Where there is a will

 山脈は遥か彼方に青くかすんでいる。
 平野を渡る風が草の波を銀色に輝かせてゆく。
 広大な平野の存在は同時に、そこに森林限界が存在するということでもあった。気温と雨量が少しでも足りなければ、簡単に干上がる。耕作には適さない。だが人々は豊かに暮らす術を知っていて――それに、敬虔だった。
「守護聖さま」
と、呼ばれてマルセルは振り返った。総じて丈高い男たちは、あくまでうやうやしく彼を扱った。
「ご会食のお時間ですが、いかがいたしましょう」
「今行きます」
 童形神信仰のない土地だから気をつけて行くようにと、地の守護聖に心配されたことを思い出す。反射的に素直な返事を返しながら、童形というほど子供ではないと内心反発を覚えたものだったが、肩にも届かない背では確かに子供めいて見えるだろうと思えた。
 ただし住人のほうは聖地への信仰に篤く、少年とあなどってくることもない。
 緊張と警戒心のとけた今になって、風物の美しさが目に沁みる。この、生い立つ緑のみずみずしさ。
 視界の端に煙が立った。
「あれは何ですか」
「祭の狼煙です。方角からすると炎の神殿ですが」
「夏越の祭ですか?」
「それもあります」
と、男は言葉を濁した。マルセルは見上げる眼差しで先を促した。
「いくつかの習俗が混交していますが、主旨は家畜が無事に幼齢を抜けたことへの感謝です。つまり、害獣に対する勝利を祝って」
「害獣、ですか?」
「ああ、そこにもまだいます」
 男は足元から小石を拾って投じた。小麦色の毛皮が一瞬跳ねて、草の間を駆け抜けていく。狐か、いたちか、山犬か――農村の生まれだから悩みの種になるのはよく知っているが、小動物に勝利したといって炎の守護聖を持ち出すのは、いかにも不釣合いで奇妙な感じがした。
「帰ったらオスカー様にお話しなくっちゃ」
 あの格好付けの先輩は、一体どんな顔をするだろう。ちょっと情けない気の抜けた顔をして溜息をつくだろうか。失笑するだろうか。
「畏れ多いことです」
 相手が大真面目なので、マルセルは慌てて不埒な想像を引っ込めた。
「ご興味がおありでしたら、臨席を賜られますか?」
「ええ――」
 マルセルは答えながら首を四方にめぐらせた。空が翳ったような気がした。雲はない。風が止んだ。肌がざわめきたつ。
 何かが来る。
 マルセルは傍らの男を振り仰いだ。余人が泰然としていられるということは、これはサクリアの問題だ。
「やっぱり止めます」
と、口早に言った。何にとも分からないまま身構えた。
 衝撃は実体をともなっていた。供の男が彼を庇って地に伏せた。恩寵としての感覚は打たれて痺れたように働かなくなった。彼は耳目を頼る他なく顔を上げた。
 ……山影が消えていた。

 首座の執務室の応接テーブルに書類を積み上げ、我が物のごとく占領していたオスカーが立ち上がって彼女を見た。
「どうした、補佐官殿。顔色が悪いようだが」
 他意もなげに片手を伸ばして頬に触れる。ロザリアはかすかに身構えて足を止めた。私への客だぞ、とジュリアスが咳払いしてみせる。
「ええ、こんなことをしている場合ではありませんの」
 ロザリアは部屋の主を振り返り、勢い込んで言った。
「出張中のマルセルが空間の異常に遭遇しました。地形の消失とサクリアの空虚を報告してきています」
 守護聖たちは目を見開いた。ややあってオスカーが呻いた。
「……俺が行けばよかった」
「オスカー」
 ジュリアスがたしなめるように名を呼ぶ。
「俺が行くべきでした。でもあそこがどうなっているか見たくなかったんだ。ただの我侭だったのに……!」
 オスカーは、はっとして口をつぐんだ。我侭だったのに、それは通った。敢えて見逃してくれたジュリアスに、角が立つ言い草ではあるまいか。
 ロザリアは取り乱しているオスカーを物珍しい生き物のように見、ジュリアスを振り仰いだ。光の守護聖は答えかねたように溜息をついた。オスカーは2人の無言の会話を不審げに伺いながら口を開いた。
「要務は終了しているはずです。すぐにマルセルを引き上げさせましょう」
「それがよいだろうな」
 ロザリアは、考え込むような仕草で口元に手をやった。
「わたくしも、彼を心配しておりましたの。でも、その星の民を置いていくわけにもいきませんわ」
「それはマルセルには責が重い。別に現地対策本部を作ろう」
「研究院と派遣軍を急行させてくれ。迎えに行くついでに、俺が向こうで体制を整えるというのでどうだ? ついては陛下に外出の許可を頂きたい。取り次いでもらえないか、補佐官殿」
 言いながらオスカーはローテーブルの書類を手早く重ねていった。
「そのまま置いていけ。そなたの執務室に届けさせる」
 オスカーは手を止め、一礼した。
「では、お言葉に甘えて。失礼いたします、ジュリアス様」
「また後ほど」
と、会釈を残し、ロザリアは彼の後を追うように部屋を出た。

 女王は急報に接するため謁見の間に出たままだった。
 緋色の絨毯に片膝を沈めて平伏したオスカーが、歳若い同僚を迎えに行きたい、と言上する。若い女王はベールの下から顔をあげた。
 玉座の傍らに立つロザリアは、横目に伺う彼女の顔色が紙のように白いことに気付いた。エメラルドグリーンの瞳までも、色が薄いように思える。
「待って」
 アンジェリークが切迫した声で言った。
「ああ、どうしましょう」
 ロザリアはドレスの裾をつまんで一礼し、女王に正対した。
「炎の守護聖に別命があるということでしたら、私が行きますわ、陛下」
 これはすでに、迎えがなくとも、飛んで帰ってきて欲しいくらいの異常事態だ。
 アンジェリークは耳を塞ぐように両手で側頭を覆った。
「……行かせたくないわ、ロザリアもオスカーも」
 首振る仕草につれて、怯えが小さな欠片となって振りまかれるかのようだった。
 二人の側近は目を見合わせた。以前に宇宙を侵略されかけたときには、「嫌な予感がするの」の一言で守護聖を視察に向かわせている。楽天家の女王がいう言葉とも思われない。
「俺たちに危険があるとお考えなのですか」
 オスカーは確認の口調で訊いた。アンジェリークはためらいがちに頷いた。
「ならば齢下のマルセルは余計でも不安でしょう。恐れながら、女王陛下は行ってはならない、とは仰せになりませんでした。綸言は覆されないことをよくご存知でいらっしゃる。誰かが手助けに行かなければならないのを、ご承知でいらっしゃるものと心得ました」
「分かってるわ、だけど――」
 言いかけた言葉を呑んで金の髪の少女が唇を噛む。
 オスカーはまっすぐに顔をあげ、不敵に笑った。
「このオスカーにお任せを」

 その年経たストールには、綻びひとつない。味わい深い青は色褪せてもいない。リュミエールは肩に羽織ったそれを指先で撫ぜる。水のサクリアが応えるのが分かる。天女の羽衣ね、とオリヴィエが笑っていたのを思い出した。
 何代か前の水の守護聖が、悪天候のため視察先に足止めされた。暇にあかせて名産の織物を習い、作品をその地に残していった。
 何の気なしの行動だっただろう、とリュミエールは思う。自分だって、スケッチの一葉や二葉、泊めてもらった部屋に忘れて行っていてもおかしくない――考えたくもないことだが。
 しかし住人たちは聖遺物を有難がって崇めた。サクリアは人の思念に反応する。残存サクリアの影響は、次第に問題視されるようになった。とはいえ、国宝とも神器とも信じられているものを無体に取り上げるわけにもいかない。長年の説得が実った、これはその帰途だった。
 リュミエールは安堵し、満足、開放感を覚えてもいた。育成のたびごとの干渉を想定した複雑な計算も、気を遣う交渉もこれでおしまいだ。陛下から代表団にお声をかけて頂いて、これからも彼らは信心深い民でありつづけるだろう。
 リュミエールは視線に気付いて顔をあげた。
 代表団の一人が、少し離れたテーブルから彼の方を見ていた。
「どうされました?」
「……お返しすることにして良かったのだと、ようやく思えるようになりました」
 漠然と彼の方を見ていた目が、ひととき彼の上で焦点を合わせる。
「よくお似合いでいらっしゃる」
 リュミエールは莞爾として答えた。
「ありがとうございます。私も、懐かしいお気に入りと再開したような気持ちです」
 元々が身の回りのものは淡い寒色を好む。ひとたび取り戻したら決して手放すなと口うるさく言われたものだから、リュミエールはいつものストールは置いてきていた。
「どうぞ、ごいっしょのテーブルに」
と、リュミエールは差し招いた。
 とたんに相手はしゃちほこばった
「不相応です」
 轟々たる大河はあるが清水は得がたい。渺々たる海に囲繞されて真水はない。渇きによって渇仰を身に帯びた彼らの信心は、畏敬というより畏れそのものに近い。柔和な容貌で人当たりの良いリュミエールには、おそれられるというのは不慣れな状況だった。
「……あ」
 リュミエールは雨が降り出したときのように上を見た。出先で連れを見失ったときのようにあたりを見回した。宇宙船の中だ。ティールームもさほど広くはない。何も目新しいものがあるはずがない。
 男は不審を顔に出すこともなく、畏まって座している。
 リュミエールは立ち上がった。胸元でストールをかき寄せた。心臓が早鐘を打っているのが分かった。2重ガラスの窓から外を覗いた。
 何を目にしているのか理解できないまま膝から力が抜けた。
 ともに旅行く舟がない。星がない。なによりも、宇宙を満たす黄金のサクリアがない。――そして、かわりに何を目にしている?
 自分たちは何というところに迷い込んでしまったのだろうと思った。これほどまでに恩寵と縁遠い場所が存在すること自体が信じられなかった。

 翌日に予定されていたのはお忍びの視察だった。
 定点観測のための定期行動で、前回以来大きな問題は報告されていない。つまりは、息抜きのような外出だ。明日の確認のためにと研究院へ行ったランディは、赤毛の先輩に会った。
 足早に奥へ向かうところだったオスカーは、元気よく挨拶の声をかけたランディをややもすると煩そうに振り返ったが、唐突に彼の予定のことを思い出した様子で、
「例の遠足はいつだったかな」
と、聞いてきた。
 合間を縫ってよからぬ遊びをするわけでもないのにそんなに楽しみなのか、まるで遠足が待ち遠しいこどもだなと、つい先日もからかわれた、その軽口の続きだ。じゃれて構ってくれるのはいいんだけど、まるで抜け出してる自分やオリヴィエ様やゼフェルの方が正しいみたいに言うのはどう考えたっておかしいよなあ、とランディは思う。
「遠足じゃありませんよ」
 相手にされないのは承知で言い返した。
「はは、そりゃ悪かった」
 オスカーは妙に早々と鉾を収め、
「で、いつだ」
と、問いを重ねた。
「明日ですけど」
「……そいつはストップがかかるだろうな」
 オスカーは口元で考えを転がすように呟いた。
「ええっ」
「いや、俺が決める筋合いじゃない。ジュリアス様に判断を仰げ」
 まぁ多分中止か延期になるだろうが、と呟く。オスカーは研究員を振り返った。
「行き違いがあるとまずい。これ以降、ジュリアス様か補佐官殿の許可がない限り、他出はすべて止めてくれ」
 そうがっかりするな、と横目で笑ってオスカーは踵を返した。
 何があったんですか、と問う隙などなかった。

 研究院を出たランディは、釈然としない気分で庭園に足を踏み入れた。
 平日の就業直後、人はまばらだ。
 そこで思い出した。
 研究員にいるのはすべてが関係者だ。これが庭園や宮殿で、親についてきたこどもや、行儀見習いの女官がいるならば、耳目を憚るということもあるだろうが。理由を口にできないとはどういうことだろう。教えてくれたっていいはずだった。楽しみにしていたのは知っていたわけだし。言えないような何があるんだろう。
 考え込みながらカフェテラスの横を通り過ぎる。
「おい、何ボーっとしてんだ、風船バカ」
「ゼフェル!」
 ランディは声をあげて彼を見上げた。
「ふらふらしてっけど、荷造り済んでんのか?」
 ゼフェルは樹上で腹ばいになったまま、にやにやして言った。
 荷造りは済んでいる。ふらふらしてる訳じゃない。が、一応心配してくれたのだと思うことにしよう。ランディは頭をかいた。
「明日のことだったら、なんだか中止になりそうなんだけど」
「どういうことだ?」
 ゼフェルは起き上がり、枝から飛び降りた。眉間に皺が寄っていた。
「さっき研究院でオスカー様に会ったら、そんな話をされたよ」
「ふーん……妙だな」
「ゼフェル?」
 少年は彼を差し招いて声を低めた。
「実はよ、俺もさっきルヴァに釘刺されたんだ。ぜってーどこにも出かけるなって。これは何かあるぜ」
 ランディはうなずいた。素行を疑われてのお小言と一緒にされたくない気もするけど、今はサマツジだ。
「俺はこれから、ジュリアス様にお話を伺いに行くんだ。一緒に来るか?」
「げー、誰が行くかよそんな所」
 同僚はひらりと身を返して逃げていった。

「どうしてそなたはそうなのだ!」
と、ジュリアスが声を荒げた。湯気でもわきたちそうな後ろ頭を眺めながら、きっとこうなるだろうと思っていたとおりになった、とオリヴィエは思う。ことがここまで来たら自分は部外者だ。もともと偶然居合わせただけだしねー、と自分に言い訳しつつ、手探りして見つけた椅子に腰を下ろす。いくら闇の守護聖とはいえ、執務室がこう暗いってやっぱなんか間違ってる気がするけど。
「大体さんざん世話を焼いてもらっておきながら、そなたはリュミエールが心配ではないのか。なんという情のない男だ。怠惰もそこまで極まったというのかっ」
 そこで感情論に走るからますます話がそれてくんだよねェ、とオリヴィエは心の中でだけ言う。しかし意外と感情的、というのは、ジュリアスの欠点ではない。普段いかにそりが悪かろうとも、こうして本気で心配するし手を尽くそうとする。それが見えているからリーダーとして信頼する気になれる。
 組んだ手の上に頤を乗せ、俯き加減に机についているクラヴィスが溜息をついた。
「クラヴィス!」
 部屋の主は、うるさい、と大文字で書きつけたような顔を上げた。
「……リュミエールは無事だ」
 ジュリアスは一瞬返す言葉を失った。
「そうか、ならばよい」
 くるりと踵を返す。
「あっ、アタシもそろそろ帰るよ。まったねー☆」
 オリヴィエはひらひらと手を振りながら闇の執務室を出た。昼下がりの陽光がまばゆく目を射る。手庇をしながら先を行く背を追う。
「ねぇ、ジュリアス、ホントにいいの? 異変が何かってことについては、まったく訊いてないじゃない」
 脱線した挙句に元々の用件を忘れているんだろうか、とオリヴィエはいぶかしんでいた。ジュリアスはむっつりとしたまま、
「そうやすやすとあやつに何でも分かってたまるか。答えないということは、知らないのであろう」
 理解が深いのか負けず嫌いで悪く言っているのか良く分からない。
「リュミエールとマルセルの話を聞けば、何かしら見えてくることもあるだろうしな」
 オリヴィエはぴたりと動きを止めた。ジュリアスは待たない。ハイヒールの音を響かせて広がった差を詰める。
「……あのさ、リュミちゃんが素直に帰ってくると思ってる? 消えちゃったのはあの人の護衛艦なんだよ」
 ジュリアスは今度は歩を止め、振り返った。
「残ってどうするというのだ。これほどの大事では、出来ることなどあるまい」
 オリヴィエは大げさに溜息をついた。
「何も出来ないときにはただ寄り添って一緒に悲しむのがリュミエールの信条でしょ。アタシは帰ってこないと思うんだよねえ」
 ジュリアスはたちまちのうちに、何を賭ける、と持ち掛けにくいまでの渋面になった。
「酸素や燃料が尽きるであろう」
と、幾分弱弱しく言った。
 守護聖が公務で外へ出るとなったら、幾重にも安全策がとられる。かなり多めに積んでいるはずだ。自身が出張することこそ稀だが、ジュリアスが知らないはずはない。
 オリヴィエは無言のまま肩をすくめた。
「……しかし、もしも勅旨ということになれば、よもや拒否するわけにはいくまいな?」
 苦々しくジュリアスが言い、オリヴィエは答えのかわりに短く口笛を吹いた。

 扉が開く前から喧騒は耳に届いた。眠りを覚ますほどに響いた。マルセルはそっとベッドから抜け出した。悪いことが起きたみたいな雰囲気じゃないみたいだけど、と思いつつ髪を束ねる。リボンを三重に巻いて花結びで終える。慌てる必要はない――はずだ。
 灯りをつける。様子を見に行くなら、着替えなくてはならない。よその家の家具を開けて回るのって、いけないことしてる気分だな、と彼は心中に呟く。自分のためのものしか入っていないのだとしても。気ぜわしいノックの音がした。
「はい」
 マルセルは半ば無意識のうちに答えた。ドアが大きく開かれた。
「夜分にすまないな」
 マルセルはぽかんと口を開けた。芝居がかった仕草で戸口に手をかけて、赤毛の先輩がそこにいた。
「オスカー様!……どうしたんですか?」
「内密に話したいことがある」
 オスカーは部屋の中に進み入りながら、ちらりと戸口を振り返った。衛兵の手で、丁寧に扉が閉められた。
 マルセルは溜息の気配を頭上に感じた。
「どうかしたのはお前の方だろうが、このやろう」
 オスカーはひどく声を潜めて言いながら、マルセルの髪を撫でた。マルセルは瞬きしながら男を見上げた。
 オスカーは、仲間内では年少者をガキだボウヤだとからかうけれど、自分たちを神と見做す人々がいるところでは、子供扱いしたがらなかった。それはマルセルに、カティスがオスカーを扱ったやり方を思い出させた。マルセルの目の前で、寝たふりしていた彼の頭上で、あるいは扉の向こうで。
「まったく、こういう時は言われなくても引き上げるもんだ」
 余人の耳目を排したことを確信したオスカーは、無遠慮にソファに身体を投げ出した。
「補佐官殿は血相を変えて飛び込んできたぜ」
「ロザリアが?」
 マルセルは声を上ずらせて聞き返した。
 クールで、マナーの鬼でもある彼女が自分のために動揺しただなんて信じられない。
 特別な好意をかけられたいと思うのが、彼女に「自分の」お姉さんでいて欲しいという欲求に根差しているのか、違うものなのか、まだよく分からないが。
「……でも何でオスカー様の部屋に」
「ジュリアス様の部屋だ」
 オスカーはくすりと鼻にかかった笑い方をした。
 それは恋だと断定されても否定されても、頭にくるだろうということがふたりともに分かった。
「お前を連れ戻すよう言われている。すぐに出発の準備だ」
 オスカーは腰を上げた。
「まだなにも分かってないのに!?」
 マルセルは弾かれたように立ち上がって抗議した。
「視察の目的はそれじゃなかっただろう」
「オスカー様!」
「今、研究院を呼んでいるところだ。現地政府には立入り禁止措置をとるよう勧告した。巻き込まれた人間がいないかも、調べるようにしてある。上空では派遣軍が警戒と進入防止にあたる。俺も一応現場を見たらすぐに帰るぜ」
 オスカーは開け放たれたままのクローゼットから見覚えのある服を取り出してベッドの上に放り投げ、ベッドの下の旅行鞄を引っ張り出し、そうしながらこともなげに言った。
「じゃあ僕も一緒に行きます。オスカー様も一緒じゃなきゃ嫌です」
「それはあんまり、いい考えとは思えないんだがな……」
 オスカーは細くカーテンを引いて外を覗き見た。わっと歓声がわきたった。マルセルは不思議そうに傍らを見上げた。自分が到着したときにも、それは敬意深く歓迎されたが。
「なんだかすごい歓迎ぶりですね」
 オスカーはかすかに口元を歪めた。
「……故郷だからな。感傷的になるのが嫌でお前に押し付けた。こんな事になるとは思わなかったんだ」
 そっと少年を見下ろした。
「悪かったな」
「そんな、オスカー様」
 マルセルはかぶりを振った。
「僕、すてきな星に来ることが出来てよかったです」
 オスカーは苦笑した。
 これを、追従の自覚もなくやられるから参る。
「お前はいい子だな、マルセル」

 引き出された侵入者はこどもがふて腐れたような顔をしていた。
「まぁ、お珍しいお客様ですこと」
 ロザリアはちっとも笑えない口元を隠すように扇を翳して言った。
「身体検査でこのようなもので出てきたものですから」
と、詫びるような口調になって警備兵は銀の盆に載せた封筒を差し出した。
「ナイフを」
 ロザリアは医者がメスを要求するような決然とした仕草で女官に指示した。
「おい、女王宛の親書だぞ!」
と、銀髪の侵略者――もとい、今は単に侵入者が怒鳴った。
「わたくし陛下に内覧を許されていますの」
 ロザリアは声高に言い返した。女王に宛てられた文書にあらかじめ目を通すことは、普段から認められている。いかなる重大な文書でさえ、ラブレターでさえ。
 まして男が前科者である以上、直に聖慮を仰ぐなどということは論外だ。
 ロザリアは女官からペーパーナイフを受け取り、封を切った。
「まあ」
 思わず唇をほころばせた。
 栗色の髪のアンジェリークの筆跡は、丁寧で読みやすいけれど、今でも少しこどもっぽいくせがある。それが微笑ましく懐かしい。
 内容がまた、健気だった。
 ――常日頃から多大なる助力を賜り、お慕い申し上げている陛下の大事に、出来ることがあればどうぞお申し付け下さい。くわえて私の腹心に、ささやかなりと贖罪の機会を与えていただければ幸いです。
 情報が早すぎるのは気になったが。
 ロザリアは丁寧に便箋を折りたたんで封筒に仕舞った。人に見せたり読み上げたりすることは許されていない。ジュリアスを見た。
「猫の手も借りたいと言っていい状況ではあると思いますわ」
 確かに、と光の守護聖は頷いた。
「リュミエールを連れ戻さなければならない」
 それにオスカーとマルセル、と付け加えた。
 いざ故郷を目にしたオスカーが、本当にマルセルを連れ帰るだけで済ませられるのか、今になって危ぶむ気になったらしい。
 ロザリアはゆっくりと頷き返した。
「援助を受け入れるわ。縄を解いても宜しくてよ」
 衛兵の困惑顔を見ながら、侵入犯を軽く咎めた。
「貴方も正当な用事があるなら、正面からいらっしゃれば良かったのに」
「あんたらが結界で魔導を封じてるから、俺は忍び込む羽目になったんじゃねえか」
 アリオスは縄目新しい手首を擦りながら顔をしかめた。
 ロザリアは首をかしげた。
「正面からとは、正門で、衛兵に要件を申告して取次ぎを願うことを言うのだ。魔導は関係ない」
 ジュリアスが間に入って言い聞かせるのを聞きながら、あらでもその場合は門前払いを食らった可能性も高いわね、むしろいい気味だけど、これから多少調節をつけなくてはならないかしら、とロザリアは思った。
「アンジェリークには陛下のお名前で礼状を出します。もし貴方の行動に問題がなければ。もっとも、ご親筆は期待なさらないで頂きたいわ」
「で、俺は何をすればいいんだ?」
「現時点で外界にいる守護聖をただちに連れ戻してちょうだい」
 ロザリアは少し考えてから念のため付け加えた。
「傷はつけないようにね」
 扇を弄びながら、考える。
「途中観測したことについては、後で詳細に報告してもらいたいわ」
 少しずつ言葉を付け足していくのを、優柔不断な買い物のようで気恥ずかしく思いながら、最後にもうひとつだけ言い足した。
「異変に無理に近づいては駄目よ」


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