後ずさりを始めた。
「衛兵!」
「逃げるよオスカー」
同僚の襟を後ろで掴む。
「まってママ、おにいちゃんたちは」
「言っちゃだめだってー!」
彼らは森の中に飛び込んだ。
館の灯が見えなくなったあたりで2人は足を緩めた。
「俺はレディの誤解を解いておきたかったぜ」
潅木の枝を押さえながら、オスカーがこぼした。
「どこにそんな余裕があんのよ。帰りの時間があるでしょうが」
「あれじゃ俺たちはただの不審人物じゃないか」
オリヴィエは呆れまじりの溜息をついた。
今や嫌というほど分かっている。自分が少し面倒くさく思うこと、あまり深く関わらずに済ませようと目論むことに、オスカーはいつも躊躇いもなく突っ込んでいく。――それは時に、輝かしいことのように見えてしまう。自分の目はどうかしてしまったに違いない。
「誘拐未遂についても教えてやるべきだったし……」
「それくらいあの子が自分で話せる」
「どうして襲われるのかも聞き損ねたし……」
「聞いてあんたに何ができるって?」
国政干渉はできない。守護聖を畏怖と恐懼の対象とみなす地域にあっては、意思や感情を示すことさえ禁じられる。神殿に帰ったならば、あの子が心配だと洩らすことも許されない。
「……あんたみたいなヤツは、生まれた町を離れるべきじゃなかったわ」
期待にこたえることが好きで人助けが好きでロマンチックな単純バカ。
自分の手に余ることを、見聞きせずに済んだらよかったのに。
「磁石か太陽さえありゃ迷わないんだ俺は!」
オスカーは吠え立てるように答えた。指摘は明らかに全然違うとり方をされたようだった。町を出るなというのを、方向感覚の欠如とイコールで結ばれるとは思わなかった。
「くそ、せめて星座の読めるところだったらな」
オスカーは舌打ちまじり、枝の間から空を見上げている。
オリヴィエはその襟元を引っつかんだ。
「ちょいと待ちな、あんたさては迷ったね!?」
オスカーは荒っぽくその手を振り払った。
「大丈夫だ、俺を信じろ」
「冗談でしょ!」
腕を取ろうとした瞬間、障害物に脚を取られた。
「……っ」
条件反射のように差し出された手に、こちらも何も考えずに縋った。張り詰めた筋肉の確かな存在感に、訳もなく鼓動を乱される。
「大丈夫か」
「ああ、ありがと」
何に躓いたのかと思えば、切り株だった。
オスカーが年輪から方向を確認するために腰を落とし、マッチを摺る。
オリヴィエは同僚の肩を支えに片足立ちで靴を履きなおした。
「まったく、そんな歩きにくい靴で来るなよ。旅行の際は履きなれた歩きやすい靴で、だろう? こどもだって知ってることだぜ」
自分で口にした言葉からまたとあるこどものことを思い出したらしいオスカーは、暗い顔で俯いた。火の消えたマッチ棒を湿った土の中にそっと埋める。
「オスカー……」
思わず手が出た。横から抱き込んでこつりと額をあわせる。
しっかりしてよ、と、言ってしまいたい。
お願い、弱ったとこ見せないで、襲いかかっちゃいそうだから。
「分かってるんだろ。あんたは本当は誰のことも心配しなくて大丈夫なんだって。魂は生まれ変わって、最後には女王陛下の愛に満たされるんだから」
「ああ。……だが俺は二度とは同じ魂に出会えないだろう。それが大海の一滴を探すようなものだからなのか、見分けもつかないほどに変わってしまうからなのか、俺たちは知らない」
あるいは実のない慰めに過ぎないからなのか、アタシたちは知らない、とオリヴィエは考える。
「……やっぱそれロリコンめいてるよ」
そしてもちろん、これは嫉妬めいている。
「オリヴィエーー!」
がばと顔をあげたオスカーが掴みかかろうとする。
「やだ、こっわ〜い」
オリヴィエは笑いながら抗い、ふたりは縺れ合うようにして地面に転がった。勢いで唇がぶつかった。ああ、こんなに痛いキスは初めてだ、とホワイトアウトしかけた頭で考える。下に敷いた胸板に頬を押し付けたまま、起き上がれない。
「おい、さっさとどけ」
うなるように言いながら、悪友は手の甲で唇を擦っていた。
「ちょっと! そんなごしごし拭わなくたっていいじゃないのさ」
オリヴィエは威勢よく上体を起こし、自分でも片手を口元にやりながら同僚に指先を突きつけた。
「バカ、口紅がついてたらどうするんだ。抜け出して遊び歩いたかと思われるだろうが!」
「今日のは落ちないリップだよん」
唇を舐めながら脚の上から降りる。
「……ならいい。いくぞ」
炎の守護聖は立ち上がって木の葉を払った。そのままさくさくと歩き始める。青いマントに覆われた背中をオリヴィエは振り仰ぐ。
「いいんだ?」
オスカーが振り返る。
「何か言ったか?」
オリヴィエはその口元にあえかな笑みを見た。