白い災厄

 乳白色の霧が揺れる。白一色の視界がぐるりと回る。方向感覚どころか、平衡感覚さえ崩れ落ちていきそうだ。
 ヴィクトールはひとつ息をついた。
 ブーツの踵で地面を擦る。しゃらりと砂利まじりの砂が鳴る。地に足つけている気が、まだしない。
 もう一歩だけ踏み出そうとして、くいと腰を引かれた。
 ベルトに結わえ付けた紐がぴんと張っている。
 方位磁石に無線に発信機に懐中電灯。思いつく限りの装備を整えたが、進んでいくうちにひとつひとつ役に立たなくなり、最後に生き残ったのは一番単純でローテクなものだった。
 アリアドネの糸。
 ヴィクトールは手袋越しに指の腹で縄目をなぞった。
 このあたりで糸玉が尽きるということは、はぐれた相手もそう遠くないところにいるはずだ。
 霧の海が始まる一歩手前で、ヴィクトールはロープの一端を鉄の門に結わえ付けた。その男がほど近くで、きちんとした手順でねじ結びをしているのも確かに見た。
「オスカー様!」
 どこにいても目を引かずにはいられないはずの紅い頭を、一瞬目を離した隙に見失った。それは殆ど、ありえないことのように思えた。だからこそ恐ろしい。
 よもやわざと隠れてはいまいなと頭の隅で考えながら、もう一度名を呼ぶ。
 ゆらめく霧のどの辺りまで、声は届いているのだろう。
 身震いを肩でとどめる。
 とざされた街の中に踏み込んだ時には殊更寒いとは思わなかった。濃霧は衣服に染み透り、今では骨の髄まで冷える。
 風がゆっくりと首筋を撫でていった。
 乳白色に濁った空気がカーテンのように揺れ、わずかに視界が開けた。
 毀れた塀か、花壇のあとか――石積みに腰を下ろしてオスカーがいた。
 長い脚に肘をついて物思いの風情が、まるで一幅の絵のようだ。
「オスカー様?」
 ヴィクトールはゆっくりと歩み寄った。あと1歩か2歩というところでアリアドネに引き止められた。ちらと腰間に視線を落とし、それ以上距離を詰めるのを諦めた。
「こんなところにいらっしゃったんですか」
 これほど近くにいたのなら呼び声は耳に入ったはずだと思いながら、つとめて何気ない風に言った。彼が怒りを押し隠していると察した瞬間に、オスカーはいつもひどく冷淡になる。怒気それ自体と、隠蔽のどちらに反応しているのか、ヴィクトールには分からない。多分永遠に分からないままだろう。ためしに不満をぶちまけてみるという選択肢はありえないので。
 青年は体を起こし、顔を上げた。薄青い目はゆっくりと、曖昧に彼の上を通り過ぎた。
「……全くなんてところなんだろうな」
 視線をあらぬ方向へ彷徨わせたまま、青年がごちた。
「俺はいったい何だってこんなところにいるんだ?」
 後方についた両手に体重をまかせ、喉を仰け反らせるようにして天を仰いだ。
「貴方がどうしても、未知の領域のまま放っては置けないとおっしゃったんですよ」
 ヴィクトールは「どうしても」に強いプレスを置いた。治安上の問題を気にしているのなら実効支配領域に注力したほうが良いと思ったし、ふたりで時間を潰すならもっとましな刺激の求めようもあるだろうと思ったが、結局ろくに逆らいもしなかったのを思い出し、深くため息をついた。
「そうだったか?」
 青年は両手で前髪をかきあげ、つよく目をつぶった。眉間に深い皺が刻まれた。
「覚えてないな」
「オスカー様? どうかなさいましたか?」
 彼は不安を覚え、おそるおそる青年の顔を覗き込んだ。
「……あんた、変なしゃべり方をするんだな」
 青年は初めてきちんと彼の方を見た。不思議そうに目を瞬かせた。敬体のことを言っているのだと理解するまでに時間がかかった。そんなことは今更に過ぎる。もっと親しく口を利いてくれと言われたことなら、幾度かあったが。
 不審が暗雲のように胸裏に涌き上がった。ヴィクトールは眉をひそめた。
「貴方は……いったい誰です」
「俺は――」
 青年は唇の動きを止めて目を見開いた。分からない、と悲鳴がそこまで迫り上っているのが見て取れた。
 次の瞬間、口の端がくっと持ち上がった。
「オスカー、だ」
 あんたがそう呼んだじゃないか、とふてぶてしく笑った。
「違う」
 ヴィクトールは反射的に切り捨てた。
「そんなわけがない」
 不可解な霧の中で一度見失ったからには、これが人外の存在という可能性だってある、と自分に警鐘を鳴らす。といって元々のオスカーからして、人の内とは考えにくい点も多いのだったが。
「オスカー様は、ご自分が何故、何処にいるのか見当を失うようなことはなさらない」
 なじりながら青年が命綱をどこかで解いてしまっているのに気付いた。本当に、こんな真似をオスカーがするはずがない。
「そうか……じゃあ何なんだろうな」
 青年は猫のように目を細めて笑った。立ち上がり、彼に向かって踏み出した。瞳に映る自分の姿を見るかのように彼を凝視した。
 ヴィクトールは歯を食いしばった。
 オスカーであるはずがない。
 しかしこの深紅の髪とアイスブルーの瞳もつ美しい若者が、オスカー以外の何者だというのか。
 ……オスカーであるはずがない。
 そしてオスカーでないならば、自分は彼を連れて帰って、閉じ込めて、籠の鳥にしてしまうことも出来る。
 ヴィクトールは青年の上腕に手をかけた。
 ゆっくりと近づいてくる青い瞳は奇妙に澄み切っている。


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