l'oiseau sur la branche

 ずっと後になって、客観的に言うなら、自分はあのころ人間関係に悩んでいたのだと説明できるようになった。だけど、実際に女王試験を受けている時にはそんなことは全く考えもしなかった。
 上手くいかないことはたくさんあったし、しょっちゅう苛々してたし、でも厳密に言えばやっぱり悩んでたわけじゃないと思うんだよね。考え込んだり項垂れたりはしなかったから。最善の答えかどうかは別として、次に何をすべきなのかいつも分かっていて、迷わず進んでいけた。
 その人はだからこそ、自分を気に入ってくれたのだった。
 いつも自信に満ちているところが見ていて気持ちいい、と彼は言った。努力家で負けん気が強くて後ろを振り返らないところが好きだ、と。随分と自己愛めいた言い草だったとは、だいぶ時間がたってから気付いた。
 恋に破れたときには、お嬢ちゃんの魅力が分からないとはどうしようもない男がいるもんだ、と笑った。立ち直るまでずっと側にいてくれた。ワタシは大丈夫だ、とあらゆる手段で思わせてくれた。あの時。あの時、ちょっとでも間違ったらワタシはオスカー様に恋をしていた。
 なんて危ない橋を渡っていたんだろう。



 紅茶よりはコーヒーが好きだし、どうしても紅茶ならうんと濃いストロングティーがいい。
 けれど、朝の打ち合わせのときだけは、つきあいで優しいミルクティーを飲む。
 レイチェルはティーカップ越しにアンジェリークを見た。丁寧に梳られた栗色の髪が、朝の光に天使の輪を浮かび上がらせている。薄くマニュキアに色づいた指先も濡れたように光っている。出かける前に塗るのを忘れないようにと、リップクリームがテーブルの上に置かれている。
 彼女は何事にも全力だから、とても分かりやすい。経験の少ない自分だって分かる。ああ、恋をしているのだと。今の彼女は、少しでも可愛くなりたくて一生懸命だ。……アンジェリークなら何もしなくたって可愛いのに。
 レイチェルはカップを置き、手帳を開いた。
「それじゃ、今日の予定を聞かせてもらえる?」
「クラヴィス様とランディ様に育成をお願いしに行くわ」
 中長期計画から週間予定を立て、前夜のうちに微修正。一日の行動はとっくに決めているはずなのに、聞くたび彼女は考えるように首をかしげる。
「それから、あの……あなたと過ごすことは、できないの?」
「ご指名で仲介ってこと?」
 レイチェルはまばたきして聞き返した。
 あの業務はあんまり好きじゃないんだけどなぁ。まあいいや、きっとロザリア様もお好きじゃないもんね。
「ううん、そうじゃなくて」
 アンジェリークは言いよどんで俯いた。レイチェルは手帳のページを音立てて捲る。うん、今のところすべての項目で予定はクリアしてる。息抜きしたってダイジョーブ。
「いいよ、モチロン。どこで会う?」
 アンジェリークは、ほっと小さく息をついた。
「レイチェルは、どこがいい?」
「よっぽど辺鄙なところじゃなかったら対応可能だけど。15時くらいだよね。直前までは研究院にいることになるかな」
「迎えに行くわ。広場で、お茶にしない?」
 彼女は両手を合わせ、花がほころぶように笑った。レイチェルは予定を記入しながら口角を上げる。ロザリア様の口癖がうつりそう――ワタシの可愛い陛下。
「イイね、楽しそう」



 天使の広場には柔らかな光が降り注いでいた。
「このお店よ。いつも気になってるんだけど、皆様デートのときは入らせてくださらないの」
 木製のドアを指差して、アンジェリークが振り返った。
「レイチェルは?」
「ワタシも初めて」
 レイチェルは答えながら中を伺った。女の子好みのメニューが少ないとか、風紀が悪いとか、理由があって避けてたわけじゃないみたいだけど。
「普通のカフェ、だよネ?」
「入ってもいいのよね……」
 2人は顔を見合わせた。
「よし、行こう」
 レイチェルは先に立ってドアを押した。
 木肌色の家具に白とグリーンを基調にしたファブリック。テーブルの7割は埋まってる。客は自分たちより少し年上の人たちのように見えるけど、アルコールの匂いはしない。うん、アンジェを入らせても構わないだろう。
「わぁ、かわいいお店ね!」
と、アンジェリークが声を上げた。いつだって衒いなく可愛いとはしゃぐアナタこそが可愛くて、素敵ねと褒めるものを次々に見つけ出すアナタが素敵なんだよ、とレイチェルは思う。思うだけだ。
 2人は窓際の丸テーブルに向かい合って座った。オーダーはブレンドコーヒーとオレンジフレーバーの紅茶。ウェイターが行ってしまってから、あら、とアンジェリークは青緑の目を瞬かせた。
「研究院でもコーヒーを飲んでたわ。胃をいためてしまわない?」
「全然」
 レイチェルは肩をすくめた。
「てゆーかそれはジュリアス様に言ってあげて」
「ふふ、そうよね。エスプレッソってすっごく苦いんだもの。私、あんなものだとは知らなかったわ。ジュリアス様、今はもうそんなに怒られないし、怖くなくなったんだけど、お茶をご一緒するのだけは気が重いのよね」
「そんなの付き合って飲むことないんだよ。アナタが身体を壊したら、ワタシはジュリアス様が相手だって怒鳴り込んじゃうんだから」
「まあ、それは大変だわ」
 アンジェリークがくすくすと笑う。
「そういえばオスカー様も、お店だとカプチーノの方が高いから気兼ねで困るって言ってたなぁ。そういう時はブレンドだとか適当に頼むんだって」
 レイチェルはカップ越しに彼女の顔色が曇ったのを見て取った。桜色の唇が開いて、小さく揃った歯が軽く下唇を噛む。
「……レイチェルは最近、オスカー様と仲がいいのね」
「そうかな?」
 首をかしげて思い返す。最近どうこう、ということはない。たぶんアルカディアが狭いから、人目に付きやすいだけ。そして自分たちは、他人にどう思われるかということをあまり気にしない。正確には、気にしないと思いたがっている。そんなものに振り回されるもんか、と。
「あのね、気を悪くしないといいんだけど、もしかしてあなたたちは……えっと……」
 アンジェリークは言葉につまり、俯いた。
 赤くなった耳のふちをレイチェルは視線でなぞる。これはもう少し黙って待てば「ごめんなさい、なんでもないの」とでも言い出すんだろうな。
 知り合って1年と少し、予測がつくことも多くなった。それでもデータの集積はあくまでアンジェリークの近似値しか取れない。
「つきあってるのかって意味? まっさかー!」
 レイチェルは笑い飛ばしてやった。
「ワタシたちは対象外って、あれだけはっきり抜かしたヤツだよ」
 傷ついたような顔色には気づかない振りで続ける。
「ワタシにとってもトーゼン対象外だけどさ」
 すごく機嫌がいいらしいときに、彼は君が素敵なレディになるのが楽しみだともらした。それで自分はまだ大人の女性ではないのだと分かった。だったらなんで名前呼びするの、と聞きそうになって、そんな自分にびっくりしながら思いとどまった。当たり前のことをされているだけのはずなのに、何を驚いてるんだか。オスカー様は、自分のルールを押し通すのが、本当に上手い。
「そうだな、親友っていうのが近いかな」
 どういう関係かと聞かれたら、あまり深くは考えずに親友なんだと答えるのが習慣になった。
 あんな男を友達だと言ったならば、ボーイフレンドかと聞き返されるのが分かりきっている。ううん、そうじゃなくてただの友達ダヨ、なんていちいち訂正するのはかなりめんどくさいじゃない? それに、ただの友達、という言葉は彼にそぐわない。あんな特別な人。あんな、自分を特別だと思っている人について、ただの友達だなんて言うのは違和感がある。ヒドイことのような、気がする。
「一番の親友はもちろんアナタだけどね!」
 レイチェルはウィンクで話を終わらせた。
「ありがとう。私もレイチェルは一番大切なお友達だわ」
 アンジェリークはおっとりと微笑み返した。テーブル越しにそっと身を乗り出して、囁いた。
「だから、秘密は持ちたくないの」
 頬に触れんばかりの場所で揺れる艶やかな栗色の髪。柔らかな曲線を描く唇。レイチェルはそれを見る。ワタシが全人生で出会う、いちばんかわいいコってアンジェだと思うな。この先も含めた全人生で。



 いつのころからか、彼は日の曜日の夜、新しい宇宙の宮殿にやってくるのが習慣になった。
 きっと無断外出の後、不届きな気分と空気を纏いつかせたまま帰るのが躊躇われるのだ、とレイチェルは思っている。時には聖殿に直行みたいだし?
 お互いに明日がある。だから、ナイトデートが長引くことはない。
 それに時間がいつだろうと、自分が超安全だってことはよく分かっている。
 あとで助けを求められたら、少しだけ嘘をついてあげる。
(ええ、ご視察にいらっしゃいましたヨ。いつ来たのか? さあ、分かんないな。ワタシも忙しくって。気付いたらいたんだ)
(ええ、いっしょにお食事しました。ワタシ、お引止めしすぎちゃったんですかぁ?)
 訪問自体は、いつも事実。
 その習慣のままに、彼は来る。
「太陽の公園のカフェテリアに、予約を取った。遠い分すこし帰りは遅くなるかもしれないが――この俺と一緒なら、何の心配もないだろう?」
 ぱちりとウィンクなどしてみせる。
 まったくその通りだ。
「オッケー、今行くよ」
 レイチェルは親指を立てた合図を返し、ハンドバックを取りに私室へ駆け戻った。
「時間が出来たら乗馬を覚えないか」
 馬車に乗り込んだところで、会食の相手が言い出した。
「騎馬で出かけるのも気持ちいいもんだぜ」
「時間が出来たらね」
 しまった、これってほとんど断ったのと同じじゃない? と自分の答えの皮肉さに気付く。時間が出来ることなんてあるだろうか。その頃にまだ、こんな関係が続いているだろうか。それはほとんどありえないことのような気がする。……隣で笑っているのは、奇跡のような人だから。
 カフェテラスへは程なく着いた。
 好きなものを頼めと言われたら、遠慮なくそうするようにしている。
 グリンピースの冷製ポタージュを頼んだこともあるし、たこ焼きにからしマヨネーズは必須だ。
 もしもオスカー様に恋をしていたら、とてもこんな風にはくつろげなかっただろうと思う。ボリュームたっぷりの羊肉料理にかぶりついて、なんだって好きなことを言い放って、かなりバカバカしい部分もあるこの一週間の話を聞いて、笑い合うことは出来なかっただろう。ワインを舐めようとしてデコピンくらったり、嫌いなものを押し付けあったりして、目を見合わせるようなことにはならなかっただろう。
 もしもオスカー様に恋をしていたら、心が震えてとても苦しいはずだ。微笑みかけてもらいたくて必死になるだろうし、胸が詰まって食事もおいしくないに違いない。
 もしもオスカー様に恋をしていたら。
 もしも。
「次の水の曜日の夜は空いているか」
 レイチェルは顔をあげた。
「空けられなくもないけど……ナニ」
「街で雪祈祭という催しがあるんだ」
「お祭〜?」
「おい、皺がよってるぞ」
 男の人差し指の先が軽く鼻の根元に触れ、彼女は眉間から力が抜けていくのを感じた。はっとしていっそうしかめつらしい表情を作る。
「この地の文化に理解を深めるのも、大切なことだと思うぜ」
 ふだんの行状が行状だから、言い訳くさい言葉にも聞こえる。が、なんだかんだ、住民の間に入っていって、情報収集してくれているのも事実だった。
「うーん、でも、アンジェが一緒に行きたがると思うんだよネー」
「君と」
「アナタと!」
「そうか?」
 彼はレモンシャーベットにスプーンで切り込みを入れ、
「俺の方でも、お嬢ちゃんを誘いたがってるヤツを何人か知っている」
 まるでそれが何かの免罪符になるみたいに、悠々と微笑んで言った。
 レイチェルはスプーンを置き、発泡水のグラスに手を伸ばした。
 アナタが他の誰かだったら。誰でもいい、他の誰かだったら。
 ワタシは、あの子の魅力が分からないなんて、どうしようもない男だと断罪できたんだケドなあ。


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