夜明けの境界線

 傍らでベッドのスプリングが軋み、自分の腕が払い除けられ、恋人が跳ね起きるのをオスカーは感じた。薄く目を開け、ため息を飲む。これくらいのことで共寝を諦めるつもりはない。もうすこし相手が小さかったら、腕の中に抱き込んで抱きしめて、心音を重ね合わせて眠りに就きたいくらいだ。
 だからため息は飲んだ――習慣で。
 ヴィクトールが無駄な努力の一環として、自分を起こすまいと悲鳴を殺すようになったのと全く同じように。
 まだぼんやりした頭が、何のために何を飲み下したのか理解しないまま、寝返りを打ち手を伸ばすのを許した。
 ヴィクトールは即座にその腕を捩り取った。明らかに思考を必要としてない滑らかな動きで、抵抗するいとまもなかった。オスカーは驚いて、悪夢から醒めきっていないような琥珀の目を見上げた。骨が軋みを上げている。このままもう少し締められたら折れるな、と思い顔をしかめた。反撃に移るべきか、甘い言葉でもかけた方が賢明か。負荷を軽くするために、相手を刺激しない程度わずかに体勢をずらす。
「……オスカー様」
 暗闇の中の男がぽつりと言った。
「ああ」
 絡んでいた腕が離れた。
「すみません、つい、びっくりして」
「ああ」
 拘束から逃れても鈍い痛みは残った。オスカーは違和感のある肘を掌で押し包んだ。二度三度と屈伸させてみる。まあ、別に問題はない。
「明かりをつけるか?」
 問いかけをヴィクトールは命令として受け取った。あるいは少なくとも要求として。無言のままナイトテーブルのランプをつけた。
 ほのあかりの中で視線を合わせないまま互いに様子を伺う。
「起こしてしまいましたか?」
 ヴィクトールが上の空で言った。
「いや」
 オスカーは空々しく否定してやった。答えを聞いているのかどうか、分かったものじゃないが。
「……その、大丈夫ですか?」
 先ほどよりはもう少し心をこめて聞きながら、ヴィクトールはオスカーの二の腕へ視線を落とした。
「お前こそ」
 オスカーは汗に濡れた男の面を見た。ヴィクトールは何のことか分からないふりをした。オスカーはあくびをかみ殺し、背骨を鳴らして伸びをした。
「もう一度眠る気がないなら、散歩に出ないか」
 そしてヴィクトールは今度もそれを要求と見做し、立ち上がった。脱ぎ捨てられた衣服を乱れたシーツの上に拾い集める。
「貴方の靴下が一方たりないようですが」
 安眠の妨害をした負い目がなければ、行儀悪い脱ぎ方をするからだと叱りたそうな目をして言った。しかし彼の脱がせ方は、オスカーにとっては幾分まだるっこしい。
「後で探しに戻ろう」
 オスカーは聞き流して身支度にかかった。
 春の宵。
 まだ色濃い空の下に出る。
 つかず離れず、森の中へ分け入っていく。


 朝靄の濃くわきたつ川沿いを二人は遡って行った。
 夜はゆっくりと明けていく。森の中はまだ薄暗い。しかし、今日もまた麗らかな春日になるだろうとオスカーは確信に満ちて思う。
 ぱしりと小枝で打たれたような感覚が頬ではじけた。
 傍らでヴィクトールが足を止めた。オスカーは手を差し出した。
 ヴィクトールは首肯だけで答えて足をあげた。先刻までと寸分たがわぬ場所に軍用ブーツは着地した。オスカーは吐息して男の上膊に手をかけ、ぐいと一歩前へ踏み出した。
 守護聖の権威は条規からの逸脱を許容し、サクリアは結界を無効化する。
 今のは何かと問われないのをいいことに、オスカーは口を緘して足を速めた。何ものにも妨げられず進んで行きたい気分の時だってある。息が切れ疲れるまでまっすぐ歩き続けたら、この苛立ちは消えるのではないかとも思う。
 腕を掴む手に力を込める。手放したくないものが何なのか、自分でも理解できない。
 ここにあるのは理論のない罪悪感であり、理性を欠く良心だ。
 最初はこんな男だとは、知らなかったのだ。分かっていれば恋に落ちたりなどしなかった。
 人生が不条理で悲惨なものだと考えることは、彼には許されていない。世界は驚きに満ち、総体としては美しく、日々より良くなっていく。サクリアも人間もその歯車の一部だ。運命は綾なす織物。悪夢に飛び起きるなどということはない――ほとんどない。何を見、経験した後でも。不正と病、破滅と死。すべては必要があって起こる。意味があってなされる。そう信じること、不快な記憶を注意深く心の奥に仕舞いこむこと――精神の均衡を保つことは、彼の義務だ。負の感情によって聖なる力を穢してはならない。気をとがめる必要などない。まったく、ない。
 悲嘆し苦悩することを罪悪だと思ってはいけないなどとは、とても考えられない。
 オスカーはゆっくりと力を抜き、同行者から手を離した。
 河原は次第に上り傾斜をつけてきていた。水の流れは細くなり、暗渠となり、小さな水簾となって再び姿を現した。
「行き止まりですか?」
 登ろうと思えば登れないこともないなという目で行く手を見上げながら、ヴィクトールが口を開いた。しかし始業の時間を考えればこの辺りで引き返すべきだろう。
「そうだな」
 オスカーは落水を掬い取りながら答えた。
 この恩寵に満ちた庭が差し出す人生といったらどうだろう。
 何も考えずに小さな違反をした。いや、どの程度の真剣な禁止、危険度なのかは判断したが。すっかり忘れていた……ここにたどり着くとは思わなかった。
「なんですか?」
 近づいてくるヴィクトールをオスカーは見た。
 何食わぬ顔で喉が渇いたなと言ったら、飲むだろうか。うまいぞと言ったら、他愛なく信じるのだろうか、この男は。
「昔、ひとに聞かされた話がある。この滝を左側から汲んで飲むとな」
 オスカーはなかば虚ろに笑った。
「すべての憂いと迷いを忘れるんだと」
 優雅な動きで濡れた右手を差し伸ばした。
 ヴィクトールは反射的に彼の腕を払った。飛び散る水滴が朝陽にきらめいた。
「それは」
 ヴィクトールは言いかけた言葉を呑み、顔を伏せた。
 何かを考えるとき、顎を胸に押し付けるようにして俯く仕草は、内省的なヴィクトールの性格にいかにも似つかわしい。その頭の中で答えをすべて出した後で、彼は顔をあげ、口を開いた。
「貴方のことも?」
 俺達の仲を気の迷いと切り捨てるかと、食ってかかるほど子供ではない。それが一番重要な点かと、揶揄するほどの余裕もないが。オスカーは笑みを含んで見つめ返した。
「もう一度惚れさせる自信はあるぜ」
「ほう」
 ヴィクトールは苦笑まじりにうなずいた。
「まあ、やめておきましょう」
 懐からハンカチを引っ張り出し、丁寧に手を拭った。腰のポケットから手袋を取り出して、皺を伸ばしながら両手にはめる。
「信じてないな」
 オスカーは皮肉げな目つきになって足元の小石を蹴った。
「とんでもない」
 ヴィクトールは大仰に首を振った。
「ここは神秘の園、何でもありえる聖地ではありませんか。効能が記憶喪失だろうが不老長寿だろうが、信じないわけにはいきません」
「そっちじゃないだろ!」
 オスカーは声を上げた。
 ふざけて殴りかかった。ヴィクトールがその拳を掌で受け止める。手袋越しの体温がもどかしい、と意識した瞬間にオスカーは欲情した。かち合った右手を絡め取りながら間を詰めて唇を寄せた。躊躇いがちにキスに答える唇の乾いた感触。夜の間に伸びた髭がちくちくと肌を刺した。
 起こったことはすべて正しい。
 キスも、恋も、断絶も。おそらくは苦悩さえも。


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